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May 8, 2014


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

去年の立山で味をしめた私とトミーは、今年も五月の北アルプスで雪山ハイキングとしゃれこむ事にした。と言っても混み合う連休を外すとなると、営業している山小屋は必然的に絞られる。


そんなわけで二年前の秋に栂池経由で登った白馬岳に、いかにも雪山登山らしく大雪渓経由で登ることに。前日には白馬入りして麓の民宿に泊まり、翌早朝に猿倉から登り始める。その日は白馬岳の山頂を踏んでから白馬山荘に一泊し、翌日は白馬三山の残り(杓子岳/白馬鑓)を縦走してから山荘前まで引き返して大雪渓を下山する、という完璧なプランだ。私は気象庁のホームページを注意深くチェックして決行の期日を設定した。


季節外れの桜が咲き乱れる白馬に六日のうちに着いた私たちは、一泊わずか三五〇〇円の(それでいて部屋も設備も悪くない)民宿にチェックインしてから夕食のために駅前の繁華街へと繰り出し、翌日登ることになる白馬岳の雄大な山容を見上げがてら、夕方の六時を過ぎてもまだ日が暮れない事を確認した。

手元にあるガイドブックによれば、夏場に大雪渓経由で山荘まで登った場合の標準所要時間がだいたい六時間とある。当然、足場の悪さを考慮する必要はあるが、七時に行動開始すればいくら何でも日没までには山荘に着くだろうし、さらに山頂を往復するだけの余裕もあるはずだ。

目ぼしい店がことごとく閉まっていて観光ホテルのバイキングという冴えない夕食を済ませ民宿に戻った私たちは、六時過ぎに出発できるようお互い五時頃には起床することを誓い合ってからそれぞれの部屋で眠りについた。


翌朝、準備を済ませて駐車場に向かうとトミーは既にそこにいて、宿のお婆さんと談笑していた。そして予定時刻通りにそこを出発した私たちは七時少し前には猿倉の駐車場に到着した。





既に一〇台ほどの車がとまっていて、ちょうど何人かのボーダーがボードをかついで登山口に向かっていくところだった。雲ひとつない快晴に気分をよくした私はうきうきしながら装備を整え、トミーの準備が終わるのを待っていたが、次の瞬間、トミーが私の方にやって来て、私のにこやかな表情を一瞬にして怒れる獅子のそれに豹変させるような全く信じられない一言を言い放った。

「アイゼンを家に忘れて来ました」。


予期しない出来事に見舞われても常に最善の道を選択するための思考や努力を怠らずに目の前の事態に取り組むのが私のやり方だ。私は全くの平静を装いながら、たしか猿倉荘で軽アイゼンをレンタルしてくれるはずだから、そいつを借りに行ってはどうか、とトミーに提案した。トミーはそそくさとその場を後にした。


一〇分もしないうちにトミーは戻って来て、猿倉荘で片づけをしていた若い男を捕まえたが、猿倉荘の営業は昨日までで、今日はレンタルも含めて営業していないこと、麓に何件かの登山用品店があるので、ひょっとするとそこでアイゼンが手に入るかもしれない、とその若い男に教えられたこと、を私に報告した。

率直に言って人ごととは言え(私は他人の失敗に対して少しばかり厳しい)、この時期に軽アイゼンで大雪渓を登ることが現実的なのかどうかすら私は知らなかったが、軽アイゼンすら着けてないのでは、さすがのトミーも雪渓のどこかで足を滑らせて何十フィートも斜面を転げ落ちた挙句に大けがをしてしまうに違いない。そんなに朝早くから営業している登山用品店があるものなのか、と内心首を傾げながらも私はトミーの駆るアウディの助手席に乗り込んだ。


とりあえずトミーのアイパッドが電波を受信できるところまでアウディで移動してから、彼は最も早く店を開ける登山用品店を調べ始めた。そして全くラッキーなことに、彼は九時に営業を開始する感心な店を一件見つけた。そこで買い物を終えてから猿倉まで引き返して一〇時までに登り始めれば、日没まで何とか八時間ほどは確保できそうだ。


