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ぷしろぐ >> 登山編
【 カ テ ゴ リ 】


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October 16, 2014


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

さぁ、今年もそろそろ北アルプス界隈の山域に出かけるハイカーが激減して静かな通好みのハイキングを楽しむことのできる「登山適期」だ。今年はかねてから気になっていた「大キレット」とやらを踏破してみることにしようじゃないか。


今回、私とトミーが練り上げたプランは、初日に新穂高温泉から一気に奥穂高まで標高差二〇〇〇米を登り切る、穂高岳山荘と槍ヶ岳山荘に一泊ずつの縦走プランだ。初日は六時には現地の駐車場に着いていたいもんだ、とトミーにオーダーを出したら、〇一時五〇分には私の自宅に迎えに来るという。げー、全く寝る暇がないじゃないか・・・。


はたしてほぼ定刻通りに自宅まで迎えに来てくれたトミーだったが、なぜかトミーのカーナビの示す到着予定時刻はその時点で限りなく〇七時に近い。そこで高速では私が運転を代わり、トミーが助手席で眠りこけてる間にコースタイムを短縮しておいた。

〇六時を少し過ぎたころには無事に現地に到着し、有料である第二駐車場に車を停めることにした私たちだったが、そもそもこのエリアには出発地点となる林道ゲートまで歩いて一五分ほどの位置に登山者用の無料駐車場というのがあって、同じくそこそこ林道ゲートからは離れた場所にある第二駐車場をわざわざ選ぶメリットなど何もないことを、私は穂高岳山荘の手前で出会った老ハイカーに教えられて初めて知った。


そいつはともかく、一日で標高差二〇〇〇米を登り切るというのは私もトミーも未知の領域へのチャレンジだ。初日に奥穂高の山頂を踏んでおきたい私たちには、不測の事態に備えて可能な限り迅速に行動する事が要求される。手際よく準備を済ませた私たちは〇六時二〇分には第二駐車場を出発し、〇六時三五分にはゲートを通過して右俣林道へ。


〇七時二五分に穂高平小屋に到着。暫し休憩。





雨こそ降ってはいないが、初日はどんより曇り空。だが奥壁バンドや大キレットを通過することになる翌日は好天の予報であることは押さえてある。ところで三日目は雨らしい。まぁ下山するだけだから問題ないだろう。


続いて〇八時一〇分に「奥穂高岳登山口」に到着。なかなかいいペースだ。





五分ほど休憩して先を急ぐ。そこから先は暫く雑木林の中を行くありきたりの登山道といった趣だ。


〇九時二〇分に重太郎橋に到着。一〇分ほど休憩したら梯子を登って手すり状の鎖がかけられた石切道を進む。





二〇分ほど歩くと右手に白出大滝。





一〇時に鉱石沢の標柱を通過し、一〇時四〇分に荷継沢に到着。下って来るハイカー一人とすれ違う。





ここで一旦、腹ごしらえを済ませ、一一時ちょうどに出発。

さぁ、ここから一気に「白出沢」を登り詰めれば穂高岳山荘だ。標高差がおよそ八〇〇米。手元のガイドブックによれば標準所要時間は三時間とある。一四時には山荘に辿り着ける計算だ。いいぞ、今日中に奥穂高はいただきだな。


「白出沢」はひたすら大小さまざまな岩の転がる急斜面を登り詰めていくだけの、まぁ何というかあまり楽しくないルートだ。おまけに霧が出て来て上の方がどうなってるのかちっともわからない。

つまり、一体あとどれくらい登ればいいのか見当もつかない。





途中、何度か沢筋が分かれる地点では、リボンやケルンを見つけてルートを判断する。


一時間ほど登ったところで霧が晴れた隙に、すかさず記念撮影。





しかし遠いな・・・。


一二時三〇分、噂に聞く「アビナイヨ」を通過。





ペースの落ちて来たトミーにはゆっくり登って来てもらうとして、私はマイペースで岩屑の転がる沢をせっせと登り詰める。普通に歩いてると足を乗せる石の三つに一つは浮石で歩きにくいことこの上ない。たまに現れるペンキ印通りに進めばかすかな踏み跡らしきものを追跡できるので多少登りやすいのだが、そのうち踏み跡らしきものはなくなって、また三つに一つは浮石のルートに戻ってしまう。

登って行くうちに霧が濃くなって来て後ろを歩いていたトミーを見失ってしまった私が、適当な頃合いで荷物を下ろして岩の上に座り込みポテトチップスなど頬張っていると、一人の初老のハイカーが通りがかって私に声をかけて来た。


たしかこの沢の歩きにくさに関する話題から私たち二人の会話は始まったのだが、そのうち私たちは時が経つのも忘れて話し込んでしまい、その初老のハイカーが朝からこの沢を登り、奥穂高を通り過ぎてあの「ジャンダルム」まで行って来た帰りであることや、その初老のハイカーは毎月のようにそのルートを日帰りで楽しんでいる、ということや、何でそんな無茶な日程なのかと言えば、その初老のハイカーは二日続けて休みが取れない仕事に就いているからだ、ということや、この沢は落石が多いので実はあまり端の方を歩くのはとても危険であることなんかを彼は教えてくれた。駐車場の件を教えてくれたのもその初老のハイカー氏だった。


そのうちトミーが現れるだろう、と思って実に三〇分はそのハイカー氏と話し込んでしまった私だったが、一向にトミーが現れる様子はなく、登って来た道を見下ろしても見えるのは濃い霧ばかりだ。すっかり身体が冷えてしまった私は初老のハイカー氏に別れを告げて先を急ぐことにした。


一四時二〇分に山荘前に到着。初老のハイカー氏との団欒のひとときにかかった三〇分を差し引くとしても、やはり私の脚でも荷継沢から三時間は必要だったってわけだ。





ガラガラと引き戸を開けて中に入ると、ちょうど一人のハイカーがチェックインの手続きをしている最中だったので私はしばらく待たされた。入り口の左手にストーブがあるのを見つけたが、その周りは三人の白人ハイカーが占領していた。二人の若い男と、それからブロンドの美女ハイカーが一人だ。ちょっと躊躇ったが、やはりそこは図々しく「エクスキューズミー」と言いながら空いたスペースにお邪魔すると、ブロンド美女は私ににっこりと微笑みかけてくれた。若い男たちも紳士的で、私はこの白人グループにとても好印象を持った。

私の番が来たので受付の女の子に二人泊めてくれるよう要請し、それから明日の分の弁当を注文するかどうかを決めるために北穂高小屋では何時から昼の食事が出来るのか尋ねてみると、その受付の女の子は「わからない」と即答した。公衆電話があるので電話をかけて聞いてみてくれ、と言う。あぁ、そうか、この山荘と北穂高小屋は同じグループの経営じゃなかったのか・・・。

私は女の子に弁当を注文するかどうかは相棒と相談して決めるのでちょっと待ってくれ、と言い、代わりにその場で「ラーメン」を注文した。賢いハイカーは山登りでへとへとに疲れてしまったら何はともあれ「ラーメン」を食うもんだ。


自分の分を注文したのはよかったが、ラストオーダーが一四時三〇分だという衝撃の事実を知った私は、トミーの分も注文してやった方がいいのではないか、という相棒として当然の衝動に駆られた。問題はトミーが一体いつここに辿り着けるのか、という肝心なことについて何も情報がないということだ。ラーメンは時間が経つと麺が伸びてクソ不味くなっちまう。

私は山荘の外に駈け出して裏手に回り、今しがた登って来たばかりの白出沢の岩屑道を見下ろした。五〇米ほど下の方まで視界がきく以外は霧しか見えない。私の信頼する相棒・トミーがこれしきの道で遭難しているなんてことはありえない。その安心感は決して揺らぐことはないのだが、それにしても一体トミーは何をやってるんだ?


