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October 18, 2015


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

フグの猛威が収まったということで「メバルマン」と沼津へ。


静浦堤防というのが大人気らしいが、マイムスの掲示板なんか見てると、自分さえ良ければそれでいいとでも言いたげな、釣りの腕はともかく人間として下等な連中もそれなりに集まってそうなのでパス。

そういうわけでターゲットに絞り込んだのは、木負堤防、足保港、それに多比港の三か所。たぶんガラガラだろうから朝釣りは多比港、夜釣りは木負堤防が混んでそうなら足保港に向かう、というプランで、いざ現地へ。


一二三〇時に都内を出発、三時間ほどでマイムスに到着し、オキアミのブロックと粗挽きサナギを入手してから木負堤防の駐車場へと向かう。


とめられている車の台数から、それほど混んでなさそうだ、と判断して、料金徴収係の老人に、夜中に駐車場から出られなくなるような羽目にならないか、念のために確認してから、四〇〇円を払って駐車場の中へ。

ちなみについ先日まで夜中は出入り口を封鎖していたらしいが、ゲートを何者かに壊されちまってよぉ、と爺さんはお怒りだった。四〇〇円を惜しんで爺さんがいなくなってからこっそり入って来るやつらがそういう事をするんだろうが、途中でさっさと切り上げる事の多い私たちのような釣り人にとっても、できればゲートなんて設置しないでもらえるとありがたいのは事実だ。


初挑戦の木負堤防。





富士山を望みながら釣りなんて、なかなか風流だろう?まぁ日が暮れちまったら関係ないんだが。


堤防左手が沖側で、手前と先端近くは人気のようだが、中ほどは空いていたので適当に釣り座を構える。普通は手前が空いてるもんだが、どうやらイカ狙いの釣り人がそこに殺到しているらしい。

夜になると奴らは(そうすればイカが集まって来ると信じてるんだろうが)手持ちの集魚灯で所構わず海面を煌々と照らすので、率直に言って魚狙いの私たちには実に迷惑な連中だった。


さて、今回もどうせそこにはいないんだろう、とは思いながらも一応クロダイ狙いということで、メインはふかせ釣り仕様のリーガル(1.5号)。ふかせで何も釣れないときに退屈しないよう、ライトカゴ兼泳がせ釣り仕様のランドメイト(2号)も竿立てに待機させる。


前回の下田で余った撒き餌を軽く撒いて小魚が集まって来るのを確認してから試合開始だ。早速、工夫もなく中層に漂うだけの「メバルマン」の仕掛けにネンブツダイが続けざまにヒットする。


今回は活かしポンプを持参しているので「メバルマン」の釣り上げたネンブツダイ諸君には活き餌要員としての華々しい任務が待っている。もちろん大物フィッシュイーターが釣れるなんてまるで想定してないが(そしてその想定は正しかったが)、今回取り組むのはネンブツダイ君を弱らせないように針にかけては仕掛を投げる、という一連の動作の練習だ、と割り切れば、そいつは非常に有意義な試みってもんだ。


さて、メインのふかせ釣りではいつものように、あっと言うまに付け餌のオキアミをかすめ盗っていくやつらに業を煮やし、前回同様、作戦開始早々に「秘密兵器」が投入される。今回はスーパーマーケットの冷凍食品コーナーによく置いてあるイカとエビとアサリの入った中華料理用の具のパックを持参した。


ネンブツダイ共はイカやアサリもお好みと見えて相変わらずやつらばかりが釣れる。「メバルマン」が二〇匹以上、四号チヌ針を駆使して水深六.〇米にタナを設定している私ですら四、五匹やつらを海に投棄した頃だったろうか、目の前にぶら下げられたイカの切り身に目が眩んだ何者かによって、私の足元から七、八米の海面上でおぼろげに光り輝いていたハピソンが海中に引き込まれて所在なさげに泳ぎ始めた。

軽く合わせを入れてファイトを開始する。引き味からして超大物ってわけではなさそうだが、少なくとも活き餌サイズではなくて私の食卓に並んで然るべきサイズの獲物であることは間違いない。


三号ミチ糸と一.五号ハリスの組み合わせの前に為すすべもなく巻き上げられ、そのままタモによって回収された獲物は全く想定外のカサゴ。 ※翌日撮影





計ってみると体長二六センチメートル。尺には及ばないとは言え、堤防からこのサイズのカサゴが釣れるなんて考えたこともなかった私は、はじめはキジハタとかオオモンハタとかそういう名前で呼ばれるややマイナーな奴かと思っていたが、その釣り場を撤収してガストで紅茶を啜りながらタブレット端末で調べてみたときに、そいつが「カサゴ」であることを確信した。

すげー、魚屋にこのサイズが出回ってるのは見た事がない。アラカブとかガシラとか言われて稀少魚扱いされて、このサイズにもなると、ほとんどの客が黒塗りのセダンでやって来るような銀座あたりの高級料亭に優先的に回されてしまうので庶民の食卓には無縁なのに違いない。


その後、「メバルマン」にも私にもうれしい出来事は何も起きないので二一〇〇時までには翌朝分の撒き餌のブレンド作業を済ませて撤収。ガストで軽く食事をとってから多比港の駐車場へ。

たまたま通りがかった夜釣りの釣り人に教えてもらったんだが、駐車場は釣り船客用で、堤防釣りの釣り人は適当に路肩に駐車するのが習わしらしいので、そのようにして仮眠。


〇三三〇時には起き出して準備を開始する。荷物をまとめてカートに積んで、ちょうどカート一台分しか幅のないような堤防上を、ヘッドライトの灯りをたよりに誤って荷物をカートごと海にドボンと落としてしまわないよう細心の注意を払いながら釣り座へと向かう。

メインの堤防には手前側に二組の釣り人がいたが、先端の方はフェンスで阻まれていて立ち入り禁止のようだ(が、朝になって何人かの釣り人が侵入していた)。左手に分岐する突堤には先端部に一人いるだけでほかに釣り人はいない。狙いをつけていた、「つりなびうぉーかー」によれば大物のクロダイが何匹も仕留められたとか言う(そんなもの一匹も釣れなかったが)中ほどのポイントに釣り座を構えて仕掛けのセッティングに着手する。

ちなみに私たちの後から、私たちよりも先端に入りたい釣り人がカートを引いてやって来たんだが、私たちが一度荷物をどけてやらないと彼らはその先に行くことが出来なかった。まぁ何というか、釣り人同士の心温まる譲り合いの精神が求められる、とにかく幅の狭い堤防だってことだ。


準備が出来たところで魚の棲みつき具合など把握するために少し離れたところの海中をSUREFIREで照らしてみると、澄み切った海水を通して海底に大量のムラサキウニらしきのが転がってるのが見える。これってこっそり拾い集めてるとこを見つかるとペナルティーを喰らうやつか?

まぁ、持ち帰ったところで適切な調理法も分からないので私たちは見なかったことにしたんだが、夜明けと同時に先端の方から戻って来た初老の釣り人が私たちが釣りをやってるすぐ傍でタモでせっせとそいつを集め出したのは実に目障りだった。


試合開始後、まず私の次なる秘密兵器「オキアミダンゴ」に喰らいついて来てウキを沈めたのは一五センチメートルかそこらのチビカサゴ。





唐揚げ用にキープ。


あとはひたすらエサを盗まれ通しで、何時間も粘って豆アジが一匹釣れただけで、相変わらずネンブツダイかベラしか掛からない「メバルマン」共々、なかなかツラい展開だ。


だいぶ日が高く登った頃に私たちの右隣に一人の釣り人がやって来て、ウキのついた下カゴ仕様のサビキ仕掛けを二、三〇米ほど投げ始めたのだが、 その仕掛けが回収される度に結構な頻度で豆アジかスズメダイが掛かっているので、暇つぶしに私もランドメイトでその辺りを狙ってカゴ釣りに挑戦することにした。


仕掛けはオキアミが放出されるタイプのミニカゴ、二号錘(中通し)、三号ウキの組み合わせ。





まぁ、お隣さんとは違って何度投げてもちっとも釣れないのだが、「メバルマン」がペンチを貸してくれ、というのでベストのポケットをごそごそやってペンチを取り出していたときに、「メバルマン」が、私のウキが見えなくなった、とか言って騒ぎ出したので、さっきまでウキが漂っていたあたりを見てみると、たしかにそこにあるはずのウキがない。

私の手には何の魚信も感じられないのだが、試しに仕掛けを回収してみると、お隣さんのとそう変わらないサイズの豆アジがかかっていた。うへー、カゴ釣りで仕留めた初めての獲物は豆アジかよ!


