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File No. 0004:桜宮高校の生徒自殺問題から何を学ぶべきか
大阪市立桜宮高校の体育科の生徒が部活動の顧問教師による体罰を理由に自殺したというニュースが世間を賑わせています。橋下徹大阪市長は予算の凍結まで仄めかせて体育科の入試の中止を市教委に要求し、それに受験生や在校生、その保護者たちが猛反発するなど各方面に波紋が広がっています。

この事件に関する一連のニュースを追跡して行くと、この事件が単なる体罰教師の問題に留まらない、教育現場における根深い病理や、それに向き合う私たちのあるべき姿など、実に多くの示唆に富んだ事件である事がよく分かります。
 


この事件を考察するとき、実は私は体罰をしたとされる顧問教師にはあまり関心を払っていません。世間に於いて体罰の是非についての多くの議論がある事は承知していますが、その問いに対する答えはシンプルです。体罰をされても仕方のない生徒には体罰で応じればよいのです。体罰とは暴力の形態のひとつですが、一例として周囲に暴力をはたらくような生徒には暴力で応じればよいのです。

いかなる状況でも体罰という手段に頼らないのが「先生」のあるべき姿だ、という意見があります。その通りです。ですが残念なことに、その理屈には「先生」と呼ばれる人々の「能力」という壁が立ちはだかります。テキストの内容を教えさえすればよい「授業」とは違って、「言って聞かせる」という作業には公式や暗記から導き出せるような「ひとつの正解」というものがありません。そこに求められる「コミュニケーション・スキル」と呼ばれるスキルは、学校では教わる事が出来ない非常に高度なスキルなのです。学校の成績は良かったのにビジネス・シーンでは活躍出来ない人材が少なくないのはそのためです。

私自身が小学校に入ってから大学を卒業するまでに見て来た何十人もの「先生」の資質から判断する限り、少なからぬケースに於いて、彼らにその能力を期待するのは時間の無駄だというのが私の考えです。それはおそらく多くの場合、「先生」という職業に就く人々の動機が純粋に「教育」にあるのではなく、単に彼らの「安定志向」にしかないからでしょう。目の前に解決しなければならない問題があるにも関わらず、解決にあたるべき当事者に「理想的な」手段で解決する能力がないのですから、次善の方法としての「体罰」という手段を、少なくとも全否定するべきではありません。問題行動を起こす生徒によって問題を起こす側でない生徒たちが平穏に学校生活を送る権利が侵害されているのであれば、まずその障害を取り除く作業の速やかなる実行こそが、学校側に求められる火急の責務であるからです。

もっとも今回行われた「体罰」が社会通念上、許容される範囲にあるかどうかは火を見るより明らかです。問題を起こした顧問教師に与えられる刑事罰の程度には私も関心を持っていますが、基本的には自らが犯した愚かな過ちのために二度と浮かびあがって来る事は許されない過去の人として処理されるべき人物です。彼に着目しても得られるものはあまりないでしょう。
 


私が最も注目しているのは、体育科の入試の中止という市長の要求に対する在校生や保護者の反応です。記者会見まで開いた在校生たちは、たどたどしい言い分を並べて市長の判断への「反論」を展開していましたが、端的に彼らの言わんとしている事は「現状維持」を希望する、という事のようです。

彼らは一般的な「高校生」でしかないので、大人に要求されるべき知性や見識を備えていなくても無理はないのですが、記者会見の様子からは、それにしても「一人の生徒の命が失われた」という事実に対する彼らの感度の鈍さばかりが伝わって来た、というほかはありません。

彼らが守りたいものが学校のブランドなのか、彼らが社会に出た後もついて回る彼ら自身の「経歴」なのか、そこまで考えているわけですらなくただ単にいま目の前にある「居場所」なのかは私には分かりませんが、少なくとも、そのいずれもが「一人の生徒の命が失われた」という事実と天秤にかけるには値しないものだとは考えない人間に、彼らが育ってしまったことはよく分かります。

彼らの記者会見に違和感を覚えた人々は、彼らの事を加害者寄りの人間としてとらえようとするかもしれませんが、周囲の大人たちから本来あるべき真っ当な人格教育を受ける機会を与えられなかったという意味では、彼らもまた歪んだ大人社会の被害者です。本人たちは決してそれを認めないでしょうが、私の目には、それでも彼らが本当に哀れで気の毒な存在としか映りません。
 


私は何ら問題が解決していないにも関わらず、「体育科」の入試の継続を訴える受験生や保護者の存在にも関心を抱いています。そこにも「一人の生徒の命が失われた」という事実を正面から受け止めようとしない彼らの心理構造が伺えますが、それ以前に彼らの場合、自分たち自身が「被害者」になる可能性を否定できないにも関わらず、その現場に自ら飛び込みたいと主張している事実は注目に値します。私はその事実の裏にあるものこそ、いまの教育現場が抱えている根本的な病理そのものだと考えています。

