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November 30, 2016


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

去年の4月に千葉県で「一八歳の女性」が畑で生き埋めにされて殺された事件で、実行犯の一人である二一歳の男に「無期懲役」の判決が下された。


男女四人に車で拉致された被害者は、そのまま予め穴を掘ってあった畑に連れて行かれ、両腕を縛られたまま生き埋めにされたらしい。被害者が「殺さないで」と泣きながら懇願したにも関わらず、実行犯の男は「冷酷に」土をかぶせ続けたとされる。

インターネット上では、この一見残虐極まりない事件を引き起こした実行犯に対する「無期懲役」という判決は甘すぎるという怒りの声であふれている。


だが犯罪者に対する量刑が甘いか否かの判断は、事件の背景をしっかり汲み取ったうえでなされるべきだ。


たしかに「生き埋め」とか「泣きながら懇願」なんてキーワードを目にしてしまうと、私もつい、司法はこの実行犯どもを被害者と同じ目に合わせてやるべきだ、なんて考えてしまうが、よくよく情報を収集してみると、この「被害者」は借りた金は返さず、転がり込んだ友人宅の服は勝手に持ち出すようなトラブルメーカーだったらしい。最終的に知人から借りた中学時代の「卒業アルバム」を返さなかったことが、この「被害者」の命取りになったようだ。


こういう思わず「あれ?」となってしまうような情報を、メディアはきちんと丁寧に検証しない。


所詮ひとごとだと割り切って、傍観者として冷静にこの事件を評価するならば、被害者に向けられた殺意の原因は突き詰めれば被害者本人の不行状にほかならない。まさしく「身から出た錆」そのものだ。私の脳裏には、シマウマの子供がライオンにちょっかいを出して襲われてしまうシーンしか浮かばない。

外国のことは分からないが、日本の司法制度にはこうした被害者(?)側にある事件の原因を公正に評価する仕組みが致命的に欠けていると私は思う。


例えば公共住宅で騒音を起こして近隣住民の怒りを買った挙句に大体は階下か隣の部屋の住民に殺されてしまうマヌケがたまにいるが、このマヌケの命は周囲の善良あるいは無害な住民の命と等価値だろうか。

みんな口にしないだけで、実はそのマヌケが死んでくれたおかげで平穏な生活を取り戻すことが出来て、ほっと胸を撫で下ろしている住民が少なからずいるはずだ。視点を変えれば、このケースにおいてマヌケに天誅を加えた「殺人犯」は社会に対してよいことをしたと評価することも出来るのだ(もちろんそんな物騒な人間を野放しにされても困るので一定の刑罰は必要だ)。


生き埋めにされた被害者の母親は裁判員たちに「事件の残酷さを見てほしい」と号泣しながら訴え、父親は実行犯に「娘の苦しみの何倍もの苦しみを味わわせてやりたい」と言い放ったらしいが全く白々しい。

時計の針を巻き戻せば、この夫婦が娘に対して、借りた金は返す、友人の自宅のものは勝手に持ち出さない、という当たり前なしつけを施すことにすら失敗した時点で、娘の運命は半ば決まってしまっていたのではなかったか。私が裁判員ならそこまで考えていただろう。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



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