ふかせで釣り上げた豆アジと2ショット(唐揚げ用にキープ)。





ところで当然のことながら、ウキがすぽっと沈む瞬間を目の当たりにする、というカゴ釣りの醍醐味を体験する機会を私から奪って台無しにした「メバルマン」は、「くだらんタイミングで話しかけるな!」と私にどやしつけられた。


その後、沖側ではなくて係留船が釣りの妨げになるので誰もそっちに釣り座を構えない港内側に釣り座を移して悪戦苦闘していた「メバルマン」は、昼飯時を過ぎた頃にもなってようやく私が釣り上げたのと同じ位の唐揚げサイズのカサゴを釣り上げた。

おまけに一四〇〇時にもなって完全に釣りに飽きてしまって帰り支度を始めた私が一部の荷物を車へと運ぶためにその場を離れている間にも、二〇センチメートル大の「魚屋サイズの」カサゴまで釣りあげた。こればかりは「メバルマン」もさぞや嬉しかったことだろう。


ところで私たちの周りでは「チヌ釣り師」と思しき釣り人たちがドボン、ドボンと突堤から団子を海中に投入して頑張っていたが、結局クロダイを釣り上げた釣り人は一人もいないようだった。

むしろ、メインの堤防のかなり手前側を陣取っていたカゴ釣り師たちがぽつぽつとソウダガツオを釣り上げていたようだ。「メバルマン」はともかく、私は完全にターゲットを見誤ってその釣り場を訪問してしまったらしかった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。







October 16, 2015


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

私が「農鳥オヤジ」の存在を知ったのは、「農鳥オヤジ」とのドラマチックな対面を果たすことになるわずか四日前のことだった。


トミーとともに北岳を起点として白峰三山を縦走する計画に着手した私は、初日は肩の小屋、二日目は大門沢小屋に宿泊するプランを立てたが、間の悪いことに大門沢のヒゲで有名な例の小屋主が屋根から落ちたとかで今年は早々に小屋じまいしてしまったらしい。

となると、二日目の行動時間が短くなってしまうのが少々具合が悪いが、稜線上の「農鳥小屋」に宿泊するしかないってわけだ。まぁ仕方がないな、それでその「農鳥小屋」って小屋ではちゃんと水が手に入るのか?

私は小屋の基本的なスペックを確認するために「農鳥小屋」をキーワードにしてインターネットで検索することにした。


そこで私が目にしたものは、「農鳥オヤジ」なる愛称とも蔑称ともつかない特別な称号を下界の人々より勝手に授けられた、「農鳥小屋」の小屋主に対する悪評の数々だった。

かいつまんで言えば「農鳥オヤジ」は短気で気むずかしく気に入らない登山客をすぐに怒鳴りつける、といったもので、遅い時間に小屋に到着したり、勝手に小屋の周囲に荷物を置いたり、用もないのに間違って小屋の敷地内に侵入してしまったがために「農鳥オヤジ」に口汚く罵しられたという被害者たちの怨嗟の声とも言うべき証言の数々が各所にあふれていた。


たまたま(?)ラジオを持たずに彼の小屋を訪問してしまった登山客たちに彼が浴びせたという、それを浴びせられた者の胸をえぐるような一言を知る人は少なくないだろう。ただ怒鳴りつけるだけじゃない。「農鳥オヤジ」は嫌味のセンスも秀逸でなかなか手ごわい。

私はウィットに富んだ皮肉やからかいは嫌いじゃないが、そいつが自分の身にふりかかるとなると話は別だ。好むと好まざるとに関わらず縦走計画を遂行するためには「農鳥小屋」に宿泊せざるをえない私は、いそいそと自宅のパソコンをインターネットに接続して、 amazon で手ごろな値段の携帯ラジオを注文した。


もっとも、情報収集を進めるうちに、「農鳥オヤジ」には少なからぬファンがいることもまた明らかになった。彼らの言い分は、「農鳥オヤジ」は登山客をただ怒鳴りつけているのではなくて、登山客の安全のために彼らを「叱りつけている」のだ、というものだった。

なるほど、小屋への到着が遅かったり、ラジオを持たずにのこのこ「農鳥オヤジ」の前に姿を現した登山客を待ち受ける試練の背景は分かった。では荷物の置き方がオヤジの気に触れた連中や小屋の敷地に侵入した連中が経験した災難はどう説明すればいい?

まぁ、そのときの「農鳥オヤジ」の心中を代弁すれば、さしずめこんなとこだろう。「お前ら、オレの小屋で勝手なマネをするな!」


「農鳥オヤジ」以外にも「農鳥小屋」には登山客がそこを避けて通るに十分に値するほかの事情がいくつかあった。例えばある情報筋によれば、「農鳥小屋」では夕食として白米と味噌汁、漬物と名前の分からないようなキノコや山菜のごった煮しか提供されないらしい。つまりほかの山小屋に比べて著しく粗末な食事しか出て来ないってわけだ。

私は、それは違うと思った。冷凍もののハンバーグや魚の切り身なんて出されるくらいなら、大自然から収穫されたキノコや山菜という素材を活かした食事の方が美味いに決まってる。

ただし、小屋に湯呑みはないので、茶を飲みたい場合は先に白米なり味噌汁なりを平らげて空にした器で飲まなければならないらしい。私は荷物の中にマグカップを放り込むのを忘れなかった。


食事の件は私にとって何の障壁にもならなかったが、「農鳥小屋」の便所がどのようなものであるのかを知ったときにはさすがの私も戸惑わずにはいられなかった。

その便所でクソをするのが真っ昼間か、夏場の気候が温暖な時期だったら私にとって大した問題ではなかっただろう。氷点下近くに冷え込む標高三〇〇〇米地点の秋の夜明け前に、斜面を吹き上げる冷たい強風にわざわざケツを向けてクソをしなければならないなんて悪夢がほかにあるだろうか。ホッキョクグマですらクソをするのにもう少しマシな場所はないのか、探して歩き回るに違いない。

私は、その日は太陽が昇って少し暖かくなってから、稜線下の樹林帯で野グソに取り組む覚悟を決めた。


もっとも、トミーと示し合わせて今回の山行のために押さえた三日間の天気予報はめまぐるしく変わった。最も行動時間が長くなるうえに前半は稜線歩きを強いられる三日目の気象予報が芳しくないので、私たちは北アルプスでの山行プランも同時並行で進めなければならなかった。

結局、北アルプスよりも南の方がマシだ、と判断して、当日は奈良田の駐車場に向かおう、とトミーに連絡を入れたのは前日の夕方のことだった。さぁ、これで私が噂の「農鳥オヤジ」にお目にかかる舞台は整ったってわけだ。私は念のため、トミーにもインターネットで「農鳥オヤジ」の過去の言動について詳しく研究しておくように忠告した。


行先が決まったときにはとっくに日が暮れていたので、私は気を遣ってその場では小屋に連絡を入れず、翌朝、奈良田の駐車場から予約の連絡を入れることにした。当日泊まる肩の小屋にはスムーズに予約の連絡を入れることに成功したが、インターネット上で公開されている「農鳥オヤジ」の携帯に電話をかけると二回ほど転送された挙句に誰も出なかった。

