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File No. 0006:体罰の禁止は誰のためのものなのか
大阪市立桜宮高校で、部活動の顧問教師の「体罰」を苦にして生徒が自殺したのを契機として、教師の「体罰」という行為が俄かに社会の注目を集めています。大阪市の橋下徹市長が、桜宮高校の「体育科」の入試を中止するよう教育委員会に圧力をかけた事から、入試中止に反発する桜宮高校の関係者やそれに味方する人々VS橋下市長、という対立の構図が完成しています。

ここで指摘しておかなければならないのは、その対立の構図は、体罰肯定派VS体罰否定派 という構図とは全く一致しない、という事です。つまり、入試の中止に反発している人々というのは、自分たちの受験や進学の都合で反発しているだけで、体罰の是非という、教育の現場が永年抱え続けて来た大局的なテーマを論じる観点から何かを考えて主張を展開している人々ではない、という事です。

桜宮高校の一件については、コラム:桜宮高校の生徒自殺問題から何を学ぶべきか の中で私見を述べさせて頂いているので、興味のある方は参照なさってください。ここでは「体罰」という、近ごろ俄かに注目を浴びているこの行為が社会的にどう評価されるべきか、について考察していきたいと思います。
 


「体罰」という行為の正当性を評価する際に注視しなければならないのは、その「体罰」が行われるに至った経緯です。桜宮高校のケースでは、バスケットボールの試合でルーズボールを積極的に追わなかったために顔面を数十発殴打した、と報じられていますが、それが事実なのであれば、一般的に相応と思われる基準から判断する限り、この顧問教師の「体罰」を正当化するのはかなり無理があるように思われます。

もっとも一部の生徒や保護者の言動からは、「体罰」という手段を使ってでもチームを強くして欲しい、という思いも汲み取れます。どうやら部活動での戦績が彼らやその子どもたちの進学に有利に働くという事情があるようですが、「体罰」を受ける側が自らそれを希望しているのであれば、その「体罰」は正当化されてもよいと考えるべきです。ただし、その事がどのような悲惨な結果を招こうとも、彼ら自身がその結果について全ての責任を負わなければなりません。学校の責任を問う、などと称して浅ましくも市を裁判で訴え、無関係な市民の税金から支出される「賠償金」をせびろうとするような、卑しい乞食のような振る舞いはあってはならない事です。
 


「体罰」という行為のあるべき位置づけや、「体罰」を全否定する人々が気づいていない、彼らの薄っぺらい理屈がもたらす教育の現場における弊害をあぶり出すのに最も分かりやすい事例があります。神奈川県の中学教師が生徒に身体的な特徴を揶揄されて「体罰」に及んだ、と報じられた一件です。

この教師は、教室への入室が遅れた生徒数人に早く入室するよう促したところで、既に教室にいた「男子生徒」から、主に彼の頭部の特徴に関する暴言を浴びせられました。教師は暴言を吐いた「犯人」に名乗り出るよう命じましたが、誰も名乗り出なかったため、教室にいた男子生徒一六名全員に対して平手打ちという「体罰」に及びました。この教師は顛末を自ら校長に申告し、結果的に体罰を与えた生徒と保護者全員に「謝罪した」と報じられています。

このケースの場合、「暴言」の核心とされる頭部の特徴を表す言葉あるいはその特徴そのものが、一部のコメディアンによって笑いをとるための手段として常用されている事実が示しているように、一般の人々にも比較的高い認知度を有するものであったため、結果的にその頭部の特徴を表す言葉がやや誇張される形で報道されました。

その事は、自分の身体の特徴を指摘された「大人げない」教師が立腹して短絡的に「体罰」に及んだかのような印象を世間に与えるかもしれませんが、このケースをそのような単純な図式に矮小化して捉えるべきではありません。
 


まず社会が受け止めなければならないのは、このケースに於ける「犯人」がやった事は「言葉の暴力」だ、という事実です。対象が教師であったためにそのような事実は見落とされがちですが、例えば横幅の広い悪性の脂肪まみれの体型のことを指す言葉や、主に女性の整っていない顔立ちのことを指す言葉や、場合によっては身体障害者の健常者とは違った身体の特徴を面白おかしく表現するような言葉と同様に、教師の頭部の特徴を端的に表したその言葉は、一種の「言葉の暴力」として定義されるべきものなのです。

私は「言葉の暴力」を全否定する立場には立ちません。特に横幅の広い連中の、公共スペースに立っているだけで周囲に迷惑なその体型は、彼らの怠惰な生活習慣が招いた「自己管理能力の欠如」の産物であり、その事がいかに恥ずかしい事であるかを彼らに自覚させるためには、時として「言葉の暴力」なるものの力が必要な事もあるでしょう。自分の顔立ちを棚にあげて男性の顔立ちにあれこれ注文をつける女性に業を煮やした周囲の男性が、その女性に「言葉の暴力」に及んだとしても、私は彼らを批難する気にはなりません。

ですが今回この教師に向けられた「言葉の暴力」には何か正当性が認められるか。何も認められません。報道された内容から判断する限り、今回の「犯人」は、ただ教師を「貶める」ためだけに「言葉の暴力」に及び、残る一五名の「男子生徒」は彼を匿うことでその行為に加担しました。私たちが真剣に考えなければならない事は、彼らの、ただ相手を「貶める」ためだけの「言葉の暴力」を「許す」事が、そもそも教育の現場に於いて「許される」のか、という事です。

この類の「言葉の暴力」を「許す」事は、結果的にこの「犯人」をただ増長させ、場合によってはこの「犯人」を、教師だけでなく周囲の子どもたちへの「言葉の暴力」にすら走らせる事だってあるでしょう。今まで何人の子どもたちが、周囲の邪悪な子どもたちからの心ない、ただ彼らを「貶める」ためだけの「言葉の暴力」に傷つき、時にはそれを苦にして自ら命を絶つまでに追い詰められて行ったのか、私たちはいま一度その事を真剣に思い起こさなければなりません。
 


恐らく体罰を全否定する人々は、仮に今回の「犯人」の行為が「言葉の暴力」であることは認めたとしても、だから「体罰」が許される事にはならない、と主張するでしょう。であるならば、彼らは「体罰」に代わる、この「犯人」を教育の現場で「矯正」する手段を、説得力のある代替案として提示しなければなりません。

もし、この頭部に特徴のある教師は子どもたちに「言って聞かせる」べきだった、と主張する人々がいるとしたら、彼らは他人の前で意見を述べる価値すらないただの理想主義者に過ぎません。今まさに自分の頭の特徴の事で「からかわれている」、もっと率直に言うならば自分が「なめられている」うえに、名乗り出る事すらしない相手に「言って聞かせる」だけで深く改心させる事のできる仏陀のような「先生」が一体この社会に何人いると思っているのか、という事です。
 


彼らが理想主義を標榜するのは彼らの勝手です。罰を受けるべき子どもたちの「権利」とやらを守ってあげたいと考えるのも彼らの自由です。しかしここで私が指摘しておかなければならないのは、そんな彼らの生ぬるい理想主義がもたらすものと言えば、せいぜい罰を受けるべき子どもの「権利」とやらを守る(それは単なる「甘やかし」と言い換えられますが)ところまでが限界で、本来それよりもっと手厚く守られるべき、その他大勢の無垢な子どもたちの権利を守る作用はまるで期待出来ない、という事です。

そして、そのようないかがわしい偽善的な思想が、まるで白アリのようにはびこって教育の現場を蝕んでしまった事により、結果的に、然るべき罰を受けて「矯正」されるべき邪悪な子どもたちに誰も手出しが出来ないという、多くの善良な子どもたちをも預かる教育の現場としてあるまじき環境がそこに醸成されてしまった事実、そしてそんな環境の中で、今こうしている間にも、何人もの子どもたちが彼らから受ける迫害によって傷つき、平穏に教育を受ける権利を奪われ、場合によっては自ら命をすら絶っているという事実です。

「体罰」の問題を考えるときに、「体罰」という行為にしか着目しないのは愚か者のやる事です。その問題を考えたいのなら、教育の現場で起きている様々な事象から、そこに登場する全てのプレイヤーの特性まで含めて、教育の現場の実情を構造的に理解したうえで考察を加えて行くのが適切な態度です。教育の現場を預かる「先生」という名の人々を無知の表れとすら言える理想主義で縛り付け、その結果、少なくない数の子どもたちがその権利を侵害されている現状には関心を払わないばかりかそれを追認している人々こそ、一見、子どもたちの立場に立って善なる主張を展開しているかのように見える、あのおめでたい「体罰全否定」論者の人々なのです。


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