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ぷしろぐ >> 登山編
【 カ テ ゴ リ 】


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May 21, 2016


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

例年この時期はトミーとスケジュールを合わせて北アルプス界隈に雪山ハイキングに出かけるんだが、今年はどこの山も雪が少ないようだ。西穂高か槍ヶ岳を想定していたが、雪山歩きを楽しめないんなら既に一度登ったことのある山々にわざわざ出かけることもないだろう、というトミーの判断で、今年は趣を変えて白山へ。


早起きして東京を出発し、七時間かけて登山口まで移動、それから五時間ほどかけて室堂まで登って一泊、というプランを提案したところ、ドライブ担当のトミーからの返事は「勘弁してくれ」。

そんなわけで白峰温泉の旅館に一泊した私たちは、〇六〇〇時に旅館を出発して別当出合を目指す。例年この時期はまだ市ノ瀬までしか道路が開通してないんだが、今年は雪が少ないので別当出合まで車で乗り込める。それに五月中はまだそれほどハイカーもやって来ないだろうし、静かなハイキングが期待できる。何から何までいい巡りあわせじゃないか。


別当出合には「上の駐車場」と「下の駐車場」がある。「下の駐車場」は、「上の駐車場」沿いに走る道から見下ろすと本当にかなり下の方にあるので、全てのハイカーたちは出来ることなら「上の駐車場」に車を置きたいところだろう。私たちが〇六五〇時くらいにそこに着くと、「上の駐車場」にはまだ七、八台分ほどの空きがあった。

ちなみに下山して来たときには「上の駐車場」には二、三台ほどの空きしかなくて(つまりタイミングさえ合えば、そちらに止めることも不可能でなはいにせよ)、「下の駐車場」に何十台も車が止められていたから、まぁ、「上の駐車場」に車を置きたければ、 私たちのように平日朝に出発するスケジュールを組む必要があるってわけだ。まだ五月なのに!


ちなみに、気象予報によれば山頂付近の気温は二、三度ってところのようだ。つまり、一五〇〇米ほど標高の低い登山口の気温は一二、三度ってことになるはずなんだが、既にかなり暑い。

トミーはソフトシェルなんぞ着込んでいるようだが、私は一度は着てみた長袖シャツをすぐに脱ぎ去り、タンクトップ姿で行動することにする。


二人ほどのハイカーが私たちより先に駐車場を出発するのを見やりながら身支度を整え、それから少々車道歩きをして登山口前にそびえ立つ大鳥居の前まで移動する。

そこにある便所でトミーが小用を足している間にも一人のハイカーが鳥居をくぐって出発して行った。人気の山だとは聞いていたが、平日にも関わらず結構な数のハイカーがやって来ているようだ。


〇七四〇時に鳥居をくぐり、右手の砂防新道へと向かう吊り橋には目もくれずに観光新道の登山口から出発。





歩き始めて五分も経たないうちにトミーが行軍停止を要求する。もちろんクソ暑そうなご自慢の真っ赤なソフトシェルを脱ぐためだ。


観光新道は砂防新道より見晴らしがいい、という情報を得て、こっちを行くことにしたんだが、歩いてみたらどうってことはない、ありふれた登山道だ。

噂に聞いていたとおり階段が多いことにもやや閉口したが、右手には常に舗装道路が見えるうえに、たまに車のエンジン音まで聞こえて来るのは興ざめだ。





登山口から一時間ほど登って越前禅定道との合流点(別当坂出合)に到着。





一〇分ほど休憩して〇八五〇時に出発。

いやもう、とにかく気温もさることながら、このコースは日当たりが良すぎてマジでクソ暑い。二日間の行程で二.五リットル必要だとはじき出して持って来た水分が、みるみる減っていく。


一〇〇五時、猛暑が和らぐことはないままに雪道が登場。





満を持して今回新調したNEOS製のオーバーシューを取り出す。登山靴の上から履けるうえに底にはスパイクピンが穿たれたスグレモノだ。





つまり、私の愛用しているメレルは雪の上ではツルツル滑るうえに、メッシュ部分から雪が浸み込んで来るので、私はいつも両足の指先が凍傷みたいになっちまうんだが、こいつがあればそれらの問題は全て解決ってわけだ。

ただし、一般的な登山靴より外周が二回りほど大きいので、その上からアイゼンを装着することは出来ない。


さらに二○分ほど歩いたところで、殿ヶ池避難小屋が見えて来た。手前の急坂にはふんだんに雪が残っているので、ストックのない私は、尻滑りのブレーキ用に持参したピッケル片手に登る羽目に。





一○四○時、殿ヶ池避難小屋着。





日当たりのいいベンチに腰かけて、一人でカップ麺など啜っていた初老のハイカーが、この先の道に雪はあるのか?なんて話しかけて来た。私たちもこれから登るところなので分からない、と答えると、私たちに着いて行くという。

何のことはない、雪山装備を何一つ持参してないので、スパイクブーツ(私)や軽アイゼン(トミー)を持参している私たちの踏み跡を辿ろうって魂胆のようだ。

私たちの歩くペースは遅い、ということを念押ししたうえで、一一○○時に避難小屋を出発。


四〇分ほど歩いたところで現れた雪の残ったトラバース。





踏み跡はしっかりついてるが、はるか下まで続く斜面には滑落を止めてくれそうなものが何もない。万一のことを考えて、トミーが軽アイゼンを着けている間に私はピッケル片手にクリアしたが、例の初老のハイカーは何とストックと夏靴だけで颯爽とクリアしてしまった。うへー、なかなかやるじゃないか。


その初老のハイカー氏は、先頭を歩いていた私よりも後ろを歩いていたトミーとの会話を楽しんでいたが−と言うよりも、そのハイカー氏は全般的にごにょごにょ喋って何を言ってるのか分からないので、私は出来るだけ会話に参加しなかったのはここだけの話だ−後でトミーに聞いたところでは、白山にはこれまでもう何度も登って来たかなりのベテランハイカーらしかった。

はじめはただの準備の悪いマヌケなハイカーだと思ったが、実はかなりのキレモノだったってわけだ。


一二一○時、砂防新道との合流点でもある黒ボコ岩に到着。





そこから木道を経て雪の積もった弥陀ヶ原へと進む。





前方にそびえ立つ御前峰。





日帰りプランでやって来た初老のハイカー氏とはここでお別れだ。


弥陀ヶ原を渡り切って最後のハイマツ帯の登り。





何だかんだで炎天下をもう五時間以上歩いている。一泊分の荷物の重量もあって、この最後の登りがマジできつかった。


一三〇○時、ようやくビジターセンターに到着。





建物の中に入ると、三人のハイカーがテーブルの周りに置かれた椅子に座って寛いでいた。私は無人のカウンターに置かれたブザーを鳴らしてスタッフを呼び、予約済みであることを伝えてチェックインの手続きをする。

スタッフがやって来たのをいい事に、休憩組のうち二人のハイカーが登山記念のバッジを買っていた。こういう場合は、「そんなもの集めてどうすんだ?」と心の中で思ったとしても、口に出して言うべきではない。


スタッフに確認したところでは、本日の宿泊客は私たち二人だけだと言う。当日予約は受け付けてないはずだから、貸切確定だ。一昨年は白馬山荘を貸切にしてやったが、それも含めて、つくづく私たちは山へ出かけるべき最良のタイミングを心得たハイカーだと感心せずにはいられない。


ところで六月いっぱいは売店も食事の提供もなし、と聞いていたが、飲み物やカップ麺だけでも売られているのはありがたかった。ここに来るまでに二日分のペットボトルをほぼ空にしちまった私は、早速、飲み物と、それからおやつ代わりに計画外のカップ麺を購入した。

数百人が宿泊可能とされる「白山荘」なる薄暗い施設に私たちを案内したスタッフが、注意事項をひと通り暗唱しつつ私たちが自由に使える一画を指示してからいなくなったのを見計らって、私たちはそこに積まれていた就寝用のマットの幅の狭さに驚愕し、絶対にハイシーズンには泊まりに来るものか、という意見で一致した。それから私は持参したストーブで湯を沸かし、先ほど調達したカップ麺を平らげた。

トミーは行動食のようなものをモソモソ食っていた。カップ麺の方が絶対に美味いのに・・・。


一四〇〇時に大汝峰に向けて出発する。いつの間にか霧が出て来た。





計画では、白山三峰とされる御前峰、大汝峰、剣ヶ峰を踏破して下山する予定だが、剣ヶ峰にはそもそも登山道がないので、実際にそこに登ることが出来るかどうかは現地を見て判断するしかない。

初日に大汝峰に登りつつ剣ヶ峰の様子を偵察しておき、可能なようなら二日目の「お日の出」を御前峰で鑑賞した後に剣ヶ峰の山頂に立ち寄るというのが当初の目論見だったが、どうやらここまでの登りのどこかで、二〇キロ近い荷物を詰め込んだバックパックを背負い直したときに背中を捻るか何かして痛めちまったようで、その辺を動かすたびに激痛が走る。こうなると、剣ヶ峰のような「要注意ルート」を登るというのは少々「面倒」だ。


そんなわけで「剣ヶ峰偵察プラン」については、熱心に取り組む意欲を失いつつ大汝峰へと向かったわけだが、結果的にその偵察プランに関する私の内なる葛藤はまるで不要なものだった。霧が周囲を覆ってしまって、剣ヶ峰はおろか、自分たちの進行方向五〇ヤード先すら満足に見えなかったのだから。





出発段階で覚悟はしていたものの、見通しが悪いうえに、この時期、大汝峰まで足を延ばす感心なハイカーはいないと見えて、雪の上にはまるで踏み跡がない。私たちは事あるごとに立ち止まって、トミーが持参したGPSの情報を参照しなければならなかった。雪道を歩かされるのは承知のうえで、お互い足周りに不安を抱えながらの出発だったが、本格的なアイゼンを必要とするようなヤバい箇所が最後まで現れなかったのは幸いだった。


一五〇五時、散々道に迷った挙句に、ようやく「お池めぐり分岐」に到着。





トミーのGPSがなければ絶対に辿り着くことは出来なかっただろう。


五分も歩けば標柱が何本か立つ「大汝峰下の分岐」。





うっすらと見える黒い塊が大汝峰だ。


殆どの荷物をデポして山頂を目指す。結果論から言えば、そこから山頂まではルート上に雪はなかった。霧のせいで何度も偽のピークに騙されたのにはムカついたが・・・。


一五四○時、見晴らしもクソもない山頂に到着。





祠を取り囲むように組まれた石垣で風をしのいで休憩しがてら明日の行動についてトミーと話し合う。つまり、東京までのロングドライブも待ってることだし、御前峰で「お日の出」を堪能したら、剣ヶ峰なんか放っといて砂防新道経由の最短経路でとっとと下山しちまおうぜってことだ。

一〇分ほど話し込んでから石垣の外に出てみると、さっきまでが嘘のように霧が晴れて、周囲が見渡せるようになっていた。


右が御前峰、左が剣ヶ峰。





売店が閉まってしまう一八〇〇時までには何としても小屋に帰り着きたいというトミーの揺るぎない意志のもと、山頂を一六〇〇時に出発。

往路と打って変わってルートは明白だ。





いやいや、目的地が視認できるというのは本当にありがたい。





一七二〇時には「白山荘」に帰着。





各々閉店間際の売店で必要な買い出しを済ませたら、のんびりと夕食の支度などに取り掛かる。

小屋の中でいつもの鹿児島ラーメンを手際よく完成させた頃に、トミーが日の入りを撮影する、と言って小屋を出て行った。小屋の外は寒くてどうしても小屋の中でラーメンを平らげたい私は、ラーメンをひと口啜っては撮影のタイミングを見極めるために外に出るなどして何往復もする羽目に。


便所のすぐ横で撮影に成功した「日の入り」のワンショット。





二〇〇〇時には消灯だというので、私は早めに明日の支度まで済ませ、一九四五時までには、ほかに宿泊客がいないのをよいことにマットの上に何枚も好きなだけ重ねて敷いた毛布の中にもぐりこむ。

トミーは消灯してからも荷物をガサゴソやりながら、ヘッドランプの電池が切れたとか何とか言いながら騒いでいた。


翌朝は〇二三〇時に起床。

日の出が〇四三〇時で、山頂までの標準コースタイムが四〇分だというので、〇三三〇時には出発して早めに山頂に到着し、撮影準備含めて万全の体制でそのときを迎えることにする。


小便のために小屋を出たときに、試しに小屋の前に少しだけ積もっていた雪を小屋で借りたサンダルで踏みつけてみると、夜の間にガチガチに凍ってしまっている。念のために軽アイゼンをバックパックにしのばせ、ピッケルもバックパックに括り付けてから、予定通り〇三三〇時には出発。

私たちと前後して、小屋のスタッフらしき人物が一人山頂の方へと歩き出したが、すぐに引き返して行った。忘れ物でもしたのだろうか。


出発直後の平地の部分(室堂平)は凍った雪に覆われていたが、登り斜面に差し掛かると夏道が露出していた。防寒のために何枚も重ね着している私は汗をかきたくないので特別ゆっくり歩いて、〇四一五時、山頂に到着。

空は私が想定していたのよりもはるかに白んでしまった後だった。北岳で目にしたこういうやつを鑑賞したかったんだが・・・。


そうは言っても「ご来光登山」で名高い白山だ。「お日の出」の瞬間を目にしつつ、ついでにその神々しい眺めを写真に残すことが出来れば、何ひとつ思い残すことはない。

撮影スポットを決めて準備を済ませたら、あとは太陽が顔を出してベストショットが撮影できる瞬間を待ちわびるのみだ。もっとも私のカメラは間違っても一眼レフだとか何だとか、そんな高級なものではないので、撮影モードを「夕焼け」に設定して三脚にセットしてしまえば準備は完了だが・・・。


岩なんかにもたれながら、遥か彼方、地平線上の太陽が顔を出しそうな辺りを注視していると、一人のハイカーが登場して私とは離れた場所でスタンバイしていたトミーの近くに陣取った。トミーの証言によれば、そいつは一人で夜通し登って「お日の出」を拝みに来た、少々キュートなついでに超人的な山ガールだった。

その後、小屋のスタッフらしき一人も山頂に到着したので、本日の観客は四名ってわけだ。小屋が貸切だから山頂も当然貸切になるもんだとばかり思っていたが、考えが甘かった。


いよいよそのとき。





まぁ、何と言うか、どこかの山で見たことのあるような「お日の出」だった。


ここからは私とトミーで思い思いの撮影タイムだ。

大汝峰。





別山と室堂ビジターセンター。





小屋のスタッフらしき人物は早々に下山し、その後、山頂碑の方にやって来た例の山ガールを、彼女のカメラで撮ってあげるようにトミーに促して、その作業が済むと彼女も早々に下山してしまったので、ようやく山頂は私たちの貸切タイムだ。





思えば(いつもはわざわざ朝から登ったりしないので)朝焼けの山頂碑を囲んで記念撮影なんて初めての事なんじゃないか?


何人かの「お日の出に間に合わなかった」ハイカーたちと入れ替わりに、〇五二五時に下山開始。

二五分で小屋前に戻って、外のテーブルで朝日を浴びながら朝食。それから小屋に戻ってゆっくりパッキングなど済ませ、〇七三〇時には出発。

少なからぬハイカーとすれ違いながら弥陀ヶ原を歩く。明るくなってから出発して、もうここまで登って来たってことだろうか。


三〇分で黒ボコ岩に到着。帰りは砂防新道だ。





昨日に負けず劣らず強烈な太陽光線が照りつける猛暑のなか、登って来るハイカーをひとり捕まえて、砂防新道ルートの雪の状況をインタビューすると、全体の三割ほどが雪道だ、と言う。

あぁ、たったそれだけか、と思ったが、雪が残された部分は、ほぼ上の方に集中してるので、しばらくは雪道ばかり歩いてる気分になる。だいたい何だって陽射しだけは強烈なのに、雪はちっとも溶けやがらないんだ?


途中で現れた急斜面。ピッケルを使って華麗に降下。





五分ほど歩いてから右手だけ手袋をしてないことに気付く。荷物を下ろしてトミーを待機させたうえで引き返したんだが、例の急坂の終点まで戻っても手袋は落ちてない。

何となくそんな気はしてたが、坂の上でピッケルを取り出すときに外してそのまま置き去りにしちまったようだ。


ジャージ姿の高校生をはじめ、何組もの「登りの」ハイカーたちとすれ違いながらトミーが待ってる地点まで引き返し、自分のピッケルを手にした私はそのまま例の急坂へとUターン。

四名の中学生らしき少年らを引率していた妙齢のご婦人が、さっきから何度も挨拶を交わしている私がまた姿を現したので、何をやっているのか?ともっともな疑問をぶつけて来る。

その一団は一団で、例の雪のついた急坂を前にさっきから立ち往生しているように見えなくもないんだが、まぁ、どうでもいい。私は正直に、手袋をこの上に置いて来ちまったんです、とご婦人に告げ、休む間もなく、自分の帰りのことまで考えてキックステップで立派な足場をこさえながら、その雪の急坂を一気に登りきる。

ふと途中で振り返ると、その私のこさえた足場の恩恵にあやかりながら、例のご婦人方が私の背後にぴったりつけて鬼の形相で登って来ていたのには、さすがの私もビビった。


思ったとおり、ピッケルを出した辺りの地面にポツンと落ちている手袋を発見した私はそいつを回収し、すぐさま、さっきこさえた足場を使って雪の急坂を一気に下る。要するに、私は帰りのルートのなかで最も面倒な、その雪の積もった急坂を一往復半させられたってわけだ。


それにしても初日に背中を痛めた私は、ソリを使った尻滑りになんて、もはや取り組む気力もなかったが、その「尻滑りのブレーキ用に」持参したピッケルは、正しい使い道において、終始、大活躍だった。


トミーと合流して行動を再開する。トミーはへっちゃらな顔をしているが、汗かきで暑さに弱い私は、もうきつくてきつくてたまらない。

何度も何度も休憩を要求しながら、〇九三五時に甚之助避難小屋に到着。





バックパックから「たけのこの里」を引っ張り出してトミーに振る舞いつつ、二五分ほど休憩。

そこから標準コースタイムによれば一時間ほどで辿り着くはずの、登山口の吊り橋にまで私たちが辿り着いたのは一二〇〇時のことだった。


登山口の休憩所には、行動中に暑さのせいで気分が悪くなって引き返して来たらしきジャージ姿の高校生が二人と、中年ハイカーが一人、思い思いのポーズでその苦しさを表現しながら休んでいた。

ちょうどいい時間帯にそこまで戻って来た私たちは、それぞれ昼食用に携帯していたラーメンをこさえてペロリと平らげ、その素晴らしい二日間のハイキングを締めくくった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




Feburuary 27, 2016


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

三年前の今頃、猛吹雪を前に逃げるように撤退した那須・茶臼岳に三年越しの再挑戦へ。


前回は、トミーに間違ったルートに誘導されたうえに吹雪でトレースが見る見る消えていく様子を目の当たりにして、登山口まで戻れなくなる恐怖を感じた「私の」主導で尻尾を巻いて逃走したわけだが、そんなのは今となってはただの笑い話だ。

偉大なるハイカー、トミーは、今やGPSという優れたデバイスを使いこなす道迷い知らずのハイカーだ。道迷いの心配さえないのなら、スタート地点から二時間ほどで着くとか言う茶臼岳の山頂など、気象条件が少しばかり悪くても私たちにとって容易くクリアされるべき踏破点ということになる。


あわよくば、夏山でのコースタイムが八時間ほどと言われる、大丸温泉を起点に茶臼岳に立ち寄ったあと、朝日岳から三本槍岳まで縦走する周回ルートも不可能ではないかもしれない。

私たちは〇七〇〇時に大丸温泉を出発する計画で合意した。


〇四〇〇時に私の自宅前に到着したトミーご自慢のRV車に乗り込んだ私は、午前中は天候に恵まれるという気象予報を根拠に、例の「周回ルート」が実現する可能性についてトミーに念押しをし、少々注意を要するとされる「剣が峰」のトラバースに関するレクチャをした。

私がインターネットで収集した情報によれば、夏山向けのコースが走るトラバースルートは、冬期には雪崩や滑落の危険があることから推奨されておらず、その一方で、雪が積もらなければとてもその上を歩くことは出来ないとされる「剣が峰」の山頂経由ルートを使うハイカーが一般的だ、とされているようだった。

ところで今年は例年に比べて著しく積雪量が少ないらしい。あれ?それって山頂経由のコースが使えないうえに、冬にはより危険とされるトラバースルートを通って行くしかないって事なんじゃないのか?


トミーの厚意によって助手席で仮眠しているうちに、トミーのRV車はハイウェイから下りて一件目のコンビニエンスストアの駐車場に滑り込んだようだった。私はトミーが買い物と用足しのために車の外に出てドアを閉めた「バタン」という音で目が覚めた。

たしか三年前に来たときは雪景色だった気がするが、今年はまるで雪が積もってない。三年前は路面が凍結していて、大丸温泉に着くまでに三台の車が路肩の溝にはまったり、ガードレールに突っ込んでいたりしたが、今年は平和なものだ。


車に戻って来たトミーが大丸温泉へと車を走らせているうちに、雪がちらちら降って来たが、全く大した雪じゃない。那須連峰の方を見やると、稜線をどんよりとした雲が覆っているのには閉口したが、気象予報によればじきに晴れるはずだ。


〇六四五時に大丸温泉の駐車場に到着。前回は猛吹雪にも関わらず、所せましと車が並んでいた記憶があるが、今回は一〇台かそこらってところだ。

まぁ、茶臼岳にしか登らないハイカーたちが、もっと遅い時間帯にやって来るのは不思議なことじゃない。


準備を済ませた私たちは、トミーのGPS情報と前回の記憶を頼りに、車道のゲート脇から〇七〇五時に出発。





実際には、トイレ右手の階段から行く方が近道だ。


何度か舗装道を渡らなければならないので、ひとまずメレルの上にフェルト底のオーバーシューだけを履いて出発したが、斜度のある雪道に差し掛かると、さすがにフェルト底では滑るので、途中で軽アイゼンを装着する。


何となく懐かしい感じのする笹薮を突っ切るように走るショートカット道を行く。





スタートからわずか二五分で、前回は何時間も歩いてようやく辿り着いたように感じられたロープウェイ駅を通過。





〇七五五時に、前回は雪に埋もれて潜れなかった鳥居を通過。





たぶん三年前に撤退を決断した辺りと思われる樹林帯を抜け、強風の通り道として知られる峰の茶屋跡が遥か遠くに見えて来る頃には、風も強くなって来た。





この辺では雪が積もる前に風で吹き飛ばされてしまうらしく、安山岩らしき茶色っぽい石屑の転がる道が凍結したまま剥き出しになっている。





偉大なるトミーが金にものを言わせて入手した高級な冬山用のブーツで颯爽と歩いて行くのを尻目に、私は路面の状況に応じて軽アイゼンを着けたり外したりしてもたつきながら進む。


前方右手には噂に聞く「剣が峰」が見える。ちょうど二人のハイカーが、冬期はヤバいと評判のトラバースルートにチャレンジしたのはいいが、途中で怖気づいたのか、とぼとぼと引き返している。

彼らは本日第一号のチャレンジャーだったようで、斜面には彼らの着けた下手くそなトレースしか見当たらない。その様子を見ていたトミーは、絶対にあんなところは歩きたくない、というような事を口にした。


私たちもちょっとしたトラバースが必要な地点に差し掛かったので、私は軽アイゼンをバックパックに仕舞ってセラックを着けることにし、トミーに行軍停止を要求したのだが、結論から言えば、その作業は強風域に足を踏み入れる前に済ませておくべきだった。

去年の五月以来、ほぼ一〇ヶ月ぶりにセラックを着ける私が着け方を忘れてしまっていた(オーバーシューの上からセラックを着ける私は、少々特殊な着け方をマスターする必要がある)ので、風が吹き付けてクソ寒いなかを一五分ほど立ち往生する羽目に。


〇九二〇時、ようやく峰の茶屋跡に到着。





三本槍岳まで足を延ばすためにも、茶臼岳の山頂に〇九〇〇時には着くはずだったが、やはり夏山のコースタイムはあてにならない。

噂に聞いていたとは言え、実際にこの身をもって体験した峰の茶屋の強風にムカついたことも手伝って、私はこの時点で、茶臼岳の山頂だけ踏んだらとっとと帰ろうと決意。


そうは言っても、前回は気温が氷点下一五度、風速二五米/秒なんて予報のなか作戦を強行したわけだが、今回の予報は氷点下一〇度、風速一五米/秒。

つまり、それなりの強風が吹き付けるとは言え、前回と比べれば天国と地獄ほどの差がある。青空にも恵まれて、なかなか楽しいハイキングだったじゃないか。


○九三〇時に峰の茶屋跡を出発。一〇分も歩くと、ちょうど茶臼岳の山体が風よけになるからか強風域を抜け、代わりに日当たりのいい無風ゾーンが現れる。

昼食はその辺でとればいいか、なんて事を考えながら噴火口周りまで登り詰め、反時計回りでお鉢を回って一○一○時に祠の祀られた茶臼岳山頂に到着。





三年越しでようやく辿り着いたことに加えて、周囲に広がる雪をかぶった美しい山々の眺めに私もトミーも歓声をあげずにはいられない。


三本槍岳と朝日岳。





三倉山、大倉山、流石山と続く稜線。





一時間以上かけて写真を撮りまくった私たちが山頂を後にしたのは一一二〇時。


例の無風地帯まで戻ってランチ。





カップラーメンのスープを飲み干したので、もうそれ以上水分はいらない、ときっぱり宣言するトミーを尻目に、私は食後のティータイムに紅茶をたしなむ代わりに汁粉などゆっくり啜って、一二四〇時に行動を再開。


茶臼岳を下っているときにも一組のハイカーが例のトラバースルートを朝日岳方面へと歩いて行くのが目に入ったのだが、どうやら私たちが午前中に目撃した第一号のチームではない別の優秀なハイカーが、その後トラバースに成功したらしく、終点までトレースが続いている。

そのタイミングでトミーには、時間がないので三本槍岳までは行かない、と宣言し、朝日岳を往復するだけなら可能かもしれないが、剣が峰越えのルートは恐らく使えないので、あのトラバースルートを行く必要があることを伝え、どうしたいか尋ねてみる。その後どうするかはトミー次第ってわけだ。


トミーは無謀なトラバースに挑む二人組を遠くに眺めながら「あんなところを歩くなんて全く冗談じゃないぜ」といった意味のコメントを残したが、既にトレースが着いてる以上、私たちも問題なくそこを通過できるだろう、というのが私の判断だ。

他の誰かがやり遂げたんなら私たちにも出来ないわけはない。そうだろ?


峰の茶屋まで戻ったトミーは、ひとまずトラバースルートの様子を見てみたい、と言ってそちらへと向かった。私は荷物を物陰にデポしてトミーの後ろをついて行くことにした。どうせ現物を確認したらトミーは「行く」と言うにきまってる。

果たして、実際にそのスタート地点に立ってみた偉大なるトミーはそこを行く決断をした。先頭は私が引き受けることにした。


先人の着けてくれたトレースを丁寧に辿りながら、一歩一歩進む。





とにかく足元を凝視し、既にそこにある足跡に集中して、そいつを丁寧になぞる事が重要だ。つまり、何があっても前方とか斜面の下は見るなってことだ。


私が無事にそこを渡り終えるか、あるいは滑落死する瞬間を写真に収めるというミッションを課されたトミーも、私が無事に渡り終えたのを確認してからトラバースルートに取っ付く。

山側の斜面が左手に来るのに合わせてピッケルをちゃんと左手に持ち替えて、一歩足を進めるごとにピッケルを斜面に突き直しながら慎重に渡って来るトミーの勇姿は、貫禄に溢れるベテラン・ハイカーそのものだ。

そこを渡り終えたトミーは、私が終始ピッケルを右手に持って遊ばせたままだったことに不満を表明したが、利き腕でもない左腕で器用にピッケルを使いこなせるスキルを持ち合わせてない私は静かに、ピッケルは足を滑らせてから使うものだ、と反論した。


そこから先は、基本的には岩山歩きだ。





それでも、ごく稀にトラバースや凍結箇所が現れるのでアイゼンを外すことは出来ない。





朝日岳の肩に一四〇〇時に到着。





休憩や撮影タイムを挟んで一四一五時に山頂に到着。





茶臼岳に登っただけで引き返さないでよかった。コースのバリエーションと言い、距離と言い、なかなか充実したハイキングが楽しめたってもんだ。


時間も時間なので、一〇分も山頂で過ごしたらすぐに引き返す。峰の茶屋跡に一五一〇時に帰還。

デポした荷物がちゃんとそこにあるのを見つけて安堵する。





強風が吹き付けるなか、トミーが最後の装備点検に勤しんでいる間、私は物陰で風を避けながら仮眠する。顔に当たる午後の陽射しが心地いい。

一五二五時、トミーの作業が終了し、峰の茶屋跡を出発。


鳥居を一六一〇時に通過して、一六三五時には駐車場に帰着。私たちの三年越しの再挑戦は、実に満足度の高い成果を伴って無事に終わった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



那須茶臼岳・朝日岳ハイキング/茶臼岳山頂にて




January 02, 2016


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

トミーに加えてひょんな事から知り合った山ガール二名と四人組で蓼科山へ。


多くのハイカーは南側の登山口を使うようだが、我々のパーティーは、例年、この時期は車道が積雪のために封鎖されるらしいが今年は雪不足でそこまで車で登れる北側の七合目登山口から出発する。





北側の斜面であることと新雪ということで三年ぶりに Denali Evo Ascent を持ち込んでみたが、ところどころ岩が階段状に露出しているので歩きにくいことこのうえない。アイゼンか軽アイゼン着用の他の三人はさぞ快適に登れたことだろう。





〇九一〇時に出発して一〇五〇時に辿り着いた蓼科山荘で二〇分ほど休憩、再出発して一一五〇時に雪煙の舞う山頂に到着。





いや、もうとにかくクソ寒くて、記念撮影だけ済ませたらとっとと下山しちまおうぜ、って感じだ。


雪の蓼科山ハイキング/山頂にて記念撮影(1)



山頂ではほかに五組ほどのハイカーを見かけたが、いずれも私たちが記念撮影に興じているうちに、あっと言う間にいなくなってしまった。考えることはみな同じって事だろう。


蓼科山荘まで舞い戻って昼食をとってから一五〇〇時には登山口に帰着。寒さのあまり展望を楽しむ気分でもなかったが、下山中に浅間山が見えたとだけ言っておこう。





特筆すべきは、その後、夕食に向かった中村農場の「親子丼」。





満席なのでストーブもない店外で待て、と言われて心底ムカついたが、ひと口そいつを口にした瞬間に怒りも収まった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



雪の蓼科山ハイキング/山頂にて記念撮影(2)




October 16, 2015


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

私が「農鳥オヤジ」の存在を知ったのは、「農鳥オヤジ」とのドラマチックな対面を果たすことになるわずか四日前のことだった。


トミーとともに北岳を起点として白峰三山を縦走する計画に着手した私は、初日は肩の小屋、二日目は大門沢小屋に宿泊するプランを立てたが、間の悪いことに大門沢のヒゲで有名な例の小屋主が屋根から落ちたとかで今年は早々に小屋じまいしてしまったらしい。

となると、二日目の行動時間が短くなってしまうのが少々具合が悪いが、稜線上の「農鳥小屋」に宿泊するしかないってわけだ。まぁ仕方がないな、それでその「農鳥小屋」って小屋ではちゃんと水が手に入るのか?

私は小屋の基本的なスペックを確認するために「農鳥小屋」をキーワードにしてインターネットで検索することにした。


そこで私が目にしたものは、「農鳥オヤジ」なる愛称とも蔑称ともつかない特別な称号を下界の人々より勝手に授けられた、「農鳥小屋」の小屋主に対する悪評の数々だった。

かいつまんで言えば「農鳥オヤジ」は短気で気むずかしく気に入らない登山客をすぐに怒鳴りつける、といったもので、遅い時間に小屋に到着したり、勝手に小屋の周囲に荷物を置いたり、用もないのに間違って小屋の敷地内に侵入してしまったがために「農鳥オヤジ」に口汚く罵しられたという被害者たちの怨嗟の声とも言うべき証言の数々が各所にあふれていた。


たまたま(?)ラジオを持たずに彼の小屋を訪問してしまった登山客たちに彼が浴びせたという、それを浴びせられた者の胸をえぐるような一言を知る人は少なくないだろう。ただ怒鳴りつけるだけじゃない。「農鳥オヤジ」は嫌味のセンスも秀逸でなかなか手ごわい。

私はウィットに富んだ皮肉やからかいは嫌いじゃないが、そいつが自分の身にふりかかるとなると話は別だ。好むと好まざるとに関わらず縦走計画を遂行するためには「農鳥小屋」に宿泊せざるをえない私は、いそいそと自宅のパソコンをインターネットに接続して、 amazon で手ごろな値段の携帯ラジオを注文した。


もっとも、情報収集を進めるうちに、「農鳥オヤジ」には少なからぬファンがいることもまた明らかになった。彼らの言い分は、「農鳥オヤジ」は登山客をただ怒鳴りつけているのではなくて、登山客の安全のために彼らを「叱りつけている」のだ、というものだった。

なるほど、小屋への到着が遅かったり、ラジオを持たずにのこのこ「農鳥オヤジ」の前に姿を現した登山客を待ち受ける試練の背景は分かった。では荷物の置き方がオヤジの気に触れた連中や小屋の敷地に侵入した連中が経験した災難はどう説明すればいい?

まぁ、そのときの「農鳥オヤジ」の心中を代弁すれば、さしずめこんなとこだろう。「お前ら、オレの小屋で勝手なマネをするな!」


「農鳥オヤジ」以外にも「農鳥小屋」には登山客がそこを避けて通るに十分に値するほかの事情がいくつかあった。例えばある情報筋によれば、「農鳥小屋」では夕食として白米と味噌汁、漬物と名前の分からないようなキノコや山菜のごった煮しか提供されないらしい。つまりほかの山小屋に比べて著しく粗末な食事しか出て来ないってわけだ。

私は、それは違うと思った。冷凍もののハンバーグや魚の切り身なんて出されるくらいなら、大自然から収穫されたキノコや山菜という素材を活かした食事の方が美味いに決まってる。

ただし、小屋に湯呑みはないので、茶を飲みたい場合は先に白米なり味噌汁なりを平らげて空にした器で飲まなければならないらしい。私は荷物の中にマグカップを放り込むのを忘れなかった。


食事の件は私にとって何の障壁にもならなかったが、「農鳥小屋」の便所がどのようなものであるのかを知ったときにはさすがの私も戸惑わずにはいられなかった。

その便所でクソをするのが真っ昼間か、夏場の気候が温暖な時期だったら私にとって大した問題ではなかっただろう。氷点下近くに冷え込む標高三〇〇〇米地点の秋の夜明け前に、斜面を吹き上げる冷たい強風にわざわざケツを向けてクソをしなければならないなんて悪夢がほかにあるだろうか。ホッキョクグマですらクソをするのにもう少しマシな場所はないのか、探して歩き回るに違いない。

私は、その日は太陽が昇って少し暖かくなってから、稜線下の樹林帯で野グソに取り組む覚悟を決めた。


もっとも、トミーと示し合わせて今回の山行のために押さえた三日間の天気予報はめまぐるしく変わった。最も行動時間が長くなるうえに前半は稜線歩きを強いられる三日目の気象予報が芳しくないので、私たちは北アルプスでの山行プランも同時並行で進めなければならなかった。

結局、北アルプスよりも南の方がマシだ、と判断して、当日は奈良田の駐車場に向かおう、とトミーに連絡を入れたのは前日の夕方のことだった。さぁ、これで私が噂の「農鳥オヤジ」にお目にかかる舞台は整ったってわけだ。私は念のため、トミーにもインターネットで「農鳥オヤジ」の過去の言動について詳しく研究しておくように忠告した。


行先が決まったときにはとっくに日が暮れていたので、私は気を遣ってその場では小屋に連絡を入れず、翌朝、奈良田の駐車場から予約の連絡を入れることにした。当日泊まる肩の小屋にはスムーズに予約の連絡を入れることに成功したが、インターネット上で公開されている「農鳥オヤジ」の携帯に電話をかけると二回ほど転送された挙句に誰も出なかった。

携帯は奈良田ではつながるが広河原ではつながらないらしい。奈良田から広河原に向かうバスがやって来たので、私は明日になって「農鳥オヤジ」に「貴様ら、予約も入れずにオレの小屋に泊まろうって言うのか!?」などと怒鳴りつけられたりしないか、一抹の不安を覚えながらも仕方なく携帯の電源を切った(三日後に下山してから確認すると、私が「農鳥オヤジ」の携帯を鳴らしてから約一時間後に、立て続けに五件の着信履歴があった。全て他ならぬ「農鳥オヤジ」からのものだった)。


初日、肩の小屋への道すがら、私とトミーの間で交わされる会話のネタの殆どが当然ながら「農鳥オヤジ」に関するものだった。「農鳥オヤジ」が間ノ岳から小屋の方へと下山してくるハイカーたちを、小屋の前に設けられたオヤジの指定席とされる「ドラム缶前のベンチ」で双眼鏡を片手に監視しているという情報を入手した私は、それにちなんで今回自らに課したいくつかのミッションをトミーに紹介した。

ひとつめは、間ノ岳から下りて来るハイカーたちを双眼鏡で監視している「農鳥オヤジ」を、「農鳥オヤジ」に見つかることなく私が間ノ岳の山頂から双眼鏡で監視したうえに、こちらを見上げてきょろきょろしている「農鳥オヤジ」の様子をこっそりカメラで撮影する、というものだ。

ふたつめは、小屋まで下りて行ったら、その「農鳥オヤジ」の指定席なる「ドラム缶前のベンチ」に「農鳥オヤジ」が見てない間にこっそり腰かけ、手持ちの双眼鏡で私が「農鳥オヤジ」の代わりに間ノ岳から下りて来るハイカーたちを監視する、というものだ。

みっつめは、一五〇〇時を過ぎて小屋に到着したハイカーを私が「農鳥オヤジ」の代わりに怒鳴りつける、というものだったが、トミー曰く、「農鳥オヤジ」の半分はおろか一〇〇〇分の一すら貫禄のない私がそれをやってもハイカーたちはちっとも怖くないだろう、というのでやめにした。


それから私は「農鳥オヤジ」に何を言われても一切の反論や言い訳をしないことをトミーに宣言した。世界一、少しでも気に喰わないことがあると誰かれ構わず反論する男のくせにそんなことが出来るのか?というような事をトミーは言ったが、「農鳥オヤジ」がハイカーたちにあれこれとやかましく指摘する、その理由を確信している私の決意は固かった。

その代わり、もし私が「農鳥オヤジ」に怒鳴りつけられるようなことがあったら私は必ず「農鳥オヤジ」に怒鳴り返してやるだろう、とも宣言した。 何と言って怒鳴り返すかって?「本当に申し訳ありませんでした!!」以外に適切な言葉など私にはただのひとつも思い浮かばない。


二日目、初日に宿泊した肩の小屋を〇七〇〇時に後にした私たちは、素晴らしい秋晴れの空の下を農鳥小屋を目指して前進した。肩の小屋から農鳥小屋までの標準所要時間は手持ちのガイドブックによれば四時間あまりだ。

いつものようにあれもこれも写真に撮ったり、のんびり休憩を挟みながら行っても一二〇〇時までには農鳥小屋に着いちまいそうだ。私たちは「農鳥小屋」で昼食をとるのも悪くない、なんて話をしながら、常に強風こそ吹き付けるものの絶景の広がる稜線歩きを楽しんだ。


いろんなところで道草をして写真を撮ったり、稜線上の風避けにちょうどいいハイマツ帯で陽光を浴びながら仮眠をとったり、あるいは立ち止まって目の前に広がる絶景を楽しみ過ぎた私たちが間ノ岳の山頂に到着したのは一一四〇時のことだった。そこから農鳥小屋までは一時間ほどかかるらしいが、そろそろ私もトミーもいい具合に腹が減っている。協議の結果、私たちはそこで昼食を摂ることにした。

おまけに山頂には風を遮るのにとてもいい感じの岩場があったうえに「農鳥オヤジ」が機嫌を損ねるといわれる小屋への到着タイムリミット即ち一五〇〇時まではまだたっぷりと時間があった。私たちはさもそれが当然のことであるかのように、そこでも食後の昼寝をすることにした。


一三〇〇時過ぎにのっそりと起き上った私たちは行動を開始した。だだっ広い間ノ岳の山頂から一段下がった南側の平面に「農鳥オヤジ」から姿を隠しつつ、その陰から農鳥小屋を見下ろすのにうってつけのケルンを見つけた私は、双眼鏡を片手にこそこそとそれに近づいた。

迷彩柄のツバ広帽をかぶってケルンと同化しつつ、小屋の様子を双眼鏡で覗う私を怪訝そうな目で見ながら一人のハイカーが小屋の方へと下って行った。おい、頼むから山頂に怪しいやつがいる、なんて余計なことを「農鳥オヤジ」に吹き込まないでくれよ。


監視地点から双眼鏡越しに捉えた農鳥小屋。





地図を見る限り私たちの位置から小屋までの距離はざっと一マイル(≒一六〇〇米)ってとこだろう。私の双眼鏡ではそれだけ離れた距離にいる「じっとしている」人間を見つける事は不可能だった。ひとつめのミッションは失敗だ。

それにしてもクリス・カイルってやっぱりすげぇな、なんて事を考えながら私は立ち上がり、後ろで待機していたトミー共々、こちらを監視しているであろう「農鳥オヤジ」に堂々と姿を晒して間ノ岳を下ることにした。


間ノ岳からの下りは足の滑りやすいザレ道だったが、ちょっとでも油断をして半フィートすら足を滑らせようものなら、後で「農鳥オヤジ」に「貴様らは山道を下るのが本当にヘタクソだな!!」などとお叱りを頂戴することになりかねない。

私とトミーは二人とも集中力を切らすことなく、とびっきり上手な歩き方を心掛けて、下界にその名を轟かせる「農鳥フォント」がそこら中に目につく忌々しいザレ道を抜群の安定感を見せつけながら下った。





とても残念なことに、いざ私たちが小屋の前に着いてみると「農鳥オヤジ」の姿はどこにもなかった。何だよ、今日は見張り番をサボってるってわけか?


私の前を歩いていたトミーが必然的に私よりも先に小屋の敷地へと侵入し、作業小屋に潜んでいた「農鳥オヤジ」を発見した。私の位置までは聞こえなかったが、たぶん泊めてくれとか何とか、トミーは手短に用件だけを「農鳥オヤジ」に伝えたんだろう。私の位置からは小屋の陰に隠れてまだその姿を確認することは出来なかったが、世界中の無愛想な人間のお手本にすらなりそうな面倒くさそうな口調で「はい」とだけ一言、「農鳥オヤジ」らしき人物がトミーに答えているのが聞こえた。

腕時計を見ると時刻は一三五五時。到着期限の一五〇〇時にはまだ一時間ほどある。少なくとも対面早々怒鳴りつけられるような悲劇を回避できた事を理解した私はそっちに歩いて向かって、いよいよ彼らの前に躍り出た。


そこには突然、物陰から現れた私に向かって無言で鋭い視線を投げかけている一人の老人がいた。おぉ、こいつはすげぇ!トレードマークとされるあのモンゴロイド系の遊牧民族が愛用してそうなツバなし帽をかぶって貫禄のある顎鬚を生やした、小柄ながらどうにも近寄りがたい雰囲気を醸し出しながら私の眼前に佇んでいるその老人こそ、まさしくこれまでに数々のハイカーを震え上がらせ、あるいは彼らに極限まで不快な思いをさせて来た歴史を誇る悪名高いこの小屋の主人、「農鳥オヤジ」に違いない!

私はひとまず「あんたの事なんて知らないぜ」って風を装って一度だけ軽くペコリと会釈をした。「農鳥オヤジ」はそれに対しては何の関心も反応も示さずに、そのまま私たちを宿泊手続きとやらのために宿泊棟へと連行した。


「農鳥オヤジ」が宿泊棟の引き戸をガラリと開けると、中には既に四人のハイカーが奥のコタツに入って寛いでいた。私たちを入口の土間に留め置いた「農鳥オヤジ」は棟の奥から宿泊台帳を持って来るなり私たちへの尋問を開始した。

「明日はどちらへ?」


事もあろうに、それまで「農鳥オヤジ」との交渉窓口を務めていたトミーは、そんな基本的な質問にすら満足に答えられずに言葉に詰まって私に答えるように促したので、私は「農鳥オヤジ」に奈良田に下山する、とだけ答えた。


次に「農鳥オヤジ」は「代表の方は?」と尋ねて来たが、すかさずトミーはその座も辞退して私を指差した。年齢を聞かれたので私が答えると、「農鳥オヤジ」はそれを聞き間違えて宿帳に記入したので、私とトミーがほぼ同時にその間違いを指摘した瞬間、「農鳥オヤジ」は「貴様ら、オレに何か文句があるのか!?」とでも言わんばかりの鋭い調子で聞き返した。

「あ!?」


事前に「農鳥オヤジ」の耳が遠いことを知っていたのは私にとって幸いだった。何も知らずにやって来たハイカーが同じ目に会ったら、その出来事だけで心がポッキリ折れてしまっても仕方がなかっただろう。それくらい「農鳥オヤジ」の「あ?」は威圧的な響きを帯びていた。

だがそいつは単にそう聞こえるだけで、実のところ「農鳥オヤジ」は「よく聞こえなかったのでもう一度言ってくれないか?」と私たちに頼んでいるだけなのだ。私はただ、下界で暮らしていればそこら中で見かけるような、周囲に対して友好的に振る舞うことのできる普通の老人にそうするのとまったく同じようにゆっくり、かつはっきりと正しい年齢を伝え直せばそれでよかった。


その後、年齢以外の項目について私が宿帳への記入を済ませた頃に「農鳥オヤジ」が「今日はどこから来ました?」と私たちに尋ねたので、これにはすかさず前日泊まった小屋の名前くらいは覚えていたトミーが「肩の小屋から来ました」と即答した。

それを聞いた「農鳥オヤジ」は、「貴様らはオカマか!?」「マジで信じられない!」とでも言いたげなすっとんきょうな声をあげた。「何だぁ?えらく時間がかかったな!?」


噂によれば「農鳥オヤジ」は登山客のその日の行動時間を聞けば瞬時にその登山客のハイカーとしての実力を見極めることができるらしい。早朝に肩ノ小屋を出発したはずのハイカーが一四〇〇時近くにもなって彼のもとを訪れた、という事実から「農鳥オヤジ」が連想することと言えば、いま目の前で彼の小屋に泊まりたいと申し出ている二人の男−私たち−はとんでもないノロマでよちよち歩きの屑ハイカーだってことに違いない。

その事実を丁重に否定させていただくために、私は「間ノ岳で昼寝をしておりました!」と正直に白状した。なぜかトミーはそれを聞いて「ハハハハ」と大笑いした。「農鳥オヤジ」は・・・。「山で昼寝?貴様ら舐めてるのか!?」と私を一喝する代わりに「あぁ、そうかい」とただ納得して次の手続きへと移った。


続けて、小屋に泊まるにあたっての数々の注意事項−この小屋に限っては「掟」とでも呼ぶのがふさわしいだろうか−が「農鳥オヤジ」によってすらすらと暗唱された。

その間、「農鳥オヤジ」の口調は終始穏やかで、言葉使いも丁寧なものだった。「農鳥オヤジ」は、彼が頭にインプットしている限りのひとしきりの決まり事を空んじ終えてから、「そんなところかな」と独り言を言って、最後に、明日は天候が崩れそうだから暗いうちに小屋を出発してもらいたい、今のうちに農鳥岳に向かう道を下見しておいてください、と私たちに言った。私たちはすぐさまその言葉に従い、何かの仕事を命じられた警察犬より素早く小屋の外へとダッシュで移動した。


翌朝の出発ルートは明瞭で、「農鳥オヤジ」から課された宿題はすぐに終わった。私たちが宿泊棟に戻ると、ちょうど一組のハイカーが土間で宿泊手続きをしているところだったが、戻って来た私たちを見咎めるなり、「農鳥オヤジ」は私たちが許可を得たうえで座敷の一画に転がしておいた私たちの荷物を指差しながらこう言った。「あんたたちはまだ若いのにセッピョー装備はどうした?」

おぉっ!ひょっとしてこいつが噂に聞く、数知れぬハイカーたちの精神をずたずたに切り刻んで葬り去って来たとか言う「農鳥オヤジ」のありがたいお小言なのか!?私は身の引き締まる思いで農鳥親父閣下から下される次の一言を待った。ところでセッピョーって何だ?


私が、そして多分トミーも「セッピョー」の意味が分からずきょとんとしているのを見てとったのだろう、農鳥親父閣下は「雪と氷だ」と、このうえなく分かりやすい補足の説明を差し挟んでから続けた。「いま何月だ?もう一〇月半ばだよな?」「ここは標高三〇〇〇メートルだ」

要するにこういうことだった。「貴様ら、この季節にもなってピッケルも持たずによくもおめおめとオレの前にツラを出しやがったな!?」


よせばいいのに冒険心豊かなトミーが「軽アイゼンを持って来ました」などと発言して農鳥親父閣下にささやかな反抗を試みた。ひょっとするとトミーはその一言で閣下を黙らせることが出来ると踏んでいたかもしれないし、その一言は閣下におかれてもやや想定外のものだったかもしれない。

だが農鳥親父閣下はそいつを耳にすると落ち着き払って「軽アイゼンか・・・」とボソリと呟き、しばらく間を置いてから、今度はおもむろにザックに括り付けられているトミーのトレッキングポールをとんとんと人差し指で小突きながら、「おい、若いの、二度とオレに口ごたえなんてするんじゃねぇぞ」とでも言いたげな厳粛なる響きを湛えて静かに言った。「でもこいつじゃ雪洞は掘れないな。」トミーは二度と余計な口をきこうとはしなかった。


私はあらかじめトミーに宣言していた通り、「農鳥オヤジ」に何を言われても反論も言い訳もしないと決めていたので、黙って「農鳥オヤジ」の言葉を聞いていた。実際、その場で「農鳥オヤジ」に一言言い返すことはそう難しいことではなかっただろう。

「よぉ、爺さん、新雪によく利く魔法のピッケルはどこに行けば手に入るんだ?」「おいおい、この辺りの山じゃ一晩で雪洞が掘れるほど雪が積もるって言うのかい?」「だいたいそんなもの持ち歩いてるやつが一人だっているのかよ?」

だがそうすることに一体どれだけの意味があっただろうか。


「セッピョー装備」は「農鳥オヤジ」が言わんとしていることの表面的な一要素でしかない。私たちがそのとき「農鳥オヤジ」に突き付けられていた問いかけの本質とはこういうことだったろう。

「貴様ら、山を相手に遊びたいって?それだけの覚悟は出来てんだろうな?」


まして「農鳥オヤジ」は機嫌が悪かったから、とか、あるいは単なる嫌がらせのためにそんな事を言っているのではなかった。「農鳥オヤジ」の、台風崩れの低気圧がどこそこの海上にあって、寒気団はいまどこそこまで下りて来ていて、と言った現状の気象状況に関する分かりやすい名解説を、 演奏される国歌に直立不動で聞き入る愛国心豊かな兵士よろしく「農鳥オヤジ」から目をそらすことなく一言一句聞き漏らすまいと拝聴していた私の姿勢に満足したのか、或いは相手が誰であれ最後はいつもそうしているのかは分からなかったが、「農鳥オヤジ」は不意に目を細め、表情を崩して白い歯を見せると再び穏やかな口調に戻ってこう言った。「必ず雪が降るとは言いません。でもそうなる可能性もあります、ってことなんですよ」


ちょうどそのとき宿帳を記入していた例のハイカーがそいつを書き終えて閣下に手渡したとき、閣下の「明日はどちらへ?」との問いに対して「北岳へ」と答えてくれたので、閣下の関心はそちらに向けられ、私たちは解放された。

「下った方がいい」 農鳥親父閣下は私たちより年かさの北岳に登りたいハイカーに問答無用といった口調でピシャリと言った。「え?」と聞き返した北岳に登りたいハイカーを待ち受けていたのは、もちろん閣下からのとどめの一撃だった。「明日は天候が崩れる。さっさと下れ、と言ったんだ」


農鳥親父閣下の私たちに対するありがたいコンサルティングの時間はこれだけに留まらなかった。「すぐに(雲で)見えなくなるから今のうちに山を見とけ!」という閣下の親切心に満ちあふれつつ絶対的な命令に従って私たちが小屋を飛び出し、間近にそびえる間ノ岳や西農鳥岳を下界の喧騒を忘れながら見上げていたときに、閣下に散々ビビらされて不安になったのか、トミーが「明日、雪が降ったら奈良田に下るのがいいのか、北岳側に戻った方がいいのか、(閣下に)聞いて来ます」と言うので、そんなことも分からない者が山に来るな、とか何とか言われて火に油を注ぐだけだからやめた方がいい、と私は忠告したのだが、結局、トミーは目下の重大な疑問を解消するために閣下の下へと走った。

私が十分に小屋の周囲からの眺めを楽しんで宿泊棟に戻ろうとすると、ちょうどトミーが農鳥親父閣下に明日の行動に関する指針を下し置かれているところだった。私がそこをブラリと通りがかったことで、農鳥親父閣下の権威ある講義の時間が再開される条件は整った。

知見に満ちた閣下のお話は全く私を飽きさせないものだったが、やがて話題はいつしか心構えの甘い登山客に対する閣下の苦言へと移って行った。「必ずいるんだ」 閣下は、オレは何でもお見通しだ、とでも言いたげな確信に満ちた口調で仰せられた。「川を渡るときに、あぁ、やっぱりあのオヤジの言うことをちゃんと聞いておきゃよかった、なんて後悔するやつらがな」


農鳥親父閣下が、大門沢が雨で増水するリスクまでよくよく考慮したうえでザイルを携帯することなく彼のもとを訪れるようなハイカーは愚かなやつだ、という考えをお持ちであることは私も知っていたし、実際、まぁザイルなんて持ってないので持って来ようもなく、翌日、雪が降ることよりも雨で沢が増水した場合のことを懸念していた私にとって、そいつは身に沁みる話だと私は思ったが、不意に閣下は、念のために聞いておくが、と言った感じで私に尋ねた。「どこの川だか分かるか?」

自信に満ちた口調で「それは大門沢のことでしょうか!?」と、私はほかに答えなんてあるわけがない、とでも言わんばかりに胸を張って答えたのだが、後から思えばそいつはかなりとぼけた回答だった。私の答えを耳にした瞬間、農鳥親父閣下は鋭く眼光を光らせ、険しさを帯びた表情で私を見据えるなりこう言い放った。

「三途の川だ!」


まさかそんなところでアクション映画のラストシーンに登場するヒーローよろしく取って置きの決め台詞をかまされるなんて想像だにしていなかった私は、もうただただ、桜の彫り物をお奉行様に見せつけられて観念した悪徳商人のように「畏れ入りました」と言うほかなかった。


ところでそれらの会話が、窓ガラスを割ったボールを片手に仁王立ちしている頑固じじぃの元に謝罪に訪れた野球少年よろしく、私たちがただ頭を垂れながら「農鳥オヤジ」の一方的な話を聞いているような感じで展開されたものだと思っているなら、そいつは全く違う。

実際のところ、「農鳥オヤジ」は泊り客の夕飯の支度にあてるべき結構な時間を犠牲にしてまで、すぐ傍で散歩をせがんでうるさく吠える愛犬をどやしつけながら、全ての登山者が身につけるべき安全登山の心得について私たちに熱心に話をしてくれたが、基本的にその口調は終始、私たちを諭すような穏やかなものだった。


おまけに「農鳥オヤジ」は長い講義の合間に以下のような言葉をたびたび口にした。「厳しいことを言ってるのは分かってるがね」「うるさく言ってごめんなさいね」「素直に話を聞いてくれてありがとうね」

最後の一言がオヤジの口から発せられた瞬間、私もトミーも畏れ多さのあまり「何を言い出すんだ」と言わんばかりにオヤジの言葉を慌てて遮ろうとしたくらいだった。


「農鳥オヤジ」と私たちのコミュニケーションは、何も登山の心得に関するものだけに留まらなかった。往復するのに優に二〇分以上はかかる、稜線から高度一〇〇米は下らなければ辿り着けない(ってことはもちろん一〇〇米登らなければ帰って来れない)水場で水を汲み終えた私たちが稜線まで戻って来て息を整えているのを見かけた「農鳥オヤジ」は、すかさず「いい水場だったろう?」と話しかけて来て、その水場はどこそこから水を汲みあげているとか、夏場はそこで行水することも出来るとか、孫を自慢する爺さんのように、その水場がいかに素晴らしいものであるのかを私たちに伝えようとした。


清らかな水を絶えることなくペンキ缶に注ぎ続ける農鳥親父閣下ご自慢の水場。





おまけに私たちが宿泊棟に戻って、なぜ「農鳥オヤジ」の飼ってる犬はトミーにはちっとも吠えないのに私にばかり唸り声まであげて吠えるのか、についてあれこれ議論をしていると、ガラリと引き戸を開けて登場した「農鳥オヤジ」は私たちを見つけるなり、素晴らしい水を手に入れた私たちにはそいつを目に焼き付ける義務がある、とでも言わんばかりに、水場近くで撮ったもんだ、と言って、鹿が何頭も写っている写真の束を私たちによこしたうえで、その山域の食害に関するレクチャーまでしてくれた。


もちろん噂のコーヒーと紅茶のセルフサービスについても「農鳥オヤジ」は私たちに熱心に勧めてくれた。何でもポットを夕食に流用しなければならない、とかで、そのサービスは毎日一六〇〇時きっかりに有無を言わさず打ち切られる決まりなのだが、私たちを小屋の外で見かける度に「農鳥オヤジ」は、オレは本当にお前たちにコーヒーか紅茶を飲んでもらいたくて仕方がないんだ、とでも言わんばかりに「さっさと飲め」と何度も言った。


農鳥小屋名物、コーヒー、紅茶のセルフサービスセット。





私はオヤジのお言葉に甘え、手持ちのマグカップで一杯目はレモンティーを、二杯目はアップルティーを啜った。それらは粉末タイプのインスタント飲料だったが、これまでに多くの登山客たちがそれらで喉の渇きを潤して来たのだろう、粉は袋の中に殆ど残っていなかった。

レモンティーもアップルティーも、私が自分の分をこさえるとあと一杯分しか残らなかったので、必然的にトミーがそれらの飲み物を楽しむことの出来る最後の人物になった。だから理屈のうえでは、今後「農鳥オヤジ」がそれらの飲み物をほかの登山客に提供できなくなった事実を「農鳥オヤジ」に報告する義務があったのはトミーということになる。

もしも「農鳥オヤジ」が、まだ私たちがそこに滞在している間に例によってガラリと引き戸を開け、「レモンティーとアップルティーが残ってないじゃないか!!」などと血相を変えて怒鳴り込んで来たら、私は喜んで仲間−トミー−を売っただろう。


ところでレモンティーもアップルティーも、その粉末は妙に湿気を含んでいたので、私は怖いもの見たさにそれらの賞味期限をチェックすることを忘れなかった。結果?どうせ残りはトミーが全部飲んじまったんだから、今さらそいつを公にして何の意味があるって言うんだ?

まぁ数日とか数週間とか、実のところ数か月とか、そんな生ぬるい単位の話ではなかったのは事実だが、だったらどうだと言うのか?そいつは農鳥親父閣下のご厚意によってタダで提供されてるもんだって事を忘れちゃいけない。


私は「農鳥オヤジ」との記念撮影も忘れなかった。私が一緒に写真に写ってほしいと申し出ると、「農鳥オヤジ」はボソリと「いいけど・・・?」と呟いてから、「オレはそのへんをうろついてるから勝手に撮ってくれ」と言った。そんな適当な写真でいいわけないだろう。

トミーにシャッターを押せば撮影できる状態にしたカメラを手渡した私は、次に私の近くを「農鳥オヤジ」が通りがかったときに「それではお願いします!」と言って、忙しく動き回る「農鳥オヤジ」の都合も省みず、半ば強制的に私の隣に並んでもらった。

しぶしぶ私に付き合ってくれた「農鳥オヤジ」は「オレはレンズは見ねぇぞ」「遠くの山を見てる感じで写る」などと、さすがはその道一筋に生きて来た山男らしい(が、私にはよく分からない)こだわりを見せながら、最終的には快く記念撮影に応じてくれた。





ついでに私はミッションその2に取り組むことも忘れなかった。事前の情報ではドラム缶の前にベンチがある、ということだったが、それらしきドラム缶の前には何も置いてなくて、代わりにそのすぐ脇に木組みのベンチ(らしきもの)があった。

「貴様はオレの指定席で何をやっている!?」などと「農鳥オヤジ」に怒鳴りつけられたときの言い訳をあれこれ考えながら私はそこに腰かけて、不法入国者を取り締まる国境警備隊の隊員よろしく双眼鏡で間ノ岳の斜面をじっくりと時間をかけてスキャンした。なるほど、たしかにここからなら下山してくるヘボハイカーを一発で見つけ出すことが出来るってもんだぜ。


偉大なる「農鳥オヤジ」になりきって間ノ岳を監視中。





残念なことに、その日はそんな時間に間ノ岳をちんたら下って来て、数十分後にはようやくたどり着いた山小屋の小屋主を烈火のごとく怒らせる羽目になる哀れなハイカーは現れなかった。


全くうれしいことに、翌朝は出発前に便意を催すこともなく、マジでケツが凍っちまって明日からクソが出来なくなっちまうんじゃないか、という恐怖に怯えながらパンツを脱いで稜線上の吹き抜け便器を跨ぐ羽目にはならずに済んだわけだが、小屋に滞在中、何度か小用を足すのに「名物便所」にはお世話になった。





横幅が一〇インチにも満たないその穴を狙って正確に放尿するのは骨の折れる作業だったが、あの農鳥親父閣下の便所の踏板に一滴分のシミでもつけるなんて無礼なことが許されるはずがない、と私は自分を戒めながら一生懸命取り組んだ。


名コック、農鳥親父閣下の手による「農鳥オヤジ定食」はうわさ通り、まだ空の明るい一六三〇時には宿泊客たち全員に振る舞われた。私たちがくつろいでいる宿泊棟に、例によってガラリと引き戸を開けて登場した農鳥親父閣下が一言、「メシだ」と告げると、私たち宿泊客全員はすぐさま移動を開始し、最上級の統率のとれたボーイスカウトの少年少女にすら勝るとも劣らないスピードで食堂へと集結した。

たぶん六畳もないと思われる、その「食堂」と呼ばれる台所と一体化した食事用スペースには四つの「チャブ台」が置いてあって、うちひとつが茶の入ったやかん置き場、うちひとつは「絶対に動かすな」という貼り紙付きの「用途不明」、残りふたつが我々の食事用にアサインされていた。

私たちを含めた九名の宿泊客は、農鳥親父閣下の差配により男性チームと女性チームに分けられ、それぞれひとつのチャブ台をあてがわれた。もちろん「席が狭い」とか何とか、小さな不満すら漏らす者は一人もいなかった。当然だろう?


まぁ、とは言っても私たちが自由に身動きできる状態でなかったことは覆しようのない事実だったので、たまたま鍋(ライス用と味噌汁用)の近くの席をあてがわれた理解ある宿泊客が、自発的にみんなの夕食を器に盛って配膳する羽目になった。


ところで「農鳥小屋」では食事中も全員が農鳥親父閣下の厳重なる監視下におかれ、私語になんて興じようものなら閣下から「黙って食え!」とか何とか、きついお叱りを受けるという情報があったが、少なくとも私が泊まったその日に限っては、そんなことはなかった。

まぁその日、閣下は私たちの食事中、常に私たちに張り付いていられるほど暇ではなかったのだろうが、たまに姿を見せては、明日の気象予報に関する有益な情報を私たちにもたらしたり、その日のごった煮定食や味噌汁の具について宿泊客たちとの質疑応答に興じたり、(私はよく聞き取れなかったが)何かの冗談を口にして宿泊客たちを笑わせたりもした。


もちろんその日、私たちに供された「農鳥オヤジ定食」に対して、その場で消極的な評価を表明した宿泊客なんて一人もいなかったが、それは農鳥親父閣下のご威光の元に振りかざされる言葉の暴力を恐れた哀れな被害者たちが口をつぐんでいたからではないだろう。

実際、私と同席した男性客全員が「農鳥オヤジ」特製の味噌汁を絶賛した。色んな小屋を渡り歩いてきたと言うベテランのハイカー氏曰く、ほかの小屋で出される味噌汁とは具のクオリティがまるで違うらしかった。

一人のハイカーが、私が味噌汁を口にしないうちに味噌汁を啜るや否や、「このナメコは美味しいですね!」と「農鳥オヤジ」に声をかけると、「農鳥オヤジ」は、そのナメコはオヤジが自分で栽培して収穫したものを業者に卸して缶詰にさせたものだ、と解説した。


私はやはり「ごった煮」の方が気になっていたのだが、私の好物のフキが惜しみなく投入された「ごった煮」は、私が下界で想像していた以上に私を満足させる一品だった。


農鳥小屋名物「キノコと山菜のごった煮」。





食事を終えた私たちは全員が宿泊棟に戻ったが、その後、宿泊棟に灯りがつけられることはなく、一八〇〇時には宿泊棟の空間は漆黒の闇に包まれ、必然的に全員がその時刻には眠りについた。夜中に私は一度だけ小便のために棟を抜け出したが、夜空に瞬く無数の星屑と、遠くに見える甲府の町の夜景の美しさに思わず息を飲んだ。

まぁ、夜の稜線はあまりにも寒すぎて用を済ませた私は飛ぶように寝床に戻ったが・・・。


翌朝、〇四三〇時には例によってガラリと引き戸を開けて宿泊棟に登場した「農鳥オヤジ」が、二〇分後には朝食だ、と告げたので、またぞろその場にいた全員がボーイスカウト顔負けの迅速さで寝具を片付け、朝食後にはすぐに行動を開始できるように出発の準備を始めた。


朝食時、「食堂」に顔を出した「農鳥オヤジ」は天気予報が外れた、と言い、その日、少なくとも午前中は天候が荒れることはないだろう、と言った。だからそこにいる全員が安全に下山できるだろう、と。

オヤジはそこで「よかったなぁ」と何度も言ったし、食事を終えるなりいち早く宿泊棟に戻ってストーブに両手をかざしながらブルブル震えている私にも話しかけて来て、当然、私たちが奈良田に下山する計画であることを覚えていたうえで「あんたたちが上(稜線)にいる間は天気はもつよ」と予言をして見せたついでに「よかった、よかった」と繰り返し言った。


その後も「農鳥オヤジ」は、まだ出発しないでいる客と顔を合わせる度に「よかった、よかった」と言って回っているようだった。それはもうしつこい位に。

たしかに「農鳥オヤジ」のような、一部の人々に言わせれば「客を客とも思わない」ような小屋主というのは、もう時代遅れであまり見かけることもないような存在なんだろう。だが一方で、気象情報ひとつで登山客の身の安全を確信するなり、まるで自分のことのようにあれだけ無邪気に喜んでくれる小屋主が彼のほかに一人でもいるだろうか。


「農鳥オヤジ」が私たちを捕まえて、私たちに登山の心得に関する覚えきれないほどのあれこれを言い聞かせていたときに、ふと「農鳥オヤジ」が口にした言葉がある。「オレは商売人じゃねぇんだ。山小屋の主人だ」「山小屋の主人には客に嫌われたって言わなきゃならないことがあるんだ」


「パワハラ」なんて言葉が浸透してマネージャーが部下に対する指導法のひとつひとつにまで注文をつけられる昨今、叱られ慣れてない若者が増えていることは想像に難くない。一方で年を食った人々のなかには、ただそれだけで自分が叱る側の人間でこそあれ、叱られる側の人間ではないといった 思い込みをしているようなのも少なくないだろう。

その手の連中に、いざ自分が「叱られる」側の立場に立たされたときに自分を叱ってくれる側の意図やその背景を正しく理解するだけの能力や器量を期待できるだろうか?まぁ多くの場合、答えはノーだろう。そんな彼らが「農鳥オヤジ」に対して単純に良からぬ印象を抱くのもまた仕方のないことなんだろう。


私にはそういう連中のことを悪く言う筋合いもない代わりに、その必要もない。彼らに「農鳥オヤジ」の真意が伝わらなくて、結果的に彼らのうちの何人かが実際に「川を渡るときに」後悔する羽目になったとしても、そいつは全て身の程をわきまえない哀れな人間の「自己責任」だ。私の知ったことではない。

だが「農鳥オヤジ」はおそらく違う。どんなに人々に煙たがられても、彼には彼の仕切るあの稜線を通りがかる全てのハイカーに伝えたいことがあるのに違いない。事務的に、ではなく彼なりの真剣なやり方で、そいつを伝え続けることで、例えその代償としてオヤジの「商売」に差し障りが生じるような結果になったとしても。


夜も明けないうちに出発準備を整えた私は、最後に一人で「農鳥オヤジ」の作業小屋に挨拶に向かった。いかに「農鳥オヤジ」と言えども一〇月の稜線の夜明け前の寒さは身にこたえると見えて、彼は自分の小屋でストーブにかじりついていた。

私は出発する旨と、それから「農鳥オヤジ」と共有した短い時間のうちに私がオヤジから被った数々の恩恵に対する感謝の気持ちを述べた。「農鳥オヤジ」はわざわざ私を見送るために小屋の入口まで出て来て「気をつけて行けよ」と言った。


私が最後に「いつまでもお元気で」と言うと、彼は「オレはいつでも元気だ」「憎まれっ子何とかって言うだろう?」などと減らず口を叩いたので、私は親愛の情をこめて「農鳥オヤジ」をからかった。「だったらあと五〇年はこの小屋を続けてもらわないと!」

「農鳥オヤジ」はイタズラっ子、と言うよりまさにイタズラ爺ぃそのものの表情を見せて「へっへっへ」とだけ笑った。そして最後の最後に「貴様!オレを年寄りだと思ってバカにしてるのか!?」などと私を怒鳴りつける代わりにこう言った。「いろいろ話を聞いてくれてありがとうな」

何て畏れ多いことだ!!私はその場でさらに時間をかけて「農鳥オヤジ」に感謝の思いを伝えなければならなかった。


「農鳥オヤジ」に別れを告げて出発した私たちは、無事にその日のうちに奈良田まで下山して白峰三山の縦走計画を成功させた。次の日、自宅でインターネットを徘徊していた私は、私たちが下山したその日の夜に、あのオヤジの仕切る稜線が猛吹雪に見舞われたことを知った。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。








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