まず彼らの思考特性のひとつとして、彼らは自殺した生徒を特異な存在だと認識していて、自分たちは違う、自分たちは安全だ、と考えている可能性を指摘する事が出来ます。実際、部活動顧問の暴力は長年慣習的に行われて来た事が明らかになっていますが、「生徒の自殺」という結果に至ったのは今回が初めてであり、その考え方には一定の合理性があります。

私は、そのような考え方は原発の安全神話のようなもので、より思慮深い受験生あるいはその保護者であれば「万一のリスク」まで検討したうえで判断を下すものだと考えていますが、多くの場合、彼らの浅い見識による判断を以ってしても子供の「自殺」という最悪の結果までは招き得ないと推測されるので、あくまで彼らの「自己責任」という前提に於いて、社会が彼らの考え方を全て否定する事は適切ではありません。

原発は原発をそこに建てるという判断をした当事者でない人々に被害を及ぼしますが、体罰という名の暴力がはびこる学校に自ら進んで入りたいというのが受験生や保護者たちの自由意思に基づく結論なのであれば、その判断に付きまとうリスクを彼らが引き受ける用意がある限り、尊重されるべきものなのです。
 


問題は彼らに本当にその覚悟があるのか、という事です。部活動には体罰という名の暴力が蔓延していて、顔が腫れあがるまで「しばかれる」キャプテンがいて、試合に勝ちさえすればいいという異常な価値観の下に誰もがその状況を追認していて、いざ一人の生徒の自殺という結末を迎えてもまるでそんな事はなかった事にでもしようという教育委員会に管理されているような学校の環境に起因するあらゆる不利益、自殺に留まらず、けが、精神的ダメージ、部活動を続けられなくなって退学に追い込まれる事による人生設計の破綻、その他合理的に予期されるべき全ての不利益をいざ自分が被る側の立場になったとしても「被害者ヅラ」をしない覚悟が本当にあるのか、という事です。

その覚悟がないにも関わらず、問題への対処を表明した市長の方針を受け入れようとしない人々の意識の根底にあるのは、彼らの過剰な「権利意識」です。あらゆる責任は市や行政にあって、自分たちは常に正しい側に立っているという思い上がりとも言えるでしょう。彼らの主張の本質は、市が問題に対処する事よりも自分たちの都合が優先されるべきだ、という自分勝手で傲慢な理屈であり、彼らは一見、学校側に立っているように見えはしますが、その精神構造は、いわゆる「モンスターペアレンツ」のそれと全く同質のものなのです。

もちろん私は市にこの事件の責任がないと考えているわけではありません。特に教育委員会の行き過ぎた「事なかれ」主義の体質を市が長年放置して来た事実は重く受け止められるべきです。ですが、市がこの問題の解決のために具体的に動き出した今、それを妨げようとする人々の主張に、「一人の生徒の命が失われた」という事実を前にしてでもどれだけの正当性があるのか、は厳しく問われるべきです。たまたまこのタイミングで事件に遭遇した受験生や保護者たちは不幸な存在ではありますが、その事と、公教育の現場で彼らの言い分が全て通るかどうかは全く別個の問題なのです。
 


以上のような事実は、隠れ「モンスターペアレンツ」とでも呼ぶべき大人たちが少なからず教育現場に潜在している事実と、その一方で、彼らとの主導権争いに敗れ、彼ら自身が負うべきにも関わらず彼らが放棄した教育への責任まで負わされている学校教育の現場の実態を端的に表している、と私は考えています。一部の在校生の言動を見ている限り、桜宮高校は家庭が負うべき子供たちの「人格教育」の責任を転嫁された挙句にその仕事にしくじった、とすら言えるかもしれません。

いま良識ある大人が為さなければならない事は、まず自らが親として負うべき責任範囲を正しく自覚する事、間違っても安易にその責任を放棄して「モンスター」化するような道をとらないように自制する事です。その責任から逃れる事は、一見、自分たちが楽をするための心地よい手段に見えるかもしれませんが、それと引き換えに、親の背中を見て育つ子供たちの、例えば「一人の生徒の命が失われた」という事実を正面から受け止めようとする事が出来るような健全な人間性を失う事にすらなりかねないのです。

この事件から得られるもうひとつの教訓があります。子供の親たちが自身の責任を放棄して学校や教育行政に全てを委ねる事のリスクです。例えば自殺した生徒の両親は、現状報道されている内容から判断する限り、生徒が顧問教師からどれだけ暴行を受けているのかといった情報を生徒の口から直接聞いていたにも関わらず、生徒を守るために自ら行動をしようとはしませんでした。

私はあえてその両親の判断についてこの場で評価をする事は控えますが、少なくとも私たちが今回のケースから学ばなければならない事は、例えば教育現場にはびこる異常な体質を目の当たりにしていながら見て見ぬふりをするという親としての「責任回避」は、そのまま最悪の結末となって自分に帰って来かねない、という空恐ろしくすらある事実なのです。


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