携帯は奈良田ではつながるが広河原ではつながらないらしい。奈良田から広河原に向かうバスがやって来たので、私は明日になって「農鳥オヤジ」に「貴様ら、予約も入れずにオレの小屋に泊まろうって言うのか!?」などと怒鳴りつけられたりしないか、一抹の不安を覚えながらも仕方なく携帯の電源を切った(三日後に下山してから確認すると、私が「農鳥オヤジ」の携帯を鳴らしてから約一時間後に、立て続けに五件の着信履歴があった。全て他ならぬ「農鳥オヤジ」からのものだった)。


初日、肩の小屋への道すがら、私とトミーの間で交わされる会話のネタの殆どが当然ながら「農鳥オヤジ」に関するものだった。「農鳥オヤジ」が間ノ岳から小屋の方へと下山してくるハイカーたちを、小屋の前に設けられたオヤジの指定席とされる「ドラム缶前のベンチ」で双眼鏡を片手に監視しているという情報を入手した私は、それにちなんで今回自らに課したいくつかのミッションをトミーに紹介した。

ひとつめは、間ノ岳から下りて来るハイカーたちを双眼鏡で監視している「農鳥オヤジ」を、「農鳥オヤジ」に見つかることなく私が間ノ岳の山頂から双眼鏡で監視したうえに、こちらを見上げてきょろきょろしている「農鳥オヤジ」の様子をこっそりカメラで撮影する、というものだ。

ふたつめは、小屋まで下りて行ったら、その「農鳥オヤジ」の指定席なる「ドラム缶前のベンチ」に「農鳥オヤジ」が見てない間にこっそり腰かけ、手持ちの双眼鏡で私が「農鳥オヤジ」の代わりに間ノ岳から下りて来るハイカーたちを監視する、というものだ。

みっつめは、一五〇〇時を過ぎて小屋に到着したハイカーを私が「農鳥オヤジ」の代わりに怒鳴りつける、というものだったが、トミー曰く、「農鳥オヤジ」の半分はおろか一〇〇〇分の一すら貫禄のない私がそれをやってもハイカーたちはちっとも怖くないだろう、というのでやめにした。


それから私は「農鳥オヤジ」に何を言われても一切の反論や言い訳をしないことをトミーに宣言した。世界一、少しでも気に喰わないことがあると誰かれ構わず反論する男のくせにそんなことが出来るのか?というような事をトミーは言ったが、「農鳥オヤジ」がハイカーたちにあれこれとやかましく指摘する、その理由を確信している私の決意は固かった。

その代わり、もし私が「農鳥オヤジ」に怒鳴りつけられるようなことがあったら私は必ず「農鳥オヤジ」に怒鳴り返してやるだろう、とも宣言した。 何と言って怒鳴り返すかって?「本当に申し訳ありませんでした!!」以外に適切な言葉など私にはただのひとつも思い浮かばない。


二日目、初日に宿泊した肩の小屋を〇七〇〇時に後にした私たちは、素晴らしい秋晴れの空の下を農鳥小屋を目指して前進した。肩の小屋から農鳥小屋までの標準所要時間は手持ちのガイドブックによれば四時間あまりだ。

いつものようにあれもこれも写真に撮ったり、のんびり休憩を挟みながら行っても一二〇〇時までには農鳥小屋に着いちまいそうだ。私たちは「農鳥小屋」で昼食をとるのも悪くない、なんて話をしながら、常に強風こそ吹き付けるものの絶景の広がる稜線歩きを楽しんだ。


いろんなところで道草をして写真を撮ったり、稜線上の風避けにちょうどいいハイマツ帯で陽光を浴びながら仮眠をとったり、あるいは立ち止まって目の前に広がる絶景を楽しみ過ぎた私たちが間ノ岳の山頂に到着したのは一一四〇時のことだった。そこから農鳥小屋までは一時間ほどかかるらしいが、そろそろ私もトミーもいい具合に腹が減っている。協議の結果、私たちはそこで昼食を摂ることにした。

おまけに山頂には風を遮るのにとてもいい感じの岩場があったうえに「農鳥オヤジ」が機嫌を損ねるといわれる小屋への到着タイムリミット即ち一五〇〇時まではまだたっぷりと時間があった。私たちはさもそれが当然のことであるかのように、そこでも食後の昼寝をすることにした。


一三〇〇時過ぎにのっそりと起き上った私たちは行動を開始した。だだっ広い間ノ岳の山頂から一段下がった南側の平面に「農鳥オヤジ」から姿を隠しつつ、その陰から農鳥小屋を見下ろすのにうってつけのケルンを見つけた私は、双眼鏡を片手にこそこそとそれに近づいた。

迷彩柄のツバ広帽をかぶってケルンと同化しつつ、小屋の様子を双眼鏡で覗う私を怪訝そうな目で見ながら一人のハイカーが小屋の方へと下って行った。おい、頼むから山頂に怪しいやつがいる、なんて余計なことを「農鳥オヤジ」に吹き込まないでくれよ。


監視地点から双眼鏡越しに捉えた農鳥小屋。





地図を見る限り私たちの位置から小屋までの距離はざっと一マイル(≒一六〇〇米)ってとこだろう。私の双眼鏡ではそれだけ離れた距離にいる「じっとしている」人間を見つける事は不可能だった。ひとつめのミッションは失敗だ。

それにしてもクリス・カイルってやっぱりすげぇな、なんて事を考えながら私は立ち上がり、後ろで待機していたトミー共々、こちらを監視しているであろう「農鳥オヤジ」に堂々と姿を晒して間ノ岳を下ることにした。


間ノ岳からの下りは足の滑りやすいザレ道だったが、ちょっとでも油断をして半フィートすら足を滑らせようものなら、後で「農鳥オヤジ」に「貴様らは山道を下るのが本当にヘタクソだな!!」などとお叱りを頂戴することになりかねない。

私とトミーは二人とも集中力を切らすことなく、とびっきり上手な歩き方を心掛けて、下界にその名を轟かせる「農鳥フォント」がそこら中に目につく忌々しいザレ道を抜群の安定感を見せつけながら下った。





とても残念なことに、いざ私たちが小屋の前に着いてみると「農鳥オヤジ」の姿はどこにもなかった。何だよ、今日は見張り番をサボってるってわけか?


私の前を歩いていたトミーが必然的に私よりも先に小屋の敷地へと侵入し、作業小屋に潜んでいた「農鳥オヤジ」を発見した。私の位置までは聞こえなかったが、たぶん泊めてくれとか何とか、トミーは手短に用件だけを「農鳥オヤジ」に伝えたんだろう。私の位置からは小屋の陰に隠れてまだその姿を確認することは出来なかったが、世界中の無愛想な人間のお手本にすらなりそうな面倒くさそうな口調で「はい」とだけ一言、「農鳥オヤジ」らしき人物がトミーに答えているのが聞こえた。

腕時計を見ると時刻は一三五五時。到着期限の一五〇〇時にはまだ一時間ほどある。少なくとも対面早々怒鳴りつけられるような悲劇を回避できた事を理解した私はそっちに歩いて向かって、いよいよ彼らの前に躍り出た。


そこには突然、物陰から現れた私に向かって無言で鋭い視線を投げかけている一人の老人がいた。おぉ、こいつはすげぇ!トレードマークとされるあのモンゴロイド系の遊牧民族が愛用してそうなツバなし帽をかぶって貫禄のある顎鬚を生やした、小柄ながらどうにも近寄りがたい雰囲気を醸し出しながら私の眼前に佇んでいるその老人こそ、まさしくこれまでに数々のハイカーを震え上がらせ、あるいは彼らに極限まで不快な思いをさせて来た歴史を誇る悪名高いこの小屋の主人、「農鳥オヤジ」に違いない!