まぁ私が気をもんだところでトミーの身に何か幸運が訪れるわけでもないので、山荘に戻って、とりあえず差し出されたラーメンに集中することにする。


ラーメン、しめて八五〇円。





うーむ、たぶん下界で八五〇円の支払いを要求されたら箸を投げつけたくなるような凡庸なラーメンなんだろうが、外気温が氷点下近い標高三〇〇〇米の地点に建つ山荘で頂けるともなるとやはり格別だ。


半分ほど平らげたところでようやく玄関の引き戸を開けてトミーが姿を現した。何でもハイドレーションパックの機能に一部不具合が発生し、そいつを治すのにえらく時間がかかっちまったらしい。私は事情を説明し、ついでに一度はわざわざ様子まで見に行った事を補足したうえで、潔くラーメンを諦めてもらった。


たっぷり休憩を挟んで一五時三〇分に奥穂高の山頂を目指して出発することにする。霧に包まれた山荘前からかろうじて目の前にこんもりしたピークが見えているが、これが山頂だとするとガイドブックにあった山荘からの標準所要時間が五〇分という情報とは明らかに矛盾する。念のため山荘に戻ってスタッフに確認すると「そんなわけないだろう」と言わんばかりに、山頂はそれよりずっと奥にある、と教えてくれた。


山荘前のテラスから岩場に取っ付いて鎖や梯子を頼りに登っていくと稜線に出る。なるほど、たしかにずっと奥の方に一段高い山頂らしきものが見えている。





四〇分ほどかけて標高差二〇〇米の岩場を登り切り、一六時一〇分、ついに山頂に到着。





駐車場を〇六時過ぎに出発してから実に一〇時間かけて標高差二〇〇〇米を登り切ったってわけだ。正直なところ計画段階ではどうなることやら見当もつかなかったが、人間やれば出来るじゃないか。


せっかく辿り着いた山頂だったが、風が吹き付けくそ寒いうえに景色も何も見えないので逃げるように退散する。そのうち雪までぱらつき始めて最悪な気分だ。


一七時には夕食と聞いていたが、山荘に辿り着いたのが一七時〇五分。衣類や装備を乾燥室に放り込んでから食堂に向かうと他のすべての泊り客が既に食事を始めていた。全部で二〇人ってとこだろうか。

トミーも既にテーブルの一番端の席に着いて食事を始めていて、私にはその真向いの席が宛てがわれていた。私が席に着くと、トミーの隣の席にいた青年ハイカーが私に「茶碗をください」と言い、自分の近くに置かれていた米びつから私の分をよそってくれた。そのとても親切な行為に私が感謝の思いを表明すると、今度は私の隣の席の青年が味噌汁をよそってくれた。うひゃー、何て素敵な若者たちなんだ!


その見事な連携プレーに私はてっきりその二人のナイスガイは知り合い同士だとばかり思って話しかけたのだが、実は二人はバラバラにこの山荘までやって来た見知らぬハイカー同士だった。トミーの隣の青年は上高地から涸沢小屋経由で、私の隣の青年は北穂高から縦走してここまでやって来たと言った。

私の隣の青年が辿ったルートは明日私たちが辿ることになるルートと一部重複しているので、早速コースの状況に関する情報収集を開始したが、登山を始めて一年かそこらの、自称「入門者ハイカー」である若者の回答は、雪も大して積もっておらず「何も問題ない」というものだった。私はその回答に大いに満足した。


さて、山荘の夕食。





つい三時間前にラーメンを注文してしまったことを後悔したくなるほど重厚なボリューム感だ。いつだってそうだが、山小屋で提供される夕食の品質についてとやかく言うことは適切ではない。


そのいかにも大量生産に適した献立の夕食を平らげた私は、いつものように山荘からヤカンで提供される夕食用の茶を何杯も飲みながらトミーとのとりとめのない会話に興じ、それから少しだけトミーのハイドレーションパックの修理の手伝いをしてから二〇時にはさっさと就寝した。


さて、朝起きると事態は一変していた。つまり昨日の夕方パラついていた雪は一晩中降り続いたようで、あたりはたった一夜にして雪山の様相に変わってしまっていた。しかも予報では夕方から天候が荒れる恐れがあるという。こりゃぁ槍ヶ岳まで縦走なんてとてもじゃないが無理なんじゃないのかい?


今日の行動計画は涸沢岳に登ってその先のコース状況を確認してから検討するとして、私とトミーはひとまず「ご来光」の鑑賞のために、カメラ片手に厳重な防寒装備のもと表に出る。


何度体験しても心の踊る瞬間だ。





朝焼けに映える穂高岳山荘。





そして朝食。





準備を済ませて〇七時三〇分に山荘を出発。ひとまず涸沢岳に向かう。雪の上につけられた先行者の踏み跡があるのでそいつを追跡していく。率直に言ってコースのコンディションはかなり悪い。

半分ほど登ったところで山頂方向から下りて来る一人のハイカーとすれ違う。元からそうするつもりだったのか、その先に行くことを断念したのかは分からないが、彼こそが踏み跡の主で、涸沢岳のてっぺんまで行った足でそのまま引き返して来たんだろう。


〇七時五五分に私たちも涸沢岳山頂に到着。





うーむ、眺めは申し分ない。





そして私たちが槍ヶ岳までの縦走は断念して今日のうちに新穂高温泉まで下山するという決断を下すのに二秒とかからなかった。夏場の標準所要時間がおよそ八時間。このコース状況だと日暮れまでに槍ヶ岳山荘に辿り着けるかどうかはかなりリスキーなギャンブルだ。しかも夕方には天候が荒れるというじゃないか。導き出される答えなんてひとつしかない。


そうと決まったら折角の機会だ、昨日はろくでもない記憶しか残らなかった奥穂高に登り直して、今度こそ山頂からの素晴らしい展望を堪能することにしよう。


山荘前のテラスまで戻り、それから昨日取っ付いた岩場へと向かう。積雪にビビってるのか何なのか、若い四人組のハイカーがそこを登ろうかどうしようかと相談しているのを尻目に鎖に手をかけて登っていくと、例の白人グループが少し先の梯子を伝って下りて来るのが見えた。

先頭を歩いていた私は彼らに道を譲ろうとしたが、細面のハンサムな若い男が片言の日本語で「ドウゾ」と言って私たちに先に行くように促すのでお言葉に甘えることにした。もう一人の若い男とそれからブロンド美女が岩場に横向きに打ち付けられた鎖を掴んでいるので、私は掴むものがないまま彼らとすれ違わなければならなかったが、それを見たブロンド美女は咄嗟に私の腕を掴んでくれた。私が流ちょうな英語で礼を言うとブロンド美女ははにかんだような笑顔を見せてくれた。うーむ、悪くない気分だ。

そして三人目の若い男が私のオプスコア製のプラスチック・ヘルメットを指さして「ジャパニーズ・アーミー?」と聞いて来た。ほぅ、彼はこいつが軍用のヘルメットだと知ってるって言うのか。私は銃を撃つまねをしながら「ノー、ノー、アイ・ラブ・エアソフトゲーム!」と答えておいた。それが彼に通じたかどうかなんてどっちでもいい。


気持ちのいい白人たちに別れを告げて、後ろを振り返ると槍ヶ岳まで見通せる素晴らしい展望の稜線を写真を撮ったり休憩を挟んだりしながらちんたら歩いていると、薄着の若者二人が私たちを追い抜いて行ったが、ほかにはその先ひとりのハイカーの姿すら見えやしなかった。私たちのいつもの狙い通り、絶景をほぼ独占しながらの「静かな山歩き」だ。


そして昨日に続いて奥穂高の山頂に到着。私たちを追い抜いて行った薄着の若者たちが場所を空けてくれるのを待ってから記念撮影。





一際目を引くジャンダルム。





常念岳。その手前には屏風ノ頭。





上高地方面。中央に見えるのは霞沢岳。





三〇分ほど山頂に滞在して十二分に景色を堪能した私たちはそろそろ下山することにした。


山荘前まで戻ってテラスで弁当にしようとしたが風が強くて食事にならないので山荘の中へ。ついでに六〇〇円の「ホットココア」も注文して名残惜しいひとときを過ごす。


一二時一五分に山荘を出発。ただでさえ歩きにくい白出沢に雪まで積もっていて心底うんざりだ。





登って来たハイカーにコース状況を確認してから一気に沢を下る。一三時四五分に「アビナイヨ」を通過し、さらに二〇分ほど下ったところで五〇米ほど後ろを歩いていたトミーが突然わめき始めたので何事かと振り返ると、ちょうど電子レンジ大の岩が私から見て左手の崖からトミー目がけて落ちて来るところだったので、私は目を丸くした。

後からトミーに聞いたところでは、トミーは私に大声で落石を知らせようとしていたらしい。だがそいつを知る必要があったのはトミーだけだった。そのとき私が立っていた地点はまるで安全圏で、私が目にしたのはトミーから二〇米ほど離れた地面に衝突した岩が砕けて手裏剣状の破片がトミー目がけて一直線に飛んでいく情景だった。幸い岩陰にうまく隠れていたトミーをその破片が直撃する事はなかったが、そいつはまるでテレビでも見てるかのように非現実的な出来事に思えた。

それにしても恐ろしいことに、岩が落下した地点はペンキ印がそこを通るように指示していた地点と完全に一致していて、つい数分前に私が通った地点でもあった。そう言えば登りで出会った初老のハイカーが、このコースは落石がやばいって言ってたっけ。あれはマジだったんだな。


一四時四〇分にようやく荷継沢に到着。雪で足場が悪かったからだろうが、山荘から二時間半もかかっちまった。二〇分ほど休憩して一五時ちょうどに出発。鉱石沢の標柱を一五時二〇分、重太郎橋を一五時四〇分に通過した私たちは一六時二〇分に「奥穂高岳登山口」に到着した。

荷物を投げ出して休憩してると、槍ヶ岳の方から四〇代かそこらの二人組のハイカーが現れた。彼らは私たちに穂高岳から下りて来たのか?と尋ね、それから穂高岳まで登るルートはそこから槍ヶ岳まで登るのに比べてハードだと聞いたが本当か?と聞いて来た。私は「そうでもない」と答えておいたが、本音では、その標高差を思えば決して楽なルートではない、と思っていた。だがそいつはそこから槍ヶ岳まで登ったって同じことだ。


一六時四〇分に登山口を出発した私たちは途中でさっきの二人組を追い抜きつつ、一時間ほど歩いてようやく林道ゲートに辿り着いた。辺りは既に薄暗かった。そして槍ヶ岳の方を見上げると空に真っ黒な雲が漂っていた。やはりあそこで撤退して正解だった、と私は心の底から思った。


第二駐車場まで戻って来た私たちは、寒空の下でさっさと着替えを済ませてアウディに乗り込んだ。そして駐車場のゲートで機械によって提示された支払額があまりに高額なのに目を丸くした。おまけにそのゲートでの支払いには一〇〇〇円札しか使えないという衝撃の事実に口をあんぐりさせた。両替もできないそのゲートで支払を済ませる方法はただひとつ、そこに書かれた電話番号に電話をかけ、担当者が両替用の一〇〇〇円札を五枚か一〇枚持ってどこかから車で駆け付けるのを何十分も待つ、というおよそ信じがたいものだった。私はそのうちゲートのバーが私たちと同じ目にあった何者かにへし折られるに違いない、と半ば呆れながら思った。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




September 27, 2014


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

来月の大キレットに備えて足慣らしにトミーと武尊山へ。武尊神社側からのコースは手軽過ぎて私たちの目的にふさわしくない。川場谷の駐車場から始まる登山道を登って前武尊経由で山頂を目指すコースは、それなりに登り応えもありそうだ。

前日に行きつけの本屋に行くと、あろうことか駐車場からの登山コースを収録した地図が売り切れていてコースタイムが分からない。ゆとりを見て〇七時には登山口に着きたいもんだ、とトミーにEメールを送ったら、〇四時三〇分に私の自宅まで迎えに来るという。やれやれ、まったく早起きは苦手なんだが、こればかりは仕方がない。


天気予報によれば午前中は曇りがちだが午後からは晴れるらしい。いいねぇ、朝方は涼しい方がペースもあがるってもんだ。登山口から山頂までの標高差はせいぜい九〇〇米ってところだが、登りルートの大半は岩場と鎖場らしいじゃないか。まったく八海山の屏風道の二の舞だけはごめんだぜ。


ほぼ予定通り〇七時一〇分には駐車場に到着。霧が漂っていて小雨がパラついてすらいる。カンカン照りよりはましだが昼にはちゃんと晴れてくれるんだろうな?





先客の車が五台ほど止まっていて、私が放尿を済ませてトイレを出た頃に二人組の男が登山道の方へと歩いて行くと駐車場には私たち以外に人っ子ひとりいなくなった。さぁ、私たちもとっとと準備を済ませて〇七時四〇分に出発だ。


しっとりと濡れた登山道を三〇分も歩くと不動岩への分岐に到着。





帰りは天狗尾根を下って楽をする代わりに行きは不動岩のコースを辿ることにする。分岐から三〇分ほど登って川場尾根に合流。





事前に仕入れた情報によれば、岩場や鎖場が連続して険しいうえに傾斜も急でそれなりにハードなルートとされている川場尾根だが、私たちにとってはいたって普通の山歩きだ。しばしば現れる鎖場の鎖にもあまり必要性を感じない。そしてコースは頗る明瞭なうえに先行者の足跡もくっきり残っているので道迷いの懸念もまた皆無だ。


途中、紅葉の美しい岩場を通りがかる頃に雲が晴れて来た。休憩がてら記念撮影。





川場尾根に合流してから一時間も歩かない地点で、左手の岩壁から一五米ほどはあろうかという一本の鎖が垂れ下がっている事に気付いた私は立ち止まってトミーにそいつを報告した。これまで歩いて来た道は何の問題もなく先まで続いていて、明らかにその鎖に手をかける事は寄り道以外の何者でもないのだが、何と言うかその鎖と来たらいかにも私たちに「登ってくれ」と言わんばかりの垂れ下がり方をしている。

私の行きつけの本屋の発注処理を担当しているろくでもない店員のせいで山頂に辿り着くまでにいったいどれだけの時間が必要なのかがはっきりしない以上、本来であれば道草など食ってる余裕はないのだが、それでもそこを素通りしたら間違いなく後悔しそうな気がした私は、あまり前向きでないトミーを説き伏せて、その鎖を伝って上まで登ってみることにした。


いざ登り始めてみると足場に乏しい何とも不親切な岩壁だ。腕力と、それから少しばかり頭を使って登らなければならない。





登ってみるとなかなかの好展望だ。前武尊の向こうにかろうじて剣ヶ峰のてっぺんも見える。





ただ何と言うか展望はなかなかのものなのだが、その岩場の上はあまりハイカーにとって都合のいい形状をしてなくて、ゆっくり寛げるようなスペースなど全くなかった。おまけに両サイドはすっぱり切れ落ちていて、先にそこに登った私はトミーが四苦八苦しながら鎖を登り切るまでの時間と、それからすぐさま「下ります」と言って今しがた登って来た鎖をトミーがそそくさと下り切るまでの時間、きんたまが縮む思いでその岩場にしゃがみ込んでなければならなかった。


ところで道中に「不動岩」なるものが最後まで現れなかったので後から調べてみたら、どうやらこの岩が「不動岩」だったらしい。私が見つけた鎖は本来その岩を下るためだけに使われるべきもので、どうやら私たちは素直に踏み跡を辿っているうちに巻き道へと入り込んでしまったようだ。何てこった。


それまで辿って来た道に戻った私たちは前進を続ける。同じような鎖場をひとつ経由した後で現れる「カニの横這い」。





足を滑らせてもすぐ下は踏み跡だ。特に盛り上がりもないままクリア。


ところで私には最後までこの右手の鎖の意味が分からなかった。まさか左手の真新しい鎖がつけられるまではこいつに足を掛けて登っていたとでも言うのかい?





難所らしい難所もないまま、さらに一時間ほど歩いて前武尊に到着。





トミーが、後ろのボートは何に使うのか、と、とても気にしていたので、私は、そいつはソリじゃないのか?と冷静に指摘しておいた。


一〇分ほど休憩して一一時二〇分に出発。前武尊から山頂までの標準所要時間は私の持っているガイドブックによれば二時間だったはずだ。既に出発してから三時間四〇分経過している。つまり登り行程は概ね五時間半ってわけだ。

登るのに五時間半かかる山を下るのに必要な時間は、私たちの脚力をもってすればだいたい三時間半から四時間ってところだろう。てことは、どんなに遅くても一四時〇〇分には下山を開始しなければならない。山頂で寛げる時間はせいぜい三〇分ってところか。


前武尊から少し先へと進むと紅葉に彩られた剣ヶ峰(南峰)が眼前に迫って来る。この頃には雲も晴れて青空が広がり、まったく申し分のない眺めだ。





前武尊から二〇分ほど歩いたところで剣ヶ峰の鞍部に到着。剣ヶ峰が立ち入り禁止だ、という情報は事前に仕入れてあったので素直に巻き道を行くつもりだったが、ふと案内板に目をやると、剣ヶ峰の「北峰」とやらは立ち入り規制の対象ではないようだ。





少しでも早く山頂に着きたいのはやまやまだが、私やトミーがこの状況でしっぽを巻いて巻き道へこそこそ逃げ込むようなオカマ崩れのハイカーであるわけがない。それ以外の選択などありえない、という足取りで私たちは二人して剣ヶ峰の「北峰」へ。

てっぺんまで登り詰めてみると、これから辿ることになる家ノ串、中ノ岳、沖武尊(山頂)までの稜線が一気に目の前に広がった。ひゃー、何とも素晴らしい眺めじゃないか!





そして剣ヶ峰からの下りは、秩父の二子山を彷彿とさせる高度感の溢れる岩場歩きで、その魅力もまた捨てがたい。





剣ヶ峰を下り切った私たちは、ときに前日までの雨でぬかるんだ悪路に悩まされながら、一二時二五分に家ノ串、一二時五〇分には「中ノ岳南の分岐」を通過。

このあたりからちらほらと現れ始めた他のハイカーたちを次々に抜き去り先を急ぐ。


さらに鳳池を通り過ぎて五分も歩くと、またヤツが現れる。





まったくしつこいやつだ、とトミーと二人で陰口をたたいている間に一〇人程度のハイカーが寛ぐ山頂に到着。時刻は一三時一〇分、想定より少し早い。これならまぁ少しはゆっくりできそうだ。


だが昼食の準備をしていると、武尊神社側のコースからガイドに引率された五〇人はくだらない団体のハイカーが現れた。やれやれ、心の洗われる思いで優雅な大自然の魅力を肌で感じる素晴らしいひとときをぶち壊しにされる瞬間だ。

そいつは言うならば上質な空間と繊細な料理で客をもてなす事を趣とする静かな呑み処に数十人の酔っ払いがずかずかと入店して来るようなものだ。周囲に対するちょっとした気配りのできる人間ならそんな無粋なまねはしないだろう。恥ずかしげもなくああいった団体登山に参加するようなやつらは、いろんな意味で標準より1ランクか、もしくはそれ以上レベルの低い人間の集まりだ、と主張する勢力がいたとしても、私はあえて異を唱えようとは思わない。


だが幸運なことに、そいつらをシめるポジションにいる引率ガイド役の若い男はなかなかやり手で切れ者だった。一三時二〇分を過ぎて到着したにも関わらず、そのガイドの若者はたぶん自分の親よりも年かさの連中が多くを占める数十人のひよっ子ハイカーどもに向かってきっぱりと「一三時四五分には下山を開始する」と言い放ち、そして一切の抗議を受け付けずに、その言葉通り、実に見事にそいつをやってのけた!バタバタと食事と記念撮影を終えた嵐のような集団が姿を消すと、山頂には再び静寂が訪れた。

帰りのバスの時間か何かの都合で彼はそうせざるをえなかったのだろうが、私と利害が一致さえしてればその背景などどうでもいい。私はそのガイド役の若い男に畏敬の念をすら覚えた。


さて、昼食はいつもの「熊本ラーメン」。





できあがり。





またしても箸を家に忘れて来てしまった私は、一年前と同じくトミーが食事を終えるまで鍋の取っ手で掬ってラーメンを食わなければならなかった。少々頭に来た私は自宅に帰り着くなりガスの容器の目立つところに油性ペンで大きく「ハシ」と書いてやった。


昼飯もたいらげ、邪魔者が姿を消して静けさを取り戻した山頂でひとしきり記念撮影などに興じた私たちは、一四時〇五分に下山を開始することに。

最後に私たちが往復することになる前武尊に至るまでの稜線の眺めをこの目に焼き付ける。





中央に見えているのが中ノ岳。稜線ではなく鳳池沿いに巻き道がつけられている。紅葉を楽しむには少し時期が早かったかもしれないが、瑞々しさの溢れる緑色の斜面に僅かに紅葉が点在するさまも、それはそれで美しい。


一四時二五分に「中ノ岳南の分岐」、一四時四五分に家ノ串を通過。そして私がトミーより一足早く前武尊まで辿り着いたのは一五時三〇分のことだった。一組のハイカーが銅像の正面で休憩中で、私は彼らの邪魔にならないように(そして彼らが私の邪魔にならないように)銅像の裏側に荷物を下ろしてトミーの到着を待つことにした。そこは風下側で、銅像がいい風よけになってくれたのは幸運だった。

タンクトップ姿で寒さに震えながら荷物を下ろし、パックのペットボトルから装帯のペットボトルに最後の水分の詰め替えなどしていると、不動岩のコースから二人組の若者が突如として姿を現したので私は混乱した。おいおい、一体いま何時だと思ってるんだ?


もちろん彼らはこれから沖武尊(山頂)を目指すわけではなくて、ただ単にこの前武尊までのハイキングだけを楽しむためにここまでやって来た、まぁ何と言うか「欲のない」ハイカーなのかもしれなかった。五分ほど遅れてようやく姿を現したトミーが長めの休憩を要求したので、私は寒さを堪えながら彼らの動向を注視した。先に休憩していた二人組がこれから私たちの辿る天狗尾根の方へと出発し、ほどなくして姿を現したばかりの二人組も天狗尾根へと向かった。

なるほど、彼らは身の程知らずの無謀で愚かなハイカーなんかではなかったってわけだ。でも前武尊で引き返しちまうハイキングなんて何が面白いんだ?


トミーが心から満足できるだけの十分な休息をとってから、一五時四五分に私たちは風の冷たい前武尊を後にした。歩き出して間もなく先を行く私とトミーの間には結構な距離が開いてしまった。これまでハイキングに出かける度にストックを持参し続けて来たトミーは、最近あまりストックに頼らない山歩きを心掛け始めたようで、たぶんそのせいだったに違いない。


スキー場との分岐に差し掛かる前に前武尊から山を下りて行ってしまった例の二人の若者が休憩している現場に遭遇した私は、あまり馴れ馴れしく思われない程度に友好的な態度で彼らに話しかけてみた。話してみると二人とも実に清々しい好青年で、出発する時刻が遅かったうえに川場尾根のコースが予想していた以上にハードで本当は山頂を目指すはずだったのだが諦めて前武尊から下山することにしたことを私に正直に話してくれた。

少しばかり二人との世間話に興じてから私は先を急ぐことにしたが、彼らはまだ暫くその場に留まるつもりのようだったので、私は彼らに、もし私の友人であるトミーが通りがかったら、休憩なしで四〇〇米は下りて来いと伝えてくれ、と頼んだ。つまり前武尊から登山口までの標高差が約八〇〇米なので、その半分くらいは立ち止まらないで下りて来て欲しいって事なんだ、と私は彼らに説明を試みたのだが、果たして彼らがどこまで正しくその意図を理解してくれたのかは分からなかった。


一六時〇五分にスキー場との分岐を通過。私のベクターが前武尊から四〇〇米ほど下ったことを示す地点で荷物を下ろし、地面に座り込んで水分などガブ飲みしながら休憩していると、間もなくトミーが姿を現した。そしてつまらない伝言のために足留めを食らうことになってしまった二人の若者の代わりに、私のせいで二人の若者は全く気の毒な目に合った、というような事を言った。私は何度も、もしトミーが通りがかったら、でかまわない、と念押ししたつもりだったんだが・・・。とにかくその二人の若者はとんでもなくいい奴だった。

トミーはとにかくお疲れのようで、要所要所で私に休憩を要求したので、そのうち例の二人の若者は私たちに追いついてしまった。だがそれは私にとってはひとつのチャンスでもあった。二人に追い抜かれ際、私は彼らに丁重に礼を述べることを忘れなかった。


天狗尾根のコースは取り立てて注意を引くようなところなど何もない、とても平凡な山道だった。何よりも楽に山を登り下りしたいハイカーならそのコースをきっと気に入るに違いない。またしてもトミーに先行して一六時五五分に不動岩コースへの分岐を通過した私は、一七時〇五分には無事に駐車場まで辿り着き、その有意義で充実した早秋のハイキングを終了した。下りにかかった時間は、十分に休憩をはさみながらでもたったの三時間。大キレットのための足慣らしとしては上出来だ。


例の若者たちはとっくにそこに着いて着替えまで済ませてしまった後だった。そこでも彼らとおしゃべりに興じた私は、彼らが一週間前に谷川岳を踏破した事を知った。

その山は本来なら私とトミー、それにヤギ男の三人で二週間前には登頂を済ませてしまっていたはずの山だったが、私以外の二人が揃いも揃って風邪をこじらせてくれたおかげでその計画はお流れになっていた。私は彼らから谷川岳に関するいくつかの情報を聞き出したが、彼らは私たちのプランとは違ってロープウェーを使うルートを辿っていたので、あまり有用な情報を得ることはできなかった。

最後に彼らもまた、山で私に話しかけてくる多くのハイカーと同じように、私に「あなたは自衛隊員ですか?」と聞いた。その道に造詣のない人々に自衛隊員の装備に関する解説を一通り終えてから私の装備との違いを説明するなど全く楽な仕事ではない。私はいつものように、家にあるもので装備を揃えたらこうなったんだ、とだけ答えておいた。


若者二人との会話が終盤に差し掛かった頃にようやくトミーが姿を現し、それと入れ替わるようにしてミニバンに乗った若者二人は彼らの住む街へと帰って行った。私たちは大急ぎで着替えを済ませ、トミーがインターネットか何かで見つけて来た近場の温泉へと向かった。もちろん私もトミーも、そこから〇八時の方角に一二〇マイルほど離れた、いつだって大勢のハイカーで賑わう美しくも荘厳なるあの名峰で、ほんの五時間前にいったい何が起きたかなど知る由もなかった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




July 25, 2014


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

先週末に日帰りで甲斐駒にでも行こうかとトミーと示し合わせていたが、悪天候でお流れ。急きょ別の日にちでリベンジしようかと話し合っていたら、甲斐駒に関して、何でも台風の影響で道が通行止めになったせいで登山口に向かうバスが運休だとか、もう一方の登山口だと朝の三時には登山口に着かなければならないとか、全くろくでもない情報しか入ってこないので私たちは他の山をあたる事にした。


木曽駒、苗場、雨飾山、巻機山、妙高山とあれこれ候補を上げた挙句に、行先はトミーが見つけて来た燕岳に決まった。日帰りで北アルプスの山に登るなんて私にはまったくありえない発想だ。なかなかやるな、トミー!


天気予報が二転三転するなか、念のために雨飾山をプランBに想定しつつ、私たちは前日の夜を迎えた。気象予報によれば燕岳界隈は雨飾山のエリアよりも曇りがちのようだったが、トミーは標高の低い雨飾山の予想気温が気に入らないと言って燕岳を強硬に主張したので、別にどちらでも構わなかった私はその案に同意した。


想定コースは次のとおりだ。つまりセオリー通り中房の登山口から合戦尾根コースを辿って山頂を往復するか、あるいは山頂からさらに北燕岳、東沢乗越と進んで中房まで戻る周回コースをとるか、だ。ガイドブックによれば周回コースの標準所要時間は一〇時間弱とあるので、標準タイムよりよほど早く山頂に着く等の好条件に恵まれないと厳しいだろう。

おまけにインターネットで情報を収集していると、東沢乗越から下る中房川沿いの下山コースは道も荒れていてペンキマークも消えかかっているだの、山ヒルがポタポタ落ちてくるだの、とてもじゃないが私好みのコースとは言いがたい。しかも天気予報では夕方以降に降雨が予想されていて増水の危険もある。はっきり言ってあまり気乗りはしないが、私は冒険が大好きなトミーがその私が嫌いな方のコースを大喜びで下りていくさまを思い浮かべながら、雨具一式とヒル退治用のライターをバックパックに突っ込んでおくことにした。


当日、ご自慢のアウディで四時前には私の家の前に乗り付けたトミーは、四時間弱で中房登山口の駐車場まで私を運んでくれた。トミーは県道から様子がよく見えなかった第3駐車場を素通りして第2駐車場へと向かい、ちょうど何人かのハイカーたちがそこから登山装備姿で出てくるのを確認してから入り口にアウディを滑り込ませた。


当局によって設置された駐車場利用者向けに警告を発する案内板。





人々の反応。





私たちがそこに着いた〇七時五〇分の時点で、正規の駐車スペースは既に満車で、通路も上のようなざまだったが、トミーは私と、それからまさに登山口へと出発するために通りかがった五〇代かそこらの親切なご夫婦のアドバイスにより、当局の意向に逆らうことなく見事に駐車スペースを確保した。

私たちが装備を整えている間に七、八台の車が駐車場に入って来て、それから諦めて引き返して行ったから、まさにトミーのアウディこそ「最後の一台」だった。なぜか私とトミーはそういった強運に恵まれる事が多い。


装備を整え終えたら早々に出発だ。駐車場から登山口までは登り坂の県道を一〇分かそこら歩いていかなければならない。

賑わう登山口の温泉施設前。善良なハイカーたちのために登山届を書くためのテーブルまで設置されている。





善良でない二人のハイカーは用便を済ませて〇八時一〇分に登山口をスタート。


中房から燕岳を目指すこの「合戦尾根コース」は「北アルプス三大急登」のひとつとされる一方で、危険個所もなく入門者向けのコースとしても紹介されるという二つの顔を併せ持つ。実際、そこを登るハイカーたちは、その多くが大して実力派には見えない。

次々と先行者を抜き去って〇八時三五分には第一ベンチ、〇九時ちょうどに第二ベンチを通過する。標準所要時間が一時間と一〇分のところを五〇分で歩き終えた事になる。まぁまぁだな。


私たちの調子はなかなか良かったが、周りのハイカーたちの多くはまったくそうではなかった。どいつもこいつもとにかく登るスピードが遅い。もちろん(トミーはともかく)私だって登りのスピードはそんなに速い方ではないし、歩くスピードは人それぞれだから、彼ら全員を悪しざまに言うつもりはないが、まぁそんな中でも入門者と言うのか何なのか、ファッションか何かと勘違いをして山に現れてしまう観光客崩れのような、まるで余裕のない連中の多くがいつだってそうであるように、自分たちのせいで後ろが渋滞していても全くその事に気付いてないか、気付いていても道を譲ろうとしないようなウスラマヌケが次から次に現れる事に、私は心の底から辟易とした。

極めつけは夏休みを迎えた地元の中学生によって構成されるハイキング集団だった。もちろん彼らには全く悪気はないのだろうが、その三〇人かそこらで構成されるグループを引率する先生方はどれもこれもまるで統率力や判断力に欠けたノータリンどもだったのだろう、彼らが率いる集団に追いついてしまった私やトミー、それからその他の紳士的な何組かのハイカーの皆さんは、それでも道を開けようとしない彼らによってクソ暑い山中でとんでもない足止めを食らった。特にいつだって人のあまりいなさそうな時期を狙って山に入る私やトミーには、こんな事はまるで初めての経験だった。

周回コースを辿る事も想定している私たちにとっては、たとえ一分一秒の無駄と言えども死活問題だったのだが、もちろん私たちの前を行く少年少女たちや、その他の私に言わせれば「出直してもらいたい」ハイカーたちはそんな事情を知る由もない。後から聞いたところではトミーもそうだったらしいが、私にもその時、私たちの事情ではなく、私たちの快調な山歩きを妨げる、間の悪いことにたまたまそのとき居合わせてしまった何組かのハイカーたちの事情、「体力がない」とか「スキルがない」とか、そもそもそこにいるべきでない、とかいった諸々の事情によって、山頂に着いた私たちには恐らく周回コースを選択するだけの時間は残されてないように思われた。


ようやくあるポイントで前を行く中学生集団が私やトミーを含む何組ものハイカーに道を譲った。そして子供たちは通り過ぎる私たちにとても気持ちの良い挨拶をした。私は何もかもを水に流して、できる限り彼らの気持ちに応えられるよう礼儀正しく彼らに接した。そのうちの一人に聞いたところでは、彼らは山荘で一泊する予定で登っているらしかった。

ほほぅ、まだセックスも経験してないキッズどもが先に山小屋泊まりの方を経験するって言うのかい?そう言えば私が三年前に生まれて初めて宿泊した山小屋は富士山の何とかってボロ小屋で、私の人生に於ける最悪な思い出の中でもかなり上位にランクインするそれはそれはひどいものだった。私は彼らにとっての(たぶん)「初めての」山小屋泊まりが、後々まで良き思い出となって彼らの心に残る事を祈った。


第三ベンチを〇九時二五分、富士見台ベンチを〇九時五五分に通過した私たちが合戦小屋に着いたのは一〇時三〇分の事だった。登りの中学生集団をやっと抜いたと思ったら、下って来る中学生集団にも悩まされた割には、標準所要時間三時間のところを二時間と二〇分で歩き切った事になる。こりゃひょっとしたらトミーのお望み通り、帰り道は例の山ヒルが降り注ぐ「冒険コース」の方になっちまうんじゃないか?

ところで後から見知らぬハイカーに聞いたところでは、下って来た中学生集団は実に5クラス、一五〇人にも及ぶ大集団だったらしい。一五〇人の中学生たちも、ほぼ例外なく一人ひとりがとても気持ちのいい挨拶をしてくれた。それはそれで立派な事だと思うが、それって私も一人でいちいち一五〇回、挨拶を返さなきゃならなかったって事なんじゃないか?


(悪気はないにせよ)私のペースを乱す周囲のハイカーたちのほかにも私を苦しめたのは、「よく整備された」などと謳われる登山道にはありがちな「階段」だった。一体どこのどいつがハイキング中にそんなものを見つけて喜ぶのかまるで想像がつかないが、少なくとも私にとってそいつは甚だ迷惑な障害物でしかない。考えてみてくれ、斜面を登るだけなら足裏を斜め上にスライドさせれば済むものを、なまじ階段なんてものがあるばっかりに、その分よけいに足を上げなきゃいけなくなるじゃないか。

それに私は登りの道中、腕に着けたスントの高度計をずっと睨んでいたが、ほぼ一五分ごとに一〇〇米は高度を稼いでいた。つまり一時間で四〇〇米、合戦小屋までの二時間と二〇分でほぼ一〇〇〇米だ。そこは私にとっても決して楽なコースではなかったが、さほど体力があるように見えない周りのハイカーたちにとっては猶更の事だったろう。


合戦小屋と、その前の広場では多くのハイカーたちが休息をとっていた。そして彼らの殆どが、名物とされるスイカをさも美味しそうに平らげていた。私たちもそこで初めてきちんとした休憩をとることにしたが、先を急ぐ事もあってスイカは遠慮した。


一〇時四〇分に合戦小屋前を出発、同五五分に合戦沢ノ頭に到着。

そろそろ見晴らしがよくなって来た。





そこでも一〇分ほど休憩してから出発。その先は緩やかな登りだとガイドブックには書いてあり、たしかにそれは事実だったが、同時にそのあたりから私の左脚の四頭筋が悲鳴を上げだした。間違いなくあのクソ忌々しい階段のせいだ!

後から思うに、水分補給にはそれなりに気を遣っていたが、塩分の補給にはまるで無頓着だったのもよくなかったかもしれない。私はトミーに、次のハイキングには携行食としてシシャモの目刺しを持って来る!と半ばやけくそ気味に宣言しながら、何度も立ち止まってはストレッチの時間を要求した。

こうなったら多少面倒でもしっかり脚をケアしておく事が重要だ。万がひとつにも私のせいで私たちが山頂を踏めない事態になりでもしたら、明日にもトミーがこれ見よがしに仲間内でこんな風に言いふらすだろう。

全くとんだオカマ野郎をハイキングに連れて行っちまったぜ!


そうならないようにいつもより丹念に「ストレッチ」を繰り返しながら、私は脚の異常を騙し騙し歩き続けた。その甲斐あってほぼ一二時ちょうどにようやく燕山荘前の広場に到着。


目前に迫る燕岳山頂。





そして一気に開ける展望。

中央に見えているのはもちろん槍ヶ岳だ。





トミーはここで放尿のために燕山荘への立ち寄りを主張する。そのためにはわざわざ一度シューズを脱がなければならないので私はパス。

トミーが小便ついでに小屋のスタッフから「冒険コース」の現状に関する情報収集に勤しんでいる間、私は無邪気にもイルカの背中に跨ってハッスルしている姿をセルフ撮影するために小屋裏へ。ひょっとするとよく知られた事実なのかもしれないが、何とイルカの周辺は立ち入り禁止だった!





一二時二〇分に山荘前を出発。小屋のスタッフからの入念な聞き取り調査の結果、トミーがもたらしてくれた最新情報によれば、「冒険コース」は通行不可能という事はないらしい。つまりそのコースの事を分かっているハイカーなら「道に迷う事はない」というのが小屋のスタッフの言い分だった。そんなの当り前じゃないか!

口ぶりからするにトミーはまだ「冒険コース」に未練があるようだったが、残された時間と、それから夕方には雨が降るという気象予報を冷静に考えればそいつはやめといた方がいいだろう、というのが私の考えだった。


それはそうと稜線に出てしまってからは、私の脚に何の問題も起きなかったのは幸いだった。恐らく今日は山荘泊まりなんだろう、空身で山頂に向かうハイカーやハイカー未満にしか見えない人々を何組か抜き去りつつ、ところどころ砂利で滑りやすい道を二〇分ほど歩いた私たちは、何なく山荘直下の岩場に到着した。


ひとまず槍ヶ岳の見える方に一枚だけ壁のようにそびえ立つ岩によじ登って記念撮影。





そして早速の昼食。私はいつもの「特製ラーメン」の材料と一緒にアマゾンの通信販売で入手したばかりの満タンのガスボンベとストーブを取り出した。もちろん八海山のときと同じヘマはなしだ。当り前じゃないか。

昨日のうちに自宅で点火テスト済みのそのセットを手際よく組み上げて水を満たしたコッヘルをゴトクの上に乗せ、私は点火スイッチをカチッと鳴らした。カチッ・・・!カチッ・・・!何だよ、今度は風のせいで火がつかないじゃないか!!


見ればトミーも点火に苦戦している。八海山ではかろうじて麺をふやかす事が出来たので何とかそいつを食うことが出来た私も、さすがに生麺をそのまま食うのはごめんだ。だが忘れてはいけない。慈悲深い神がいつだって私を見守って下さっている事を。

私は私の皮膚に食いついたヒルを火あぶりにしてやるためのライターがパックの中に入っている事を思い出した。ガス栓をひねって流出させたガスの前でライターを点火してみると、私のストーブセットはいつもの激しい音とともに勢いよく炎を噴き出した。なるほど、ストーブなんて不具合で点火不能になってもゴトクの機能さえあればそれで事足りるってわけだ。こいつはいい事に気が付いたな・・・。


無事に「鹿児島ラーメン(マルタイ製)」のスペシャルバージョンが完成。角煮はもちろん別売りだ。





カップ麺を持参していたトミーに角煮を分けてやったら彼は大喜びした。


昼食を終え、いつの間にか山頂を占有していた、登りで追い抜いてやった例の中学生集団と思われる連中が姿を消してから記念撮影。





一四時一五分、帰路につく。さすがのトミーも、もう「冒険コース」の事は口にしなかった。


山頂から燕山荘へと続く稜線。東側はすっかりガスに覆われてしまった。





一四時三五分、燕山荘前。ここで槍ヶ岳ともおさらばだ。





燕山荘を後にして合戦尾根に入る。もういい時間だというのに登山道を登って来るハイカーは跡を絶たない。そして誰もがまるで異国のジャングルを彷徨う敗残兵か何かのような疲れ切った表情を浮かべている。あぁ、わかるとも。数時間前の私も似たようなざまだったに違いない。

私の予想に反して合戦尾根を下って行くハイカー、つまり私たちと同じように日帰り行程で行動しているハイカーは殆どいなかった。たまに見かける下りのハイカーたちもまた一様に疲れ切っていて、私たちが追いついてしまった初老の夫婦のご婦人などは、私たちの目の前で派手にすっころんで岩場にドスンと尻もちをついた。本人が大丈夫だと言うので私とトミーは何事もなかったかのように彼女を置き去りにした。


一五時一〇分に合戦沢ノ頭を通過し、二〇分には合戦小屋に到着。行きで立ち寄ったときほどではなかったが、それでも小屋には相応の数のハイカーたちがまだ寛いでいた。

私たちもたっぷりと休憩をとってから、一五時四〇分に小屋前を出発。


一五時五五分に富士見ベンチ、一六時二五分に第三ベンチを通過。一六時四五分に第二ベンチに辿り着いたところで体力の限界に達したのだろう、トミーは休憩を要求するや否や、荷物を全て放り投げてベンチに倒れ込んでしまった。

まぁ当初懸念されていた雨が降りそうな様子もないし、ここまで下りて来てしまえば五分や一〇分程度のタイムロスに目くじらを立てる事もないだろう。私は笑いをこらえながらトミーが「くたばってる」様子を何枚も写真に撮り、それからゆっくりとベンチに腰掛け、トミーが起き上がって来るまでの時間を、ぼーっと周りの木々など眺めて過ごした。

その後トミーは起き上がって身支度を整え第二ベンチを後にしたが、そこから一五分も歩かないうちに辿り着いた第一ベンチでも休憩を要求した。私たちがようやく登山口まで辿り着いたのは一七時四〇分の事だった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




June 28, 2014


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

猛暑のなか屏風道経由で山頂を目指して散々な目にあった記憶も醒めやらぬうちに、私とトミーは性懲りもなく八海山の八つ峰を踏破するために新潟へと向かった。もちろん今回は満を持してロープウェイの力を借りることにしよう。


今回の山行メンバーにはもう一人、新進気鋭の若手ハイカーが加わった。以前、高原山に登った際に初めて行動を共にした男で、私の古くからのよき友人でもある、私やトミーよりも一回り近く年下の彼は、高原山ではその驚異的なスタミナで私たちを驚かせたが、何より 120ポンド(≒55kg)足らずの身軽な身体でどんな難所もひょいひょいすばしこく動き回るので、そのとき以来、私はこっそり彼のことを「ヤギ男」と呼んでいる。

「ヤギ男」には私たちよりもかなり年を喰ったベテランハイカーの友人がいて、これまでにその人物と様々な山に登って来たようだったが、宿泊を伴うような山行や、三〇〇〇米級の山岳へと出かけた経験はまだないようだった。念のため私は事前に、今回、私たちが目指す、ビギナーには少々危険とされる鎖場だらけの岩山についての情報を彼に流しておいたが、そいつを見た彼は尻尾を巻いて逃げ出すどころか「とても面白そうだ」と言った。


私と「ヤギ男」を回収し終え、始発のロープウェイに間に合うように早めに東京の地を後にしたトミーのアウディは、〇七時四五分には山麓駅の駐車場前に到着した。今回の想定コースは、山頂駅から八つ峰を踏破した後、三角点が設置されているらしい八海山の最高峰とされている「入道岳」まで足を延ばし、その後「迂回路」を辿って山頂駅まで戻るか、最終のロープウェイに間に合いそうになければ「新開道」を下るというものだ。

万一後者のコースを辿る羽目になっちまったら、私たちがアウディの元に辿り着いた頃には既に駐車場のゲートが閉められてしまっているだろう。私がトミーにそうアドバイスをすると、彼はゲート前にあるバスの転回場のような広場にアウディを止めた。


山麓駅の駐車場から見上げる八つ峰。





駐車場から見上げると、八つ峰から右に外れて一段低く見える丸山が「入道岳」らしい。


私たちが身支度を済ませて山麓駅まで向かうと、そこにはすでに一〇組ほどのハイカーたちが始発便の出発を待ち受けていた。翌日はもう「山開き」で、つまり既に登山適期を迎えた頃だというのに、そこは私が思っていたほど混雑していなかった。私たちは座れこそしなかったが、スペースにゆとりのあるゴンドラに運ばれてあっと言う間に山頂駅へ。


私が山頂駅の便所でのんびり放尿などしているうちに何組かのハイカーたちは出発して行った。私たちも〇八時二〇分に行動を開始する。


早速、小遣いでもせびるかのようにポストのようなものと共にお出ましになる八海山の神。





私が「ヤギ男」にいくらかチップをはずむように提案したが、彼はやんわりと断ったので、私は間違いなく彼に何かの祟りがあるに違いないと言うと、彼は心から嫌そうな顔をした。


前回、千本檜小屋からの帰路で通った登山道は、その時と変わらず、まずまず快適な道のりだったが、強い陽射しのせいで予報に反して高い気温が全くもってストレスだった。私はいつものように、歩き始めて二〇分も経たないうちに、私が不快な思いをしながら山道をてくてく歩かなければならない事実を罵った。そんな私をなだめなければならないのは、いつだって私と山行を共にする人々の宿命だ。


〇八時四〇分には大倉口への分岐を通過し、〇九時一五分に女人堂に到着。

快晴に恵まれ、展望は申し分ない。刈羽三山(左から黒姫山、米山、八石山)をバックに記念撮影。





この日は佐渡島まで見渡せた。


五分ほどの休憩の後、行動を再開する。一〇分ほど歩いて祓川。





私は水場を見つけるとよくやるように、早速帽子を取って顔をじゃぶじゃぶ洗った。ふんだんに流れ込んだ雪解け水が熱気を帯びた顔にひんやり冷たく生き返った心地がする。私が歓声をあげると、黙って見ていたトミーとヤギ男も私のまねをして顔を洗い始めた。私はそれだけでは飽き足らず、帽子を水に浸けてたっぷり水を吸い取らせてからおもむろに頭から被った。ひゃー、何て気持のいい!

礼節を重んじるトミーとヤギ男は、そこまではしなかった。


すぐそばには、醜い体型のハイカーを励ます案内板。





ここからいよいよ本格的な登りが始まる。


と言っても、標高差はせいぜい三〇〇米かそこらだ。そう大した道のりでもない。

ちょっと長めの鎖場を越えて、一〇時ちょうどには薬師岳に到着。千本檜小屋と地蔵岳が目前に迫る。





一〇時一〇分、千本檜小屋に到着。休憩時間まで含めても標準コースタイムより一時間ほど早く着いてしまった計算になる。ありがたい。どうやら新開道を下るなんて惨めな苦行を味わう羽目にはならずに済みそうだ。

荷物を下ろして小屋の前のベンチで休憩。私は携行食として持参した「ベビースターラーメン」をパリポリと平らげる。正面を越後駒から駒ノ湯側へと下る稜線が横切り、その背後、はるか向こうには毛猛山、浅草岳を始めとする様々なC級山岳が見渡せる。





一五分ほど休憩し、いよいよ前回はただ指を咥えて眺めるだけで帰路に着くほかなかった八つ峰へのアタックを開始する。


五分ほど歩いて「迂回路」との分岐を左へ。





ロープや鎖をたよりに露岩帯を登り、縦走路を右手に見送って地蔵岳山頂へ。分岐からの所要時間は五分ほど。





縦走路に戻って二つ目のピークは不動岳。地蔵岳から一〇分とかからない。





不動岳の下りあたりから「霊山」の名に恥じない立派な鎖場が登場。





私たちはそこから先、先行のハイカーが鎖を登り終えるか下り終えるまで待機したり、写真撮影に興じたりしながら、ちんたら進んで行った。

釈迦岳(白川岳)を下って一一時二五分、「迂回路」へと下る分岐を通過する。





摩利支岳への登りは梯子。まぁ、どうって事はない。





最後の大日岳への登りも梯子。

ようやく山頂に辿り着いたハイカーたちの前に糞(クソ)のようなものを手に現れるタマネギ頭の神。





到着は一一時五五分。小屋の前を出発してからだいたい一時間半ってところだ。

山頂では七、八人のハイカーが寛いでいたが、私たちにとってそこは単なる通過点に過ぎない。五分ほど休憩して先を急ぐ。


大日岳から入道岳側への下りは一〇米ほどの鎖場。





先に下りて鎖場初挑戦のヤギ男の下り方を観察していたら、股下から下の方を覗きながら足掛かりを探しつつ両手で鎖にしがみつくようにして下りている。そしてその長い鎖場を下り切ったヤギ男は、もう両腕が限界だ、と私に泣き言を言った。

私は彼に鎖場の適切なこなし方、つまり足場は振り向いて背中越しに探す方が楽だとか、足場さえしっかりしていれば鎖は保険代わりに片手で軽く握っておけばいい、とか、そういったささやかなアドバイスをしておいた。


そこから先、入道岳までは、ところどころ滑りやすい砂利の斜面があるほかは至って快適な稜線歩きだ。





二〇分ほど歩いて山頂と思しき地点に到達。右手の藪の中に墓のような石碑を発見するが、もう少し先まで歩いた地点の方が若干高いような気がして、私はトミーとヤギ男を置いてそちらまで偵察に行く事にした。

向かった先で見つけた、砂利敷きの小広場に置かれた「丸ヶ岳」の石碑。たぶんこっちが山頂だろう。





私はわざわざ二人を呼びに戻るはめに。


三人揃ったところで荷物を下ろして記念撮影。


八海山/最高峰・入道岳(丸ヶ岳)山頂にて記念撮影



石碑は見た目よりも重かった。


さぁ、バカなまねはそれくらいにしてお待ちかねの昼食だ。


今日の私のメニューはいつもの「熊本ラーメン」に卵のセット、それから実験的にパック詰めの「豚の角煮」を入れてみる事にする。

自宅で点火テスト済みのガスとバナーを取り出し、いつものように水を満たしたコッヘルを乗っけて火をつける。ガスはもう何度も山行に持参しているのでそろそろ切れてしまってもおかしくない頃ではあったが、事前のテスト結果は良好だった。懸念点があるとすれば、麺を茹でる前に「角煮」のパックを四、五分湯煎しなければならないことだ。その事は、今日の調理に於いては、これまでの山行で一度の食事のために消費された量の実に二倍以上のガスが必要になる事を意味していた。

まぁ、最悪私のガスが切れてしまっても、頼れるトミーもまたいつものようにガスを持って来ている事だろう。そいつを借りればいいだけの事さ。実際、トミーがカップ麺を食うために、その日もガスとバナーを持参していたのを見て私は安堵した。そして彼が点火を試みた瞬間、トミーのそれはプスリとも反応せず、彼は「ガス切れだ」とつぶやいた!!

ヤギ男はトミーになけなしの握り飯をひとつ献上する羽目になった。


私のガスボンベは角煮パックを何とか加熱し終えた頃にその短い生涯を閉じた。私は慌てて角煮パックを脇にどけて麺と卵をコッヘルに投入した。余熱だけで何とか麺をふやかす事が出来たのは不幸中の幸いだった。卵は限りなく生のままだったが食用には差し支えない。しかし結局のところ、私が初めてこさえたその豪華な角煮入り熊本ラーメンは、総合的に評価すれば恐ろしく不味かった。





空も曇り始めた一三時三〇分に下山を開始する。もちろん最終のロープウェイには十分間に合うと思われるので、プランBの「新開道下り」はなくなった。

一五分ほどで大日岳直下の鎖場下まで戻って来た私たちは、その鎖場にわざわざ登ってまた下りる姿を互いのカメラで撮り合ったりして、そこで一〇分ほどの時間を無駄にした。そうしているうちに一組のパーティーが大日岳側から下って来たので、私たちはそこを切り上げる事にした。つまり彼らが私たちの写真撮影を邪魔しに現れなけば(一般的には私たちの方が邪魔モノなのだろうが)、私たちはそこでもっと多くの時間を浪費していただろう。


そのパーティーの先頭を行く、年の頃は五〇から六〇といったところのリーダー格の男は、只者ではなさげなベテランの風格を漂わせながら他のメンバーにてきぱきと指示を出していたので、私はヤギ男に、彼はおそらく熟練のハイカーだから、彼が鎖場を下りる様子を観察して今後の参考にしてみてはどうか、と提案した。ヤギ男は是非そうする、と言い、私とヤギ男はリーダー氏が鎖場を下りる様子を熱心に観察していたが、リーダー氏は私が期待したほどヤギ男より優れたやり方でそこを下りてくれなかったので、結果的に私は少しばかり恥をかいた。

もっともリーダー氏の次に下りて来たケツのでかいご婦人はもっとヘタクソだった。私たちは早々にその場を後にし、「迂回路」へと向かった。


一般的に「迂回路」とは、八つ峰の岩場、鎖場を避けて目的地へ「楽に」到達するためのコースだと考えられているだろうが、そのような甘い認識で「迂回路」に足を踏み入れたハイカーは、すぐに自分の愚かさを後悔する羽目になるだろう。

そこを訪れたハイカーたちを待っているのは、岩場をトラバースするようにつけられた、ほぼ足幅分しかない足場の続く、ちっとも快適とは言えない、かなり不親切なコースだ。





もっとも、谷側にはそれなりに樹木が茂っているので高度感はそれほどでもない。場所によっては手すり代わりの鎖がいい具合に打ち付けてあったりもする。岩場を好むハイカーたちには全くストレスを感じさせないだろう。


一〇分ほど歩いて左手に新開道を見送りつつ、先を急ぐ。五分もしないうちにちょっとした雪渓を横断し、さらに五分も進んだところで今度は少し大きめの雪渓をトラバースする。その雪渓を登って行った先が釈迦岳(白川岳)を下ったところにあった分岐へとつながっているようだ。


さらに二〇分も歩いて、行く手に私のペニスのようにそそり立つ立派な岩塊(「花立岩」というらしい)が見えて来れば千本檜小屋は近い。





迂回路に足を踏み入れて五〇分後の一四時四五分、千本檜小屋に到着。そこにはもう誰もいなかったので、鎖場で見かけたパーティー以外のハイカーたちは皆、私たちに先んじて下山の途を急いでいるようだった。

私たちも小屋の前で一〇分ほど休憩してからすぐに出発する事にした。一五時三〇分に女人堂、一六時ちょうどに大倉分岐を通過した後、私たちは一六時一五分には山頂駅へとたどり着いた。


一六時二〇分発のロープウェイで山麓駅に着いた頃に突然、土砂降りの雨が降り出した。鎖場で出会ったハイカーたちが恐らくずぶ濡れになっている事を少しだけ気の毒に思いながら、私たちは駐車場に隣接する土産物屋の庇を借りて着替えを済ませ、トミーのアウディで前回と同じく混浴の温泉風呂へと向かい、男の客しかいない事に憤慨してから「欅亭」に向かった。前回のステーキを教訓として、私は控えめに「ポークソテー」を注文したら、今度はソフトボール大のブロック肉が運ばれて来て、またしても私は唖然とした。





何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。





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