その素晴らしい登山用品店は、ほぼ駅前の好立地にあった。だが駅前には山荘の連絡所もあって、そこは八時に開くはずだ。私は、ためしに連絡所で軽アイゼンを借りられないか聞いてみてはどうか、とトミーに言った。ついでにそもそもこの時期に軽アイゼンで雪渓を登って行けるものなのかどうかも。もしそれらの条件が揃えば、私たちは一時間余分に時間を確保できる。トミーは駅前までアウディを飛ばした。


私が連絡所の駐車場にとめられたアウディの助手席でうたた寝をするなか、〇八時ちょうどに連絡所が開くと同時にトミーはそこに飛び込んで行った。そしてほどなくして戻って来たトミーは私に、連絡所の親父の回答は「軽アイゼンで大雪渓を登るなんてとんでもない!」というものであった事を告げた。私たちはなぜかトミーがその親父に貰って来た白馬エリアの観光パンフレットを見たり、通学のためにその辺を行きかう子供たちを眺めたりしながらさらに一時間ほど待った。


その後、連絡所の駐車場を別の親父に追い出された私たちが登山用品店のすぐ前の路上に車をとめて待っていると、〇八時五八分にようやく店の主が出勤して来た。トミーはそれを見るや否やアウディから飛び出して行った。店主はそんなに早い時間にやって来て、アイゼンを売ってくれ、と畳みかける客なんてたぶん後にも先にも相手をした事がなかったろうが(なぜなら普通、大雪渓を登るのにアイゼンを家に忘れて来るハイカーはいないからだ)、店主はいやな顔ひとつせずトミーを店の中に招き入れた。

二〇分ほどして店を出て来たトミーはアウディの助手席で少々イラつきながら待っていた私に親指を上げて見せた。やはりどんなに予期せぬ事態に見舞われても諦めない事が重要だ、という教訓をトミーは私に示してくれた。そして、相棒がヘマをやらかしても怒りにまかせてその事を詰る前に、冷静に二人で事態の解決のために共に努力をする事の重要性も。


一〇時前に猿倉まで戻って来た私たちは、今度は手短に装備を整えていよいよ登山道に向けて出発した。猿倉荘の便所で小用を足そうとした私は、猿倉荘の営業終了と同時に外にある便所も閉められ鍵までかけられてしまうとは夢にも思ってなかったが、そういった場合に「一般的に」検討されるであろう、女性には少しばかり難しい方法でその問題を無難に処理した。

山荘わきの登山口に立って見てみると、その先は残雪上につけられた踏み跡を辿る事になるようだった。少し早いような気もしたが、私たちは登山口でアイゼンを着ける事にした。そしてその作業を終えて一〇時一五分、いよいよ大雪渓への一歩を踏み出した。


登山口からしばらくは残雪上の踏み跡をひたすら辿っていけばよい。





歩き始めて二〇分。遥か先の方まで延々と踏み跡が続く。





そろそろ歩くのに嫌気が差して来る頃だ。


一一時一五分。歩き始めて一時間ほどで大雪渓の入り口と思しき地点に到着。

「思しき地点」としか言えないのは、どこが大雪渓の入り口(あるいは出口も)なのかを示す親切な看板など最後の最後まで現れなかったからだ。





それにしても雲ひとつない青空に人っ子一人いない大雪渓(ということにしておいてくれ)。何もかもが私好みじゃないか!

だがそんな無邪気な事を言っていられるのも最初のうちだけだ。


雪渓を歩き始めて一時間一五分。右手に三合雪渓(手前)と四合雪渓(奥)。





目指すは奥に見えてる稜線らしい。ちょっと遠くないか?


そして私の遥か後方をてくてく歩くトミー。





別にスタミナ切れなわけじゃなくて、私が雪崩に巻き込まれても自分だけは助かるつもりらしい。

もちろんそんな事で私は彼のことを薄情な男だなどと思ったりはしない。その逆だって起こりうるんだからな。そうだろ?


実際のところ、ここ数年、この時期の大雪渓では雪崩による遭難事故が相継いでいて、その度に命を落としたハイカーが何人もいる事は私も知っている。そしてそれらの雪崩が起きた直前には時期外れのまとまった降雪があったうえ、去年の事故当日にいたっては当局による入山規制が敷かれていた事も、だ。

そのような条件下でもあえて大雪渓に足を踏み入れた彼らは、ある意味、勇敢な人々だったと私は思わざるをえない。とてもじゃないが、私にはそんな度胸はないからな。


四合雪渓あたりのやや平坦な地点で昼食。二〇分ほど小休止してから行動を再開する。

相変わらず雲ひとつない空の下に見えている目指すべき稜線。





くそっ!遠いな・・・。


何の見どころもなく、さらに雪の斜面を一時間ほど登って後ろを振り返る。

次第に傾斜がきつくなって来る。





大雪渓に足を踏み入れてから四時間後の一五時一五分、稜線に近づくごとに強まる冷たい風に音を上げて、私は小休止によさげなところでアウターを取り出すために装備を下した。すると突然、握りこぶし大の無数の雪の塊が斜面を転がり落ちて来て私や私の荷物に襲いかかったので、私は混乱した。

何事かと斜面を見上げると、吹き荒ぶ風の中を一人のボーダーが斜面を滑走しているのが見えた。私はまだ事態がよく飲み込めてなくて、さっきの雪の塊は強風の仕業か、それならまだいいが、ひょっとすると噂に聞く雪崩の前兆なのか、とすら思った。

いずれにしても、つまり雪崩が起きるか起きないかといった事とは関わりなく、寒さを凌ぐために、私は一刻も早く自分のアウターを取り出さなければならなかった。私がその作業に没頭していると、またしてもさっきと同じような雪の塊が私と私の荷物を襲った。そのとき私はアウターを取り出すためにパックの口を開けていたところだったので、雪の塊は容赦なく私のパックの中にも降り注いだ。私は思わずうめき声をあげた。

斜面を見上げると二人目のボーダーが同じように斜面を滑走しているのが見えた。そして三人目のボーダーが現れたとき、私はようやくそこで何が起きたのかを理解した。


そこにたどり着くまでに私は何人かの斜面を滑走するスキーヤーとすれ違っていたが、彼らは雪の塊を私目がけてばら撒くような真似はしなかった。彼らがそうならないように私に気を遣いながら斜面を滑り降りていたのか、それともあの糞忌々しい雪の塊はボーダーが滑走する斜面にのみ発生するものなのか、私には分からなかったが、そんな事は私にとって大した問題ではない。ただひとつ言える事は、私は以後、スノーボードに出かけたどこそこ在住の誰それさんが夜になっても帰って来ません、というようなニュースをテレビで見ても哀れみすら覚えないし、そいつが生きて見つかることに何の意義も感じないだろう、という事だ。


結局、私がようやく山荘に到着したのは、登山口を出発してから実に六時間と四五分後の一七時ちょうどの事だった。雪渓を歩いていたときに遥か彼方に見えていた稜線直下の斜面は、直登するには実に恐ろしい急斜面で、私は慣れない手つきでピッケルを斜面に突き刺し安全を確保しながら、先人のつけた踏み跡を必死になって辿って行ったが、その先人も斜面を直登してみたりトラバースしてみたりと散々迷走しながらそこを登って行ったようで、そいつと同じコースを辿る羽目になった私は精神的にも肉体的にもへとへとになった。おまけにその日の朝から存分に日光を浴びてグズグズに溶けてしまった雪の斜面に私は何度も足を滑らせ、その度に不自然な態勢で足を踏ん張ったせいで、私の大腿筋は今にも吊りそうだった。

しかも稜線までようやく登り切った私を待ち受けていたのは、そこはゴールでも何でもないという現実だった。私はそこから先もひたすら踏み跡を辿って雪の斜面を登った。一〇歩ほど登っては立ち止まって斜面を見上げ、一通り毒づいたり嘆いたりしてからまた歩き出す。そんな事をひたすら繰り返した。やっと小屋が見えて来たと思ったら休業中の別の小屋だった時は、そんな小屋は大人しく雪の下に埋もれてろ、とも思った。


だがスタートの時点で私たちが背負った全くたちの悪い冗談としか思えないようなハンディキャップにも関わらず、何とか明るいうちに山荘に辿り着けた事について、私は素直に神に感謝した。そこからさらに山頂を往復する分の気力や体力は既に私には残されていなかったので、ひとまずそいつは明日に回すことにした。トミーは相変わらず私の遥か後ろの方を歩いている。特に彼を待つ理由も思い当たらなかった私は山荘の前に着くや否や、入り口を探しあててガラリと山荘の引き戸を開けた。





受付では頭の禿げ上がった山荘のご主人と思しき人物が一人で番をしていた。私は予約もなしに遅い時間に現れた非礼を詫びながら一夜の宿を願い出た。何とも人柄のよさげなご主人は、突然やって来た珍客にいやな顔ひとつせず、いそいそとストーブの火をつけたりスリッパを並べたりしながら、私たちがその日最初の、そして恐らく最後の客だろう、と言った。ひゃー、日本最大の収容人数(八〇〇人)を誇るあの白馬山荘が私たち二人のために貸切だって!?そいつはすげぇ!!

たしかに去年登った立山は平日とは言えそれなりの数のハイカーで賑わっていたが、その日、私たち以外に雪渓を登っていたのは数えるほどのスキーヤーやボーダーだけだった。夏にはハイカーたちが列を成して登るという大雪渓も、この時期の平日に登ろうとするハイカーは皆無だと言うのか。薄汚い泥にまみれた夏場の大雪渓より純白で美しいこの時期の大雪渓こそ魅力的に思えてならない私にとって、全くそいつは不思議なことだった。


ようやく到着したトミーと宿帳に記帳を済ませた私は、早速、装備を乾燥室に放り込む作業に着手したが、それが終わりもしないうちに私たちの食事が用意されてしまったので、私は大急ぎで食堂に駆け付けた。私たちを待っていた夕食は、率直に言ってほかの山小屋のそれと比べてとりわけ目を見張るほどのものではなかったが、一六〇〇米を超える高度差(しかも雪山!)を登り切って疲労の極致にあった私たちには何であれ大そうなご馳走だった。

日没までには出されたものを全て平らげてしまった私たちは、いつもならカメラを片手に夕焼けの撮影スポットに飛び出して行くところだったが、そのとき私やトミーが必要としていたのは美しい旅の思い出ではなく休息だった。食堂から見える夕日もなかなかだったが、それにしても山荘のすぐ西側にでんと鎮座する「旭岳」が少々邪魔だ、というのが私の意見だった。





食事中に食堂(厳密には本来の食堂の手前にある談話室)にやって来たご主人がつけてくれた(本当に親切なご主人だった!)テレビの気象情報担当のアナウンサーは、翌日は夕方から雷雨の可能性があることを告げていた。おまけに明日は登りで私たちを苦しめた急な斜面を今度は下って行かなければならないし、当然、下りの方が難易度は高いだろう。それに一晩寝たところでどれだけ私たちの体力が回復するのかも疑問だった。私には、明日は白馬鑓まで往復するのはやめて大人しく白馬岳と丸山あたりを登ったら大人しく下山した方がよいように思われた。そしてこんな事は全く初めての事だったが、私はあまりの疲労感に八時前にはさっさと就寝してしまった。


日付が変わって〇四時四〇分頃、私は隣でトミーが「ご来光」を撮影するためにがさごそ準備をする音で目が覚めた。去年の同じ時期、立山で泊まった宿よりも標高にして四〇〇米ほど高い位置にあるためか、白馬山荘の客室は全く比べものにならないくらい寒かった。貸切であるのをいい事にありったけの蒲団を借りて眠っていた私には、日が昇る前にそこを飛び出してまで写真に撮りたいものなんてただのひとつもなかった。トミーがカメラを片手に部屋を出て行くのを見送って、私は再びいくらか温かい蒲団の中に潜り込んだ。


〇五時三〇分には朝食が準備された事を知らされて、私たちは食堂に集合した。私たちに差し出された朝食は、率直に言ってほかの山小屋のそれと比べてとりわけ目を見張るほどのものではなかったが、ただひとつ、菜っ葉の漬物と並んで別皿にちょこんと乗せられた梅干しには私もトミーも閉口した。つまりそいつは、山小屋の食事でよく見かけるビー玉サイズのコリコリしたタイプの梅干しではなくて、いかにも手作り感の漂う巨大でブヨブヨしたタイプの梅干しだった。その手の梅干しが、まったくこっちの頭がおかしくなるくらい強烈に酸っぱいものでなかった試しがないじゃないか!

実は梅干しが苦手な事をトミーに告白しながら、私は決死の思いでその梅干しを大量の米と一緒に口の中に放り込み、顔をしかめながら完食した。それを見ていたトミーが「もうひとついります?」と私に自分の梅干しを差し出そうとしたので、私はもちろん「さっき言った事を聞いてなかったのか?」といった態度でその申し出を拒否した。


テレビの気象予報は相変わらず夕方には天候が崩れる可能性を示唆していた。私はトミーに、丸山で引き返さないか?と提案した。稜線歩きが大好きなトミーも、私が検討した様々な条件を考慮したうえでその案に納得してくれた。私たちは〇七時を目途に山荘を出発することにした。


思いのほか準備に手間取ったのと、山荘前で何枚も記念撮影にしけこんだせいで、私たちが山荘を出発したのは〇七時四〇分のことだった。一五分かそこらで白馬岳の山頂に辿り着いた私はそこから見える絶景、特に南の方角に見える剣・立山連峰の荘厳な姿に歓声をあげた。





私たちは写真を撮ったり景色を眺めたりして山頂で三〇分あまりも過ごした。それから五分ほどで山荘まで舞い戻って預けてあった弁当と荷物を受取り、山荘のご主人に礼を述べてから今度は丸山へと向かった。丸山のてっぺんから眺める剣・立山連峰も見事だったし、青空をバックにそびえ立つ白馬岳もまた優美だった。

丸山から見える白馬岳と白馬山荘をバックに記念撮影。





丸山でも三〇分ほどのんびりした私たちは一〇時に下山の途についた。


旭岳への分岐まで戻った私たちは、標柱の案内通り、そこから雪渓側の斜面へと進路を変えた。そのあたりの斜度は体感では三〇度そこそこといったところだったが、朝方で締まりのいい雪にアイゼンがよく効いたので、足を滑らせる心配はなかった。





「頂上宿舎」へと下る斜面はかなり急だった。その斜面を、ピッケルを駆使しながら一歩一歩慎重に下りていた私は、すぐにその面倒な作業が嫌になってしまった。宿舎の周りは平坦地になっていて、そこまでの落差は三〇米もなかったろう。私はおもむろに腰を下ろしてやや右に身体を捻り、身体の右側の雪の斜面にいつでもピックを突き刺せる姿勢になってからやおらその斜面を尻で滑り降りた。


そうする事に全く抵抗がないわけではなかった。つまり私は、アイゼンを着けたまま「尻すべり」としゃれ込んだせいで足の骨を折ったバカ者の話を何度も耳にしたことがあった。斜面を加速している最中に身体の前に突き出した足が雪面に突き刺さったら何が起きるか位は少し考えればわかりそうなものだ。その方法で斜面を下りる事を試みるなら、スピードをわが手で制御出来る事は死活的に重要だ、と私は思った。


結果的に私の一回目の「尻すべり」は大成功だった。それをやるのにもちろん「アクセル」を踏む必要はなくて、成り行きにまかせておけばどんどん加速する。そろそろ止まりたいと思ったらピックを斜面に深く突き刺せば、そいつは立派に「ブレーキ」の役目を果たしてくれる。後から気づいたのだが、突き刺すのは石突きでもかまわないだろう。ただし、これは実際にやってみて分かったことだが、ピック(たぶん石突きも)を浅く突いたり深く突いたりしてスピードそのものを加減するのは至難の業だ。

登りで最も私を苦しめた例の稜線直下の急斜面でも、私はもちろん「尻すべり」によってそこを滑り降りるという選択をした。そこは本当になかなかの急斜面だったので、私の身体はあっと言う間に弾丸のように斜面を滑り落ち始めた。こいつはちょっと速すぎるな、と思った私は、ピックを斜面に少しだけ突き刺して減速しようと試みた。その瞬間、私の身体は減速する代わりに見事にバランスを崩した。

気づいたときには私は頭を下にして斜面を滑り落ちていた。いつかは急斜面が終わってふわふわの雪原が私の身体を受け止めてくれる事を知っている私に恐怖心は沸かなかったが、私は本能的に、とにかく正しい体勢に戻らなければならない、と思った。

斜面を滑り落ちながらもがいてるうちに私は足を下にうつぶせの姿勢で滑り落ちるという「正しい」姿勢を確保したが、その頃には結構なスピードで滑り落ちているので、ピッケルを操ろうにもなかなか上手くいかない。私は利き手でもない左手で柄を握ってピックを斜面に突き刺そうとしたはずみに、愚かにもピッケルを手放してしまった。

いつだったか、何かの教本に、誤ってピッケルを手放してしまってもいいように、ピッケルに括り付けたバンドを腕に巻きつけておけ、と書いてあるのを読んだ私は、以来それを忠実に守っていたが、そいつが初めて役に立った!私は相変わらず斜面を滑り落ちながら、何とか左手でバンド(実際にはライフル用のストラップ)でピッケルを手繰り寄せて今度は両手で掴み直し、自分の身体に引きつけた状態であらん限りの力を加えてピックを斜面に突き刺した。ようやく私の身体は止まった。


私はその一連の出来事にむしろ満足感を覚えた。それはつまり、何と言うか、雪の斜面の恐ろしさ(実際には、滑り落ちている間はちっとも恐ろしいとは思わなかったのだが)とでも言うのか、特性のようなものをそこで学ぶ事が出来たと同時に咄嗟の判断で正しいピッケル・ワークを実践する事に成功した事に対する深い満足感だった。それにしてもこのピッケルというツールは、雪山に出かけるハイカーにとっては本当になくてはならない良き相棒だな、などと思いながら、ピッケルとアイゼンの爪で安全を確保しつつ斜面の上に腰を下ろし、頭からかぶってしまった雪を振り払いながら、斜面の下の方を見た私は思わず目を剥いた。

私が「停止」した地点からほんの一〇米ほど下は露岩帯になっていた。あと二秒か三秒、停止するのが遅れていたら、私は膝からその黒々した岩の群れに激突するところだった!


ところで話を頂上宿舎の斜面に戻すと、私は後から斜面を下りて来たトミーにも「尻すべり」を勧めた。それはたぶん彼にとっては初めての「尻すべり」だった。ひょっとするとそのような下り方は、常に真摯な態度で登山に臨むトミーにはそぐわないものなのではないか、と私は一抹の不安を覚えたが、そこから大雪渓の入り口に至るまでの彼の行動を観察する限り、どうやら彼はそれが大そう気に入ったようだった。





ところで何度か「尻すべり」を楽しんでいるうちに、私の左足のアイゼンが外れてしまった。私はそいつを着け直すのではなく、思い出したように右足のアイゼンも外して、こっそりバックパックに忍ばせてあった「チリトリ一号」を取り出し、そこから先の滑降によさげな斜面という斜面を、そいつに跨って右手に持ったピッケルで天空を突き刺し奇声を上げながら滑り降りた。アイゼンから解放された私には、実現しうる「最高速度」で斜面を滑り降りてはならない理由など、もはやただのひとつもなかった(トミーのカメラが不調でその様子を記録できなかったのはとても残念だ)。


そうやって効率よく雪渓を下りきった私たちは一二時過ぎには雪渓の入り口(と思しき地点)まで到達し、そこで昼食のために二〇分ほど休止したあと、一三時三〇分には猿倉の登山口まで無事に帰還した。


振り返ってみれば、アイゼンを家に置いて来てしまった愛すべきトミーだけではなくて私でさえも、大雪渓を登りきるという事を少し軽く考え過ぎていたように思われた。多少の緊張を強いられるような急な斜面が何度か現れるであろうことは私も想定していたが、行程全体を通じてあれほどハードな登りを体験することになるとは全く考えてもいなかった。

逆に私ともあろう者が下りに関しては少しビビり過ぎた。それは私の想定よりはるかにあっさりと終わってしまった。もし気象予報が終日晴天であったなら、むしろ白馬鑓まで足を延ばさなかった事は私たちにとって「敗北」以外の何者でもなかっただろう、とすら思った。


一年半ぶりに再訪したグリンデルでベーコンステーキを頬張りながら、私はトミーに「もしいつかまた大雪渓経由で白馬岳を登ったら、今度は三山縦走にチャレンジしてみたいかい?」と尋ねた。トミーは即座に、もう雪渓を登るのは嫌だ、と答えた。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



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