私はひとまず「あんたの事なんて知らないぜ」って風を装って一度だけ軽くペコリと会釈をした。「農鳥オヤジ」はそれに対しては何の関心も反応も示さずに、そのまま私たちを宿泊手続きとやらのために宿泊棟へと連行した。


「農鳥オヤジ」が宿泊棟の引き戸をガラリと開けると、中には既に四人のハイカーが奥のコタツに入って寛いでいた。私たちを入口の土間に留め置いた「農鳥オヤジ」は棟の奥から宿泊台帳を持って来るなり私たちへの尋問を開始した。

「明日はどちらへ?」


事もあろうに、それまで「農鳥オヤジ」との交渉窓口を務めていたトミーは、そんな基本的な質問にすら満足に答えられずに言葉に詰まって私に答えるように促したので、私は「農鳥オヤジ」に奈良田に下山する、とだけ答えた。


次に「農鳥オヤジ」は「代表の方は?」と尋ねて来たが、すかさずトミーはその座も辞退して私を指差した。年齢を聞かれたので私が答えると、「農鳥オヤジ」はそれを聞き間違えて宿帳に記入したので、私とトミーがほぼ同時にその間違いを指摘した瞬間、「農鳥オヤジ」は「貴様ら、オレに何か文句があるのか!?」とでも言わんばかりの鋭い調子で聞き返した。

「あ!?」


事前に「農鳥オヤジ」の耳が遠いことを知っていたのは私にとって幸いだった。何も知らずにやって来たハイカーが同じ目に会ったら、その出来事だけで心がポッキリ折れてしまっても仕方がなかっただろう。それくらい「農鳥オヤジ」の「あ?」は威圧的な響きを帯びていた。

だがそいつは単にそう聞こえるだけで、実のところ「農鳥オヤジ」は「よく聞こえなかったのでもう一度言ってくれないか?」と私たちに頼んでいるだけなのだ。私はただ、下界で暮らしていればそこら中で見かけるような、周囲に対して友好的に振る舞うことのできる普通の老人にそうするのとまったく同じようにゆっくり、かつはっきりと正しい年齢を伝え直せばそれでよかった。


その後、年齢以外の項目について私が宿帳への記入を済ませた頃に「農鳥オヤジ」が「今日はどこから来ました?」と私たちに尋ねたので、これにはすかさず前日泊まった小屋の名前くらいは覚えていたトミーが「肩の小屋から来ました」と即答した。

それを聞いた「農鳥オヤジ」は、「貴様らはオカマか!?」「マジで信じられない!」とでも言いたげなすっとんきょうな声をあげた。「何だぁ?えらく時間がかかったな!?」


噂によれば「農鳥オヤジ」は登山客のその日の行動時間を聞けば瞬時にその登山客のハイカーとしての実力を見極めることができるらしい。早朝に肩ノ小屋を出発したはずのハイカーが一四〇〇時近くにもなって彼のもとを訪れた、という事実から「農鳥オヤジ」が連想することと言えば、いま目の前で彼の小屋に泊まりたいと申し出ている二人の男−私たち−はとんでもないノロマでよちよち歩きの屑ハイカーだってことに違いない。

その事実を丁重に否定させていただくために、私は「間ノ岳で昼寝をしておりました!」と正直に白状した。なぜかトミーはそれを聞いて「ハハハハ」と大笑いした。「農鳥オヤジ」は・・・。「山で昼寝?貴様ら舐めてるのか!?」と私を一喝する代わりに「あぁ、そうかい」とただ納得して次の手続きへと移った。


続けて、小屋に泊まるにあたっての数々の注意事項−この小屋に限っては「掟」とでも呼ぶのがふさわしいだろうか−が「農鳥オヤジ」によってすらすらと暗唱された。

その間、「農鳥オヤジ」の口調は終始穏やかで、言葉使いも丁寧なものだった。「農鳥オヤジ」は、彼が頭にインプットしている限りのひとしきりの決まり事を空んじ終えてから、「そんなところかな」と独り言を言って、最後に、明日は天候が崩れそうだから暗いうちに小屋を出発してもらいたい、今のうちに農鳥岳に向かう道を下見しておいてください、と私たちに言った。私たちはすぐさまその言葉に従い、何かの仕事を命じられた警察犬より素早く小屋の外へとダッシュで移動した。


翌朝の出発ルートは明瞭で、「農鳥オヤジ」から課された宿題はすぐに終わった。私たちが宿泊棟に戻ると、ちょうど一組のハイカーが土間で宿泊手続きをしているところだったが、戻って来た私たちを見咎めるなり、「農鳥オヤジ」は私たちが許可を得たうえで座敷の一画に転がしておいた私たちの荷物を指差しながらこう言った。「あんたたちはまだ若いのにセッピョー装備はどうした?」

おぉっ!ひょっとしてこいつが噂に聞く、数知れぬハイカーたちの精神をずたずたに切り刻んで葬り去って来たとか言う「農鳥オヤジ」のありがたいお小言なのか!?私は身の引き締まる思いで農鳥親父閣下から下される次の一言を待った。ところでセッピョーって何だ?


私が、そして多分トミーも「セッピョー」の意味が分からずきょとんとしているのを見てとったのだろう、農鳥親父閣下は「雪と氷だ」と、このうえなく分かりやすい補足の説明を差し挟んでから続けた。「いま何月だ?もう一〇月半ばだよな?」「ここは標高三〇〇〇メートルだ」

要するにこういうことだった。「貴様ら、この季節にもなってピッケルも持たずによくもおめおめとオレの前にツラを出しやがったな!?」


よせばいいのに冒険心豊かなトミーが「軽アイゼンを持って来ました」などと発言して農鳥親父閣下にささやかな反抗を試みた。ひょっとするとトミーはその一言で閣下を黙らせることが出来ると踏んでいたかもしれないし、その一言は閣下におかれてもやや想定外のものだったかもしれない。

だが農鳥親父閣下はそいつを耳にすると落ち着き払って「軽アイゼンか・・・」とボソリと呟き、しばらく間を置いてから、今度はおもむろにザックに括り付けられているトミーのトレッキングポールをとんとんと人差し指で小突きながら、「おい、若いの、二度とオレに口ごたえなんてするんじゃねぇぞ」とでも言いたげな厳粛なる響きを湛えて静かに言った。「でもこいつじゃ雪洞は掘れないな。」トミーは二度と余計な口をきこうとはしなかった。


私はあらかじめトミーに宣言していた通り、「農鳥オヤジ」に何を言われても反論も言い訳もしないと決めていたので、黙って「農鳥オヤジ」の言葉を聞いていた。実際、その場で「農鳥オヤジ」に一言言い返すことはそう難しいことではなかっただろう。

「よぉ、爺さん、新雪によく利く魔法のピッケルはどこに行けば手に入るんだ?」「おいおい、この辺りの山じゃ一晩で雪洞が掘れるほど雪が積もるって言うのかい?」「だいたいそんなもの持ち歩いてるやつが一人だっているのかよ?」

だがそうすることに一体どれだけの意味があっただろうか。


「セッピョー装備」は「農鳥オヤジ」が言わんとしていることの表面的な一要素でしかない。私たちがそのとき「農鳥オヤジ」に突き付けられていた問いかけの本質とはこういうことだったろう。

「貴様ら、山を相手に遊びたいって?それだけの覚悟は出来てんだろうな?」


まして「農鳥オヤジ」は機嫌が悪かったから、とか、あるいは単なる嫌がらせのためにそんな事を言っているのではなかった。「農鳥オヤジ」の、台風崩れの低気圧がどこそこの海上にあって、寒気団はいまどこそこまで下りて来ていて、と言った現状の気象状況に関する分かりやすい名解説を、 演奏される国歌に直立不動で聞き入る愛国心豊かな兵士よろしく「農鳥オヤジ」から目をそらすことなく一言一句聞き漏らすまいと拝聴していた私の姿勢に満足したのか、或いは相手が誰であれ最後はいつもそうしているのかは分からなかったが、「農鳥オヤジ」は不意に目を細め、表情を崩して白い歯を見せると再び穏やかな口調に戻ってこう言った。「必ず雪が降るとは言いません。でもそうなる可能性もあります、ってことなんですよ」


ちょうどそのとき宿帳を記入していた例のハイカーがそいつを書き終えて閣下に手渡したとき、閣下の「明日はどちらへ?」との問いに対して「北岳へ」と答えてくれたので、閣下の関心はそちらに向けられ、私たちは解放された。

「下った方がいい」 農鳥親父閣下は私たちより年かさの北岳に登りたいハイカーに問答無用といった口調でピシャリと言った。「え?」と聞き返した北岳に登りたいハイカーを待ち受けていたのは、もちろん閣下からのとどめの一撃だった。「明日は天候が崩れる。さっさと下れ、と言ったんだ」


農鳥親父閣下の私たちに対するありがたいコンサルティングの時間はこれだけに留まらなかった。「すぐに(雲で)見えなくなるから今のうちに山を見とけ!」という閣下の親切心に満ちあふれつつ絶対的な命令に従って私たちが小屋を飛び出し、間近にそびえる間ノ岳や西農鳥岳を下界の喧騒を忘れながら見上げていたときに、閣下に散々ビビらされて不安になったのか、トミーが「明日、雪が降ったら奈良田に下るのがいいのか、北岳側に戻った方がいいのか、(閣下に)聞いて来ます」と言うので、そんなことも分からない者が山に来るな、とか何とか言われて火に油を注ぐだけだからやめた方がいい、と私は忠告したのだが、結局、トミーは目下の重大な疑問を解消するために閣下の下へと走った。

私が十分に小屋の周囲からの眺めを楽しんで宿泊棟に戻ろうとすると、ちょうどトミーが農鳥親父閣下に明日の行動に関する指針を下し置かれているところだった。私がそこをブラリと通りがかったことで、農鳥親父閣下の権威ある講義の時間が再開される条件は整った。

知見に満ちた閣下のお話は全く私を飽きさせないものだったが、やがて話題はいつしか心構えの甘い登山客に対する閣下の苦言へと移って行った。「必ずいるんだ」 閣下は、オレは何でもお見通しだ、とでも言いたげな確信に満ちた口調で仰せられた。「川を渡るときに、あぁ、やっぱりあのオヤジの言うことをちゃんと聞いておきゃよかった、なんて後悔するやつらがな」


農鳥親父閣下が、大門沢が雨で増水するリスクまでよくよく考慮したうえでザイルを携帯することなく彼のもとを訪れるようなハイカーは愚かなやつだ、という考えをお持ちであることは私も知っていたし、実際、まぁザイルなんて持ってないので持って来ようもなく、翌日、雪が降ることよりも雨で沢が増水した場合のことを懸念していた私にとって、そいつは身に沁みる話だと私は思ったが、不意に閣下は、念のために聞いておくが、と言った感じで私に尋ねた。「どこの川だか分かるか?」

自信に満ちた口調で「それは大門沢のことでしょうか!?」と、私はほかに答えなんてあるわけがない、とでも言わんばかりに胸を張って答えたのだが、後から思えばそいつはかなりとぼけた回答だった。私の答えを耳にした瞬間、農鳥親父閣下は鋭く眼光を光らせ、険しさを帯びた表情で私を見据えるなりこう言い放った。

「三途の川だ!」


まさかそんなところでアクション映画のラストシーンに登場するヒーローよろしく取って置きの決め台詞をかまされるなんて想像だにしていなかった私は、もうただただ、桜の彫り物をお奉行様に見せつけられて観念した悪徳商人のように「畏れ入りました」と言うほかなかった。


ところでそれらの会話が、窓ガラスを割ったボールを片手に仁王立ちしている頑固じじぃの元に謝罪に訪れた野球少年よろしく、私たちがただ頭を垂れながら「農鳥オヤジ」の一方的な話を聞いているような感じで展開されたものだと思っているなら、そいつは全く違う。

実際のところ、「農鳥オヤジ」は泊り客の夕飯の支度にあてるべき結構な時間を犠牲にしてまで、すぐ傍で散歩をせがんでうるさく吠える愛犬をどやしつけながら、全ての登山者が身につけるべき安全登山の心得について私たちに熱心に話をしてくれたが、基本的にその口調は終始、私たちを諭すような穏やかなものだった。


おまけに「農鳥オヤジ」は長い講義の合間に以下のような言葉をたびたび口にした。「厳しいことを言ってるのは分かってるがね」「うるさく言ってごめんなさいね」「素直に話を聞いてくれてありがとうね」

最後の一言がオヤジの口から発せられた瞬間、私もトミーも畏れ多さのあまり「何を言い出すんだ」と言わんばかりにオヤジの言葉を慌てて遮ろうとしたくらいだった。


「農鳥オヤジ」と私たちのコミュニケーションは、何も登山の心得に関するものだけに留まらなかった。往復するのに優に二〇分以上はかかる、稜線から高度一〇〇米は下らなければ辿り着けない(ってことはもちろん一〇〇米登らなければ帰って来れない)水場で水を汲み終えた私たちが稜線まで戻って来て息を整えているのを見かけた「農鳥オヤジ」は、すかさず「いい水場だったろう?」と話しかけて来て、その水場はどこそこから水を汲みあげているとか、夏場はそこで行水することも出来るとか、孫を自慢する爺さんのように、その水場がいかに素晴らしいものであるのかを私たちに伝えようとした。


清らかな水を絶えることなくペンキ缶に注ぎ続ける農鳥親父閣下ご自慢の水場。





おまけに私たちが宿泊棟に戻って、なぜ「農鳥オヤジ」の飼ってる犬はトミーにはちっとも吠えないのに私にばかり唸り声まであげて吠えるのか、についてあれこれ議論をしていると、ガラリと引き戸を開けて登場した「農鳥オヤジ」は私たちを見つけるなり、素晴らしい水を手に入れた私たちにはそいつを目に焼き付ける義務がある、とでも言わんばかりに、水場近くで撮ったもんだ、と言って、鹿が何頭も写っている写真の束を私たちによこしたうえで、その山域の食害に関するレクチャーまでしてくれた。


もちろん噂のコーヒーと紅茶のセルフサービスについても「農鳥オヤジ」は私たちに熱心に勧めてくれた。何でもポットを夕食に流用しなければならない、とかで、そのサービスは毎日一六〇〇時きっかりに有無を言わさず打ち切られる決まりなのだが、私たちを小屋の外で見かける度に「農鳥オヤジ」は、オレは本当にお前たちにコーヒーか紅茶を飲んでもらいたくて仕方がないんだ、とでも言わんばかりに「さっさと飲め」と何度も言った。


農鳥小屋名物、コーヒー、紅茶のセルフサービスセット。





私はオヤジのお言葉に甘え、手持ちのマグカップで一杯目はレモンティーを、二杯目はアップルティーを啜った。それらは粉末タイプのインスタント飲料だったが、これまでに多くの登山客たちがそれらで喉の渇きを潤して来たのだろう、粉は袋の中に殆ど残っていなかった。

レモンティーもアップルティーも、私が自分の分をこさえるとあと一杯分しか残らなかったので、必然的にトミーがそれらの飲み物を楽しむことの出来る最後の人物になった。だから理屈のうえでは、今後「農鳥オヤジ」がそれらの飲み物をほかの登山客に提供できなくなった事実を「農鳥オヤジ」に報告する義務があったのはトミーということになる。

もしも「農鳥オヤジ」が、まだ私たちがそこに滞在している間に例によってガラリと引き戸を開け、「レモンティーとアップルティーが残ってないじゃないか!!」などと血相を変えて怒鳴り込んで来たら、私は喜んで仲間−トミー−を売っただろう。


ところでレモンティーもアップルティーも、その粉末は妙に湿気を含んでいたので、私は怖いもの見たさにそれらの賞味期限をチェックすることを忘れなかった。結果?どうせ残りはトミーが全部飲んじまったんだから、今さらそいつを公にして何の意味があるって言うんだ?

まぁ数日とか数週間とか、実のところ数か月とか、そんな生ぬるい単位の話ではなかったのは事実だが、だったらどうだと言うのか?そいつは農鳥親父閣下のご厚意によってタダで提供されてるもんだって事を忘れちゃいけない。


私は「農鳥オヤジ」との記念撮影も忘れなかった。私が一緒に写真に写ってほしいと申し出ると、「農鳥オヤジ」はボソリと「いいけど・・・?」と呟いてから、「オレはそのへんをうろついてるから勝手に撮ってくれ」と言った。そんな適当な写真でいいわけないだろう。

トミーにシャッターを押せば撮影できる状態にしたカメラを手渡した私は、次に私の近くを「農鳥オヤジ」が通りがかったときに「それではお願いします!」と言って、忙しく動き回る「農鳥オヤジ」の都合も省みず、半ば強制的に私の隣に並んでもらった。

しぶしぶ私に付き合ってくれた「農鳥オヤジ」は「オレはレンズは見ねぇぞ」「遠くの山を見てる感じで写る」などと、さすがはその道一筋に生きて来た山男らしい(が、私にはよく分からない)こだわりを見せながら、最終的には快く記念撮影に応じてくれた。





ついでに私はミッションその2に取り組むことも忘れなかった。事前の情報ではドラム缶の前にベンチがある、ということだったが、それらしきドラム缶の前には何も置いてなくて、代わりにそのすぐ脇に木組みのベンチ(らしきもの)があった。

「貴様はオレの指定席で何をやっている!?」などと「農鳥オヤジ」に怒鳴りつけられたときの言い訳をあれこれ考えながら私はそこに腰かけて、不法入国者を取り締まる国境警備隊の隊員よろしく双眼鏡で間ノ岳の斜面をじっくりと時間をかけてスキャンした。なるほど、たしかにここからなら下山してくるヘボハイカーを一発で見つけ出すことが出来るってもんだぜ。


偉大なる「農鳥オヤジ」になりきって間ノ岳を監視中。





残念なことに、その日はそんな時間に間ノ岳をちんたら下って来て、数十分後にはようやくたどり着いた山小屋の小屋主を烈火のごとく怒らせる羽目になる哀れなハイカーは現れなかった。


全くうれしいことに、翌朝は出発前に便意を催すこともなく、マジでケツが凍っちまって明日からクソが出来なくなっちまうんじゃないか、という恐怖に怯えながらパンツを脱いで稜線上の吹き抜け便器を跨ぐ羽目にはならずに済んだわけだが、小屋に滞在中、何度か小用を足すのに「名物便所」にはお世話になった。





横幅が一〇インチにも満たないその穴を狙って正確に放尿するのは骨の折れる作業だったが、あの農鳥親父閣下の便所の踏板に一滴分のシミでもつけるなんて無礼なことが許されるはずがない、と私は自分を戒めながら一生懸命取り組んだ。


名コック、農鳥親父閣下の手による「農鳥オヤジ定食」はうわさ通り、まだ空の明るい一六三〇時には宿泊客たち全員に振る舞われた。私たちがくつろいでいる宿泊棟に、例によってガラリと引き戸を開けて登場した農鳥親父閣下が一言、「メシだ」と告げると、私たち宿泊客全員はすぐさま移動を開始し、最上級の統率のとれたボーイスカウトの少年少女にすら勝るとも劣らないスピードで食堂へと集結した。

たぶん六畳もないと思われる、その「食堂」と呼ばれる台所と一体化した食事用スペースには四つの「チャブ台」が置いてあって、うちひとつが茶の入ったやかん置き場、うちひとつは「絶対に動かすな」という貼り紙付きの「用途不明」、残りふたつが我々の食事用にアサインされていた。

私たちを含めた九名の宿泊客は、農鳥親父閣下の差配により男性チームと女性チームに分けられ、それぞれひとつのチャブ台をあてがわれた。もちろん「席が狭い」とか何とか、小さな不満すら漏らす者は一人もいなかった。当然だろう?


まぁ、とは言っても私たちが自由に身動きできる状態でなかったことは覆しようのない事実だったので、たまたま鍋(ライス用と味噌汁用)の近くの席をあてがわれた理解ある宿泊客が、自発的にみんなの夕食を器に盛って配膳する羽目になった。


ところで「農鳥小屋」では食事中も全員が農鳥親父閣下の厳重なる監視下におかれ、私語になんて興じようものなら閣下から「黙って食え!」とか何とか、きついお叱りを受けるという情報があったが、少なくとも私が泊まったその日に限っては、そんなことはなかった。

まぁその日、閣下は私たちの食事中、常に私たちに張り付いていられるほど暇ではなかったのだろうが、たまに姿を見せては、明日の気象予報に関する有益な情報を私たちにもたらしたり、その日のごった煮定食や味噌汁の具について宿泊客たちとの質疑応答に興じたり、(私はよく聞き取れなかったが)何かの冗談を口にして宿泊客たちを笑わせたりもした。


もちろんその日、私たちに供された「農鳥オヤジ定食」に対して、その場で消極的な評価を表明した宿泊客なんて一人もいなかったが、それは農鳥親父閣下のご威光の元に振りかざされる言葉の暴力を恐れた哀れな被害者たちが口をつぐんでいたからではないだろう。

実際、私と同席した男性客全員が「農鳥オヤジ」特製の味噌汁を絶賛した。色んな小屋を渡り歩いてきたと言うベテランのハイカー氏曰く、ほかの小屋で出される味噌汁とは具のクオリティがまるで違うらしかった。

一人のハイカーが、私が味噌汁を口にしないうちに味噌汁を啜るや否や、「このナメコは美味しいですね!」と「農鳥オヤジ」に声をかけると、「農鳥オヤジ」は、そのナメコはオヤジが自分で栽培して収穫したものを業者に卸して缶詰にさせたものだ、と解説した。


私はやはり「ごった煮」の方が気になっていたのだが、私の好物のフキが惜しみなく投入された「ごった煮」は、私が下界で想像していた以上に私を満足させる一品だった。


農鳥小屋名物「キノコと山菜のごった煮」。





食事を終えた私たちは全員が宿泊棟に戻ったが、その後、宿泊棟に灯りがつけられることはなく、一八〇〇時には宿泊棟の空間は漆黒の闇に包まれ、必然的に全員がその時刻には眠りについた。夜中に私は一度だけ小便のために棟を抜け出したが、夜空に瞬く無数の星屑と、遠くに見える甲府の町の夜景の美しさに思わず息を飲んだ。

まぁ、夜の稜線はあまりにも寒すぎて用を済ませた私は飛ぶように寝床に戻ったが・・・。


翌朝、〇四三〇時には例によってガラリと引き戸を開けて宿泊棟に登場した「農鳥オヤジ」が、二〇分後には朝食だ、と告げたので、またぞろその場にいた全員がボーイスカウト顔負けの迅速さで寝具を片付け、朝食後にはすぐに行動を開始できるように出発の準備を始めた。


朝食時、「食堂」に顔を出した「農鳥オヤジ」は天気予報が外れた、と言い、その日、少なくとも午前中は天候が荒れることはないだろう、と言った。だからそこにいる全員が安全に下山できるだろう、と。

オヤジはそこで「よかったなぁ」と何度も言ったし、食事を終えるなりいち早く宿泊棟に戻ってストーブに両手をかざしながらブルブル震えている私にも話しかけて来て、当然、私たちが奈良田に下山する計画であることを覚えていたうえで「あんたたちが上(稜線)にいる間は天気はもつよ」と予言をして見せたついでに「よかった、よかった」と繰り返し言った。


その後も「農鳥オヤジ」は、まだ出発しないでいる客と顔を合わせる度に「よかった、よかった」と言って回っているようだった。それはもうしつこい位に。

たしかに「農鳥オヤジ」のような、一部の人々に言わせれば「客を客とも思わない」ような小屋主というのは、もう時代遅れであまり見かけることもないような存在なんだろう。だが一方で、気象情報ひとつで登山客の身の安全を確信するなり、まるで自分のことのようにあれだけ無邪気に喜んでくれる小屋主が彼のほかに一人でもいるだろうか。


「農鳥オヤジ」が私たちを捕まえて、私たちに登山の心得に関する覚えきれないほどのあれこれを言い聞かせていたときに、ふと「農鳥オヤジ」が口にした言葉がある。「オレは商売人じゃねぇんだ。山小屋の主人だ」「山小屋の主人には客に嫌われたって言わなきゃならないことがあるんだ」


「パワハラ」なんて言葉が浸透してマネージャーが部下に対する指導法のひとつひとつにまで注文をつけられる昨今、叱られ慣れてない若者が増えていることは想像に難くない。一方で年を食った人々のなかには、ただそれだけで自分が叱る側の人間でこそあれ、叱られる側の人間ではないといった 思い込みをしているようなのも少なくないだろう。

その手の連中に、いざ自分が「叱られる」側の立場に立たされたときに自分を叱ってくれる側の意図やその背景を正しく理解するだけの能力や器量を期待できるだろうか?まぁ多くの場合、答えはノーだろう。そんな彼らが「農鳥オヤジ」に対して単純に良からぬ印象を抱くのもまた仕方のないことなんだろう。


私にはそういう連中のことを悪く言う筋合いもない代わりに、その必要もない。彼らに「農鳥オヤジ」の真意が伝わらなくて、結果的に彼らのうちの何人かが実際に「川を渡るときに」後悔する羽目になったとしても、そいつは全て身の程をわきまえない哀れな人間の「自己責任」だ。私の知ったことではない。

だが「農鳥オヤジ」はおそらく違う。どんなに人々に煙たがられても、彼には彼の仕切るあの稜線を通りがかる全てのハイカーに伝えたいことがあるのに違いない。事務的に、ではなく彼なりの真剣なやり方で、そいつを伝え続けることで、例えその代償としてオヤジの「商売」に差し障りが生じるような結果になったとしても。


夜も明けないうちに出発準備を整えた私は、最後に一人で「農鳥オヤジ」の作業小屋に挨拶に向かった。いかに「農鳥オヤジ」と言えども一〇月の稜線の夜明け前の寒さは身にこたえると見えて、彼は自分の小屋でストーブにかじりついていた。

私は出発する旨と、それから「農鳥オヤジ」と共有した短い時間のうちに私がオヤジから被った数々の恩恵に対する感謝の気持ちを述べた。「農鳥オヤジ」はわざわざ私を見送るために小屋の入口まで出て来て「気をつけて行けよ」と言った。


私が最後に「いつまでもお元気で」と言うと、彼は「オレはいつでも元気だ」「憎まれっ子何とかって言うだろう?」などと減らず口を叩いたので、私は親愛の情をこめて「農鳥オヤジ」をからかった。「だったらあと五〇年はこの小屋を続けてもらわないと!」

「農鳥オヤジ」はイタズラっ子、と言うよりまさにイタズラ爺ぃそのものの表情を見せて「へっへっへ」とだけ笑った。そして最後の最後に「貴様!オレを年寄りだと思ってバカにしてるのか!?」などと私を怒鳴りつける代わりにこう言った。「いろいろ話を聞いてくれてありがとうな」

何て畏れ多いことだ!!私はその場でさらに時間をかけて「農鳥オヤジ」に感謝の思いを伝えなければならなかった。


「農鳥オヤジ」に別れを告げて出発した私たちは、無事にその日のうちに奈良田まで下山して白峰三山の縦走計画を成功させた。次の日、自宅でインターネットを徘徊していた私は、私たちが下山したその日の夜に、あのオヤジの仕切る稜線が猛吹雪に見舞われたことを知った。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。







October 10, 2015


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

トミーと示し合わせて二泊行程で白峰三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)縦走へ。


もともとは剣岳を予定していたが、既に一〇月初旬には岩場が凍結したとかいう情報が流れたうえに、予報では行程を組んだ三日とも強風に見舞われそうだった。北岳周辺も行程の最終日は天気が悪い、という予報だったが、一日目と二日目で十分楽しめれば三日目は下山するだけだ。


そんなわけで初日は奈良田の駐車場に車を置いてバスで広河原へと向かい、肩の小屋まで登って一泊、二日目は三山を一気に踏破して大門沢小屋に宿泊し、最終日に奈良田に下山、という完璧なプランを立てた私だったが、自宅のパソコンをインターネットに接続して調べてみると、事もあろうに大門沢小屋のヒゲで有名な例の小屋主が屋根から落ちたとかで今年は早々に小屋じまいしてしまったらしい。何てこった。


こうなると、二日目は稜線上の農鳥小屋泊まりにせざるをえないのだが、悪天候の見込まれる三日目の行動時間が長くなること以前に、この小屋にはいろいろと問題がありそうで私は頭を悩ませた。とは言え他に選択肢はない。まぁそのあたりはおいおい触れていくことにしよう。


前日まで毎日のように天気予報をチェックしていた私は、ころころ変わる予報に翻弄されながら、最終的に計画実行の前日夕方に剣岳プランを破棄して白峰三山をチョイスし、トミーにEメールを送信した。トミーは当日〇三二〇時には私の自宅の前にご自慢のアウディで駆けつけた。

ハイウェイのドライブ担当は例によって私だ。最初に現れたサービスエリアで運転を替わっていつものようにカーナビの現地到着予想時刻を小一時間ほど前倒ししてからハイウェイを下り、トミーと運転を替わる。

奈良田から広河原へと向かう一日にたった二本しか運行されない貴重な便のうち朝に走る方の発車時刻は〇八〇五時だ。私は〇七三〇時に起こしてくれ、とトミーに依頼してからアウディの助手席で深い眠りに落ちた。


トミーが私を叩き起こしたときには既にトミーはドライブを終えていた。広河原では携帯電話がつながらないらしいので、早速、私は自分の携帯電話を取り出して念のために予約を入れておいた剣澤小屋と剣御前小屋に平謝りしながらキャンセルの連絡を入れ、続けて肩の小屋と農鳥小屋に予約の連絡を入れたのだが、農鳥小屋の方は電話を鳴らしても誰も出なかった。

まぁいろんな情報を総合的に勘案する限り、登山客も少なくなる一〇月の平日にいきなり満室になるようなポピュラーな小屋でもないだろう。バスが発車時刻の一〇分前には到着したので、私は携帯電話の電源を切った。


ところで始発停留所となる「奈良田」バス停にほど近い「第一駐車場」と呼ばれる二〇台ほど止められそうな県道沿いの駐車場にトミーはアウディをとめたが、もう少し先にある数百台はとめられそうな「第二駐車場」にとめた方が下山して来たときに楽をできることに気付いたのは、それから五〇時間以上経ってからのことだ。ご丁寧なことに、そっちの駐車場にもちゃんとバス停はある。


私たちを広河原へと送り届けてくれたローカルバス。





運転手は一日二回だけ働けばいいのか、とても気になるところだ。


既に五組ほどのハイカーが思い思いの席に座って発車を待ちわびているバスに乗り込むと、前方のドアに最も近い席に座っていた初老の男が料金を徴収に来た。


安からぬ額の運賃にくわえて、よく分からない「協力金」まで徴収された証拠の「領収書」。





税務上うしろめたいことでもあるのか、「領収書」はバスを降りる前に乗車券共々没収された。


「広河原インフォメーションセンター」には〇八五五時に到着。建物の便所で小便だけ済ませて早速行動開始だ。





〇九〇五時、スタート地点の吊り橋(広河原橋)。





広河原山荘の前を素通りして一〇分も登らないうちに私もトミーも汗だくになってしまったので、上着を一枚脱ぐために登山道わきの小広場に荷物を下ろしたとき、キャップの上に乗っけてあったサングラスがない事に気付く。

たしか山荘の前で一度そいつがキャップの上に間違いなく存在しているのを確認した覚えがある。仮にも Gatorz Magnum だ。なくしちまったぜ、で済む話ではない!


慈悲深いトミーは、私がそいつを見つけるために山荘まで舞い戻って多少の時間を無駄にしてしまうことを快く許可してくれたのだが、私がまさに捜索に着手するために走り出そうとしたそのとき、私は「あんたのだろ?」と言わんばかりにこっちに見えるように私の Gatorz を片手に持ってヒラヒラさせながら登って来るソロのハイカーを発見した。うへー、何て気の効く素敵なハイカーなんだ!!


私は丁重に礼を述べてその最上級の尊敬の念に値するハイカー氏から私の Gatorz を受け取った。その後、そのハイカー氏は何度も私たちと抜きつ抜かれつを繰り返すことになるが、私たちは以後そのハイカー氏を「メガネの恩人」と呼んだ。


〇九二五時、白根御池小屋に向かうルートへの分岐点に到着。初日の昼食としてトミーがそこで振舞われる名物カレーを強硬に主張したので、御池小屋行きのルートをとる。


一部加筆された案内板。





くだらんことをするやつがいるもんだ、と私は心ないハイカーのいたずらに心を痛めながら急な樹林帯を登って行ったが、実際のところ落書き犯の情報の方が実態を正しく反映していた。


一一一〇時には白根御池小屋に到着。





トミー推薦の名物カレー(八〇〇円)。





私たちの注文を受けてから暫くたって小屋の外にあるテーブルまでカレーを運んで来てくれた気持ちのいい接客をする若者に、草すべりと右俣ではどっちが眺めがいいのか尋ねてみると、その場では、どちらのコースもそう変わらないような事を言っていたが、暫くして若者は再び私たちの元にやって来て「右俣コース」がお勧めです、と教えてくれた。たぶん小屋で働く詳しい先輩にでも聞いて回ってくれたんだろう。


一一五五時に小屋前の広場を出発。若者のチョイスに従って、まずは「大樺沢二俣」を目指す。


右俣コースを辿るためには「大樺沢二俣」を経由しなければならない。小屋からそこへと至る道のりは殆ど高度差のないトラバースで、さほど消耗を強いられるものではなかったが、「草すべり」コースに比べればやや遠回りになってしまうことは否めない。

そういった理由で、そのルートを辿るハイカーがあまりいなかったとしてもおかしな事ではないだろう。私には、そのルートは御池小屋までのルートに比べて若干荒れ気味のように思われた。


一二二〇時、「大樺沢二俣」に到着。





そこから稜線(小太郎尾根分岐)まで六〇〇米の登りが始まる。


はるか遠くに見える稜線を見上げる。





私はそうでもなかったのだが、トミーはその登りがこたえたのかペースが一向に上がらない。私が先に登ってはトミーの姿が見えなくなった頃に荷物を下ろしてトミーを待つ、といったことを繰り返しながら、一四四〇時に小太郎尾根分岐に到着。





叩きつけるように吹き付ける稜線上の風に凍えながら眼前に広がる絶景を堪能する。


甲斐駒。





鳳凰三山





一五二〇時に小太郎尾根分岐を出発して肩の小屋に着いたのは一五五〇時。





平日にも関わらず、例の「メガネの恩人」も含めて四〇人は泊まっていたのではないか。さすがは日本第二の高峰だけあってその集客力は侮れない。


お楽しみの夕食。





食後に夕焼け。





標高三〇〇〇米地点に佇む由緒ある山小屋で高山病の症状を思わせる頭の血管を流れる血がドロドロしているような例の感覚を味わいながら、二〇〇〇時には就寝。

かつては「そんな早くに眠れるわけないだろう」と山小屋の消灯時刻には心底ムカついていたが、もう慣れたもんだ。


翌朝、朝食前の幻想的な一コマ。





よほどお疲れなうえにアイマスクと耳栓で完璧なガードを施して就寝していたトミーは、彼の大好きな朝焼けの写真を撮るために早起きするどころか、スタッフが寝床近くまで朝食の案内にやって来てもピクリとも動かなかった。


朝食。





ちなみにご来光は朝食後でも十分間に合った。





農鳥小屋の便所でクソをする羽目になる事態だけは可能な限り避けたい私は翌朝の分まで済ませてしまえるように気合を入れて便所へ。

いざ、その姿勢に就いて一斉放出を試みた私のケツからはバットレスをも崩壊させんばかりの巨大な屁が一発出て来ただけだった。その音色は稜線の強風に煽られてはるか甲府の街まで届いたことだろう。


出発前に小屋の前で記念撮影。





〇六五〇時に行動を開始する。


肩の小屋から山頂までは、まぁありきたりな岩稜歩きだった。途中、偽ピークへと続く踏み跡に騙されたのには少々ムカついたが・・・。


〇七四〇時、山頂に到着。





申し分ない青空の下に広がる絶景に思わずニヤリとしてしまう。





記念撮影。





山頂には私たちのほかに常時三、四人のハイカーたちが入れ替わりで滞在していた。ある老ハイカーの二人組に捕まったトミーは彼らとの雑談のために身柄を拘束されていて気付いてなかったが、私は見覚えのある男が山頂に現れたのを見つけて思わず声をかけた。「おいおい、見覚えのある顔が現れたぜ?」

前日、私たちが白根御池小屋でカレーを注文した例の若者だった。もちろん彼も私のことを覚えていて、挨拶もそこそこに、私たちが前日、彼の進言通りちゃんと「右俣コース」を登ったのかどうかを私に問いただした。

私が、もちろんだとも、と答えて、素晴らしい選択肢を提示してくれたことに対する礼を述べてから、お互い絶好のハイキング日和に恵まれたことの喜びを分かち合おうとすると、若者は「実は山頂には初めて来たんです」と言ったので、私は少しばかり驚いた。山小屋で働いてるのにまだ一度も山頂に来たことがなかったのか?


それから若者は、山小屋で働くことの大変さや山小屋の裏話、実は登山経験は一年にも満たないのに不意に思い立って山小屋に「就職」したこと、今後の彼の人生計画、そして彼がどれだけ山が好きなのか、といったことを私に話してくれた。

思えば私もこれまで何軒もの山小屋を訪ねて来たが、そこで働く人々と人生について語り合ったことなんてなかったな、なんてことを考えながら、私は若者に別れを告げて、老人たちに解放されたトミー共々、〇八一〇時に山頂を後にした。


山頂からは赤い屋根が農鳥小屋と紛らわしい北岳山荘へと下る。眼前に広がる間ノ岳へと続く雄大な稜線を眺めながらのハイキングは、稜線好きのトミーでなくても至福を感じるひとときだ。





〇九〇五時に北岳山荘に到着。カフェを営業していると聞いていたので当然寄り道して行こう、という話になり、トミーが山荘の入口に向かったが施錠されていて開かないと言う。

まぁ夕べの宿泊客はみんなとっくに出発していなくなったろうし、カフェをやるには時間も中途半端だしな、と言うことで、ベンチ代わりに置かれていると思しき入口正面の材木に腰かけて休憩していると、不意に山荘の引き戸がガラリと開いて中から人が出て来た。

トミーは引き戸を押したり引いたりして開けようとしていたらしい・・・。


こっそり入口の様子を窺いに行った私は、受付が無人で、入口から見える場所にカフェらしきものが存在しