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October 10, 2015


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

トミーと示し合わせて二泊行程で白峰三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)縦走へ。


もともとは剣岳を予定していたが、既に一〇月初旬には岩場が凍結したとかいう情報が流れたうえに、予報では行程を組んだ三日とも強風に見舞われそうだった。北岳周辺も行程の最終日は天気が悪い、という予報だったが、一日目と二日目で十分楽しめれば三日目は下山するだけだ。


そんなわけで初日は奈良田の駐車場に車を置いてバスで広河原へと向かい、肩の小屋まで登って一泊、二日目は三山を一気に踏破して大門沢小屋に宿泊し、最終日に奈良田に下山、という完璧なプランを立てた私だったが、自宅のパソコンをインターネットに接続して調べてみると、事もあろうに大門沢小屋のヒゲで有名な例の小屋主が屋根から落ちたとかで今年は早々に小屋じまいしてしまったらしい。何てこった。


こうなると、二日目は稜線上の農鳥小屋泊まりにせざるをえないのだが、悪天候の見込まれる三日目の行動時間が長くなること以前に、この小屋にはいろいろと問題がありそうで私は頭を悩ませた。とは言え他に選択肢はない。まぁそのあたりはおいおい触れていくことにしよう。


前日まで毎日のように天気予報をチェックしていた私は、ころころ変わる予報に翻弄されながら、最終的に計画実行の前日夕方に剣岳プランを破棄して白峰三山をチョイスし、トミーにEメールを送信した。トミーは当日〇三二〇時には私の自宅の前にご自慢のアウディで駆けつけた。

ハイウェイのドライブ担当は例によって私だ。最初に現れたサービスエリアで運転を替わっていつものようにカーナビの現地到着予想時刻を小一時間ほど前倒ししてからハイウェイを下り、トミーと運転を替わる。

奈良田から広河原へと向かう一日にたった二本しか運行されない貴重な便のうち朝に走る方の発車時刻は〇八〇五時だ。私は〇七三〇時に起こしてくれ、とトミーに依頼してからアウディの助手席で深い眠りに落ちた。


トミーが私を叩き起こしたときには既にトミーはドライブを終えていた。広河原では携帯電話がつながらないらしいので、早速、私は自分の携帯電話を取り出して念のために予約を入れておいた剣澤小屋と剣御前小屋に平謝りしながらキャンセルの連絡を入れ、続けて肩の小屋と農鳥小屋に予約の連絡を入れたのだが、農鳥小屋の方は電話を鳴らしても誰も出なかった。

まぁいろんな情報を総合的に勘案する限り、登山客も少なくなる一〇月の平日にいきなり満室になるようなポピュラーな小屋でもないだろう。バスが発車時刻の一〇分前には到着したので、私は携帯電話の電源を切った。


ところで始発停留所となる「奈良田」バス停にほど近い「第一駐車場」と呼ばれる二〇台ほど止められそうな県道沿いの駐車場にトミーはアウディをとめたが、もう少し先にある数百台はとめられそうな「第二駐車場」にとめた方が下山して来たときに楽をできることに気付いたのは、それから五〇時間以上経ってからのことだ。ご丁寧なことに、そっちの駐車場にもちゃんとバス停はある。


私たちを広河原へと送り届けてくれたローカルバス。





運転手は一日二回だけ働けばいいのか、とても気になるところだ。


既に五組ほどのハイカーが思い思いの席に座って発車を待ちわびているバスに乗り込むと、前方のドアに最も近い席に座っていた初老の男が料金を徴収に来た。


安からぬ額の運賃にくわえて、よく分からない「協力金」まで徴収された証拠の「領収書」。





税務上うしろめたいことでもあるのか、「領収書」はバスを降りる前に乗車券共々没収された。


「広河原インフォメーションセンター」には〇八五五時に到着。建物の便所で小便だけ済ませて早速行動開始だ。





〇九〇五時、スタート地点の吊り橋(広河原橋)。





広河原山荘の前を素通りして一〇分も登らないうちに私もトミーも汗だくになってしまったので、上着を一枚脱ぐために登山道わきの小広場に荷物を下ろしたとき、キャップの上に乗っけてあったサングラスがない事に気付く。

たしか山荘の前で一度そいつがキャップの上に間違いなく存在しているのを確認した覚えがある。仮にも Gatorz Magnum だ。なくしちまったぜ、で済む話ではない!


慈悲深いトミーは、私がそいつを見つけるために山荘まで舞い戻って多少の時間を無駄にしてしまうことを快く許可してくれたのだが、私がまさに捜索に着手するために走り出そうとしたそのとき、私は「あんたのだろ?」と言わんばかりにこっちに見えるように私の Gatorz を片手に持ってヒラヒラさせながら登って来るソロのハイカーを発見した。うへー、何て気の効く素敵なハイカーなんだ!!


私は丁重に礼を述べてその最上級の尊敬の念に値するハイカー氏から私の Gatorz を受け取った。その後、そのハイカー氏は何度も私たちと抜きつ抜かれつを繰り返すことになるが、私たちは以後そのハイカー氏を「メガネの恩人」と呼んだ。


〇九二五時、白根御池小屋に向かうルートへの分岐点に到着。初日の昼食としてトミーがそこで振舞われる名物カレーを強硬に主張したので、御池小屋行きのルートをとる。


一部加筆された案内板。





くだらんことをするやつがいるもんだ、と私は心ないハイカーのいたずらに心を痛めながら急な樹林帯を登って行ったが、実際のところ落書き犯の情報の方が実態を正しく反映していた。


一一一〇時には白根御池小屋に到着。





トミー推薦の名物カレー(八〇〇円)。





私たちの注文を受けてから暫くたって小屋の外にあるテーブルまでカレーを運んで来てくれた気持ちのいい接客をする若者に、草すべりと右俣ではどっちが眺めがいいのか尋ねてみると、その場では、どちらのコースもそう変わらないような事を言っていたが、暫くして若者は再び私たちの元にやって来て「右俣コース」がお勧めです、と教えてくれた。たぶん小屋で働く詳しい先輩にでも聞いて回ってくれたんだろう。


一一五五時に小屋前の広場を出発。若者のチョイスに従って、まずは「大樺沢二俣」を目指す。


右俣コースを辿るためには「大樺沢二俣」を経由しなければならない。小屋からそこへと至る道のりは殆ど高度差のないトラバースで、さほど消耗を強いられるものではなかったが、「草すべり」コースに比べればやや遠回りになってしまうことは否めない。

そういった理由で、そのルートを辿るハイカーがあまりいなかったとしてもおかしな事ではないだろう。私には、そのルートは御池小屋までのルートに比べて若干荒れ気味のように思われた。


一二二〇時、「大樺沢二俣」に到着。





そこから稜線(小太郎尾根分岐)まで六〇〇米の登りが始まる。


はるか遠くに見える稜線を見上げる。





私はそうでもなかったのだが、トミーはその登りがこたえたのかペースが一向に上がらない。私が先に登ってはトミーの姿が見えなくなった頃に荷物を下ろしてトミーを待つ、といったことを繰り返しながら、一四四〇時に小太郎尾根分岐に到着。





叩きつけるように吹き付ける稜線上の風に凍えながら眼前に広がる絶景を堪能する。


甲斐駒。





鳳凰三山





一五二〇時に小太郎尾根分岐を出発して肩の小屋に着いたのは一五五〇時。





平日にも関わらず、例の「メガネの恩人」も含めて四〇人は泊まっていたのではないか。さすがは日本第二の高峰だけあってその集客力は侮れない。


お楽しみの夕食。





食後に夕焼け。





標高三〇〇〇米地点に佇む由緒ある山小屋で高山病の症状を思わせる頭の血管を流れる血がドロドロしているような例の感覚を味わいながら、二〇〇〇時には就寝。

かつては「そんな早くに眠れるわけないだろう」と山小屋の消灯時刻には心底ムカついていたが、もう慣れたもんだ。


翌朝、朝食前の幻想的な一コマ。





よほどお疲れなうえにアイマスクと耳栓で完璧なガードを施して就寝していたトミーは、彼の大好きな朝焼けの写真を撮るために早起きするどころか、スタッフが寝床近くまで朝食の案内にやって来てもピクリとも動かなかった。


朝食。





ちなみにご来光は朝食後でも十分間に合った。





農鳥小屋の便所でクソをする羽目になる事態だけは可能な限り避けたい私は翌朝の分まで済ませてしまえるように気合を入れて便所へ。

いざ、その姿勢に就いて一斉放出を試みた私のケツからはバットレスをも崩壊させんばかりの巨大な屁が一発出て来ただけだった。その音色は稜線の強風に煽られてはるか甲府の街まで届いたことだろう。


出発前に小屋の前で記念撮影。





〇六五〇時に行動を開始する。


肩の小屋から山頂までは、まぁありきたりな岩稜歩きだった。途中、偽ピークへと続く踏み跡に騙されたのには少々ムカついたが・・・。


〇七四〇時、山頂に到着。





申し分ない青空の下に広がる絶景に思わずニヤリとしてしまう。





記念撮影。





山頂には私たちのほかに常時三、四人のハイカーたちが入れ替わりで滞在していた。ある老ハイカーの二人組に捕まったトミーは彼らとの雑談のために身柄を拘束されていて気付いてなかったが、私は見覚えのある男が山頂に現れたのを見つけて思わず声をかけた。「おいおい、見覚えのある顔が現れたぜ?」

前日、私たちが白根御池小屋でカレーを注文した例の若者だった。もちろん彼も私のことを覚えていて、挨拶もそこそこに、私たちが前日、彼の進言通りちゃんと「右俣コース」を登ったのかどうかを私に問いただした。

私が、もちろんだとも、と答えて、素晴らしい選択肢を提示してくれたことに対する礼を述べてから、お互い絶好のハイキング日和に恵まれたことの喜びを分かち合おうとすると、若者は「実は山頂には初めて来たんです」と言ったので、私は少しばかり驚いた。山小屋で働いてるのにまだ一度も山頂に来たことがなかったのか?


それから若者は、山小屋で働くことの大変さや山小屋の裏話、実は登山経験は一年にも満たないのに不意に思い立って山小屋に「就職」したこと、今後の彼の人生計画、そして彼がどれだけ山が好きなのか、といったことを私に話してくれた。

思えば私もこれまで何軒もの山小屋を訪ねて来たが、そこで働く人々と人生について語り合ったことなんてなかったな、なんてことを考えながら、私は若者に別れを告げて、老人たちに解放されたトミー共々、〇八一〇時に山頂を後にした。


山頂からは赤い屋根が農鳥小屋と紛らわしい北岳山荘へと下る。眼前に広がる間ノ岳へと続く雄大な稜線を眺めながらのハイキングは、稜線好きのトミーでなくても至福を感じるひとときだ。





〇九〇五時に北岳山荘に到着。カフェを営業していると聞いていたので当然寄り道して行こう、という話になり、トミーが山荘の入口に向かったが施錠されていて開かないと言う。

まぁ夕べの宿泊客はみんなとっくに出発していなくなったろうし、カフェをやるには時間も中途半端だしな、と言うことで、ベンチ代わりに置かれていると思しき入口正面の材木に腰かけて休憩していると、不意に山荘の引き戸がガラリと開いて中から人が出て来た。

トミーは引き戸を押したり引いたりして開けようとしていたらしい・・・。


こっそり入口の様子を窺いに行った私は、受付が無人で、入口から見える場所にカフェらしきものが存在しないことを確認してベンチに戻った。コーヒーが飲めるならそれに越したことはないが、わざわざ靴を脱いでまで飲みたいってほどじゃない。代わりに入口すぐ横の水場で肩の小屋で調達し忘れた昼食の調理で使うための水を失敬する。


〇九三〇時に出発。次に目指すのは中白峰山だ。


稜線左手には相変わらず富士。





中白峰への登り。気分はまるで天空への階段を一歩一歩昇るかのようだ。





一〇一〇時、山頂に到着。





トミーは相変わらずのんびり歩いてるので、私は風よけにちょうどいいハイマツ帯に身を隠して仮眠しながらトミーの到着を待つ。そしてようやく辿り着いたトミーにも当然、一定の休憩時間が与えられなければならない。結局そこを出発したのは一〇二五時だった。


次のピークは日本第三の高峰、間ノ岳だ。一一四〇時に山頂に到着。





行動時間には「トミーを待つ」分の時間が含まれるので、あくまで私の、ではなくトミーのコースタイムということになるが、まぁ何にせよ結構時間がかかっちまった。

肩の小屋から間ノ岳まで、手持ちのガイドブックに記載されていた標準所要時間は三.五時間ほどだったので、昼食は山頂からさらに一時間ほど下った先の農鳥小屋でとろうかと思っていたが、いつものように私たちの計画は柔軟に変更され、間ノ岳で昼食に。


トミーは肩の小屋で手に入れた弁当を広げる。私はもちろんいつものやつ。





完成。





山頂にはほかに二組のハイカーがいて、そのうち一方は私が北岳の山頂で記念撮影に手を貸した、その立居振舞いが何ともしなやかな初老のソロ・ハイカーだった。

しなやかなハイカー氏は私たちと全く同じ行程で今回の白峰三山縦走を計画していて、初日は肩の小屋に宿泊、二日目は農鳥小屋に宿泊して実際に私たちと同じチャブ台を囲んで食事を共にしたし、三日目も奈良田に下山するまでに何度も再開した。

常に私たちよりも先に行動を開始するしなやかなハイカー氏は、そのときも私たちが昼食に舌鼓を打っている間に私たちに先んじて農鳥小屋の方へと山を下りて行った。


間ノ岳の山頂は広々としているうえに風避けにちょうどいい岩場が点在している。雲ひとつない秋空から降り注ぐ陽光はポカポカと暖かくて、風さえ避けることが出来ればそこはこの世の極楽そのものだ。私たちは食事が終わると当たり前のように、適切な岩場の陰に無防備に寝転んで昼寝した。


まぁ、そんなことをしていたので間ノ岳を下り始めたのが一三一〇時、農鳥小屋に辿り着いたのは一三五五時。そこから大門沢小屋まで優に四、五時間はかかるだろうから、結果論としては、大門沢小屋の小屋主が屋根から落ちてくれたことは私たちにとって非常にラッキーな出来事だったってわけだ。

小屋主は災難だったが、まぁ山での事故はすべて「自己責任」だからな。


さて、私たちが農鳥小屋で経験した数々の出来事はあまりに刺激的で、私たちはそこで本当に思い出深いひとときを過ごした。それらについての回想は日を改めることにしよう。

最終的に私たちは小屋主の強い意向により、翌朝、まだ日も登りきらない〇五一〇時には追い出されるようにそこを後にした。


まずは農鳥小屋のすぐ南側に鎮座する西農鳥岳の山頂を目指す。


そこそこ急な岩肌の斜面につけられた道を登っている最中に、トミーが「あと五分で日の出です!」と言うので、足場が安定するうえに強風をやり過ごせるような然るべき岩陰を見つけ、荷物を下ろして待機する。

太陽が東の地平線上にかかった雲の上から顔を出すのを今か今かと待っている私たちのわきを、例のしなやかなハイカー氏が私たちに一声かけて軽やかな足取りで抜き去って行った。


そしてついに迎えたご来光。





天気予報をすっかり真に受けて諦めてたってのに、まさか二日続けてご来光を拝むことが出来るとは思ってもみなかった。


振り返ると朝焼けの光を浴びてオレンジ色に染まる間ノ岳。





〇六〇五時、西農鳥岳山頂に到着。





五分ほど滞在していよいよ最後のピーク、農鳥岳を目指して出発する。

それにしても早朝、気温の上がりきらないうちから吹き付ける風の辛さが半端ない。所詮、南アルプスだ、と舐めてかかって目出し帽を持参し忘れたことを私は猛烈に後悔した。


〇六五五時、ついに農鳥岳山頂に到着。





ところで、そこから振り返っても農鳥小屋は見えない。間ノ岳は例の百選に含まれてるが農鳥岳は漏れてる。つまり世間一般では間ノ岳よりワンランク下の扱いだ。間ノ岳からだとよく見えて、おまけに距離的にも間ノ岳の方が近いってのに、何だって名前があえて「農鳥小屋」なんだ?


山頂では例のしなやかなハイカー氏が岩場に腰かけて、そこから見える富士山に見入っていた。ほかには誰もいない。

しなやかなハイカー氏は私たちに気付くと軽く会釈をして、それから山頂を独占していた時間を振り返って満足そうに「ゆっくり出来た」と言い、そして私たちに気を遣ったわけでもないんだろうが、そのまま手早く身支度を整えると山を下って行った。私たちも荷物を下ろし、今や私たちが独占する山頂からの展望を心行くまで堪能することにした。


最後の記念撮影。





三○分もそこにいただろうか。そろそろそこから見える富士山にも飽きて来た私はトミーをそれとなく促して、名残惜しい農鳥岳山頂を後にすることにした。


さて、そこからはいよいよ標高差二二〇〇米の下りだ。去年、奥穂高から新穂高温泉まで一気に下山したときの標高差が一八〇〇米だから、その上を行くってわけだ。

いつだったか、一日で雲取山から奥多摩駅まで歩いたときの累積標高差がたしか二四〇〇米だったが、あのときは本当に最後はフラフラになって、二度とこんなふざけたハイキングやるものか!と心に誓った記憶がある。今回はあれに負けず劣らずタフな戦いになる覚悟を決めなければならない。


まずは山頂からも黄色い鉄塔がはっきりと視認できる大門沢下降点を目指す。農鳥小屋の小屋主がつけたと思われるとても分かりやすいペンキ印をたどって三〇分ほどで到着。


その鉄塔がそこに立てられた経緯を知るハイカーは、誰しも様々な思いを胸に静かに鐘を鳴らさずにはいられないだろう。





しなやかなハイカー氏はそこでも私たちが彼の一人きりの時間を邪魔しに現れるまで腰を下ろしてのんびりと休憩していた。しなやか氏は私たちが農鳥岳から下って来る様子を観察していたらしく、何かの草の実は美味かったろう?と聞いてきたのだが、私は全く身に覚えがなくてかぶりを振った。

聞けばしなやか氏は学生の頃から何十年も山に通い詰めている超がつくほどのベテランハイカーで、彼の豊富な知識に基づいた大変ためになる説明によると、私たちが下って来た山道沿いには、それはそれは美味しい何かのベリーの実がところどころになっていて、私がそんなこととも知らずにちょうどベリーがなっているあたりでカメラを構えていたので、私がそのベリーをつまみ食いがてら写真でも撮ってるんだろう、と思ったようだった。


おまけにしなやか氏は数か月前に脚をケガしてしまい、そのリハビリがてら今回の縦走を「楽しんで」いるらしい。農鳥小屋では一日で広河原から、あるいは奈良田からそこまで一気に登り詰めてしまうような、私に言わせれば全く信じられないような計画を実行する強者ハイカーだらけだったが、 しなやか氏もその一人だったってわけだ!

要するにこの縦走路を歩いていて私たちが他のハイカーにちっとも出会わないのは、私たちがあまりにのろま過ぎて、そこを歩いている他のハイカーたちに追いつきようがないからで、唯一出会ったしなやか氏も本調子だったら私たちとの接点など持たずに風のように山を下りて行ってしまっていたことだろう。


私もトミーも稜線から見る最後の景色を瞼に焼き付けてから、先に下山したしなやか氏の跡を追うように〇八一〇時に「下降点」を後にする。


ハイマツ帯を走るザレ道を延々と下る。





途中、たしか既に一〇時を優に過ぎていた頃だったと思うが、薄暗い樹林帯に入ったあたりで白いヘルメットをかぶった細身のハイカーが一人、汗だくになりながら苦悶の表情を浮かべつつ登って来るのに出くわした。何時に奈良田を出発したのかは知らないが、どういう行程で歩いているのか気になって、農鳥小屋に泊まるのか、と尋ねてみると、その白ヘルのハイカーは、農鳥岳まで日帰りでピストンするつもりだ、と言うので私はぶったまげた!

こんなところにも命知らずの凄腕ハイカーが一人いたじゃないか!!いったい全体、何だってこのコースには、こうまで切れ者ハイカーばかり吸い寄せられるように集まって来るって言うんだ!?


全く信じられない、本当にそんなことが可能なのか?なんてことをトミーと語らいつつ、もちろん退屈なうえに限りない消耗戦を強いられる下り道に対して不満を漏らし、ときには罵り声をあげながら歩いているうちに大門沢小屋に到着(一〇五〇時)。





そこでもしなやか氏はのんびり休憩していて、下から登って来た三人組の若手ハイカーたちと談笑していた。彼らは大き目の荷物を背負っていたのでテント泊まりでもするつもりなんだろう。


小屋は既に閉められてはいるが避難小屋として開放されているらしく、中に入れるようだった。入口前のちょっとした小広場の一画に、営業中は飲み物を冷やすために使われていると思しき設備に沢水が引かれているのを目ざとく見つけた私は、その飲んでも腹を壊さない保証のない水を調理用に確保して昼飯作りに取りかかる。





完成。





しなやか氏と三人組のほかには、「山ガール」と呼ぶには少々年季の入った一人の婦人ハイカーが沢の方からフラリと現れ、私と同じように水を確保してから登りルートの方へと消えて行った。

もし農鳥小屋に泊まるつもりでいるなら(いろんな意味で)時間が足りな過ぎる。かと言ってテント泊の装備には見えない。あの婦人はいったいどんな旅程を組んでたって言うんだ?私とトミーはあれこれシュミレーションをしてみたが、結局、何ひとつ目ぼしい答えを見出すことはできなかった。


一一三〇時に大門沢小屋を出発。


下りの行程は思いのほか暑くて、携行している水分がみるみる減って行く。そんなとき登山道沿いに何度も現れる沢は実にありがたかった。私は沢を見つけるたびに手袋を外して顔を洗い、手ですくった水を頭からもかぶり、そしてもちろんそいつを心行くまでガブガブ飲んだ。用心深いトミーは私がいくら薦めても決してそいつを口にしようとはしなかったし、タオルがない、という理由で手すら洗おうともしなかった。


そして何本も現れる悪名高い手造りの橋。





ロープさえあればオーケー。





ロープがないやつは信用できない。橋を手すりにして石づたいに向こう岸へ。





一三一五時、ようやく一本目の吊り橋。





発電所の取水口。





こういうのはちょっとムカつく。





迂回路。ハイキングの気分は台無し。





そのまま登山口までその風情もクソもない道を歩かされるのかと思っていたが、途中で登山道に復帰する。


一三三五時、二本目の吊り橋。





そこから五分で林道に合流する。





トミーと二人で舗装された林道をちんたら歩いていると前方にしなやか氏が歩いているのが見えた。標高差二〇〇〇米を超える長い長い行程のなか、初めて私たちがまさにしなやか氏に追いつこうとしたその時、しなやか氏は振り返って私たちに気づくと、にこやかに話しかけて来た。

いつもなら退屈な林道歩きになるところだが、私たちはしなやか氏との主にお互いの登山歴にまつわるいろんな話に花を咲かせてのんびり歩いた。


途中、何とかって画家の個展を見に行くと言うしなやか氏と分かれた私たちは、一四五〇時、ようやく奈良田の(第一)駐車場に到着した。そこをバスで出発してから実に五五時間後の事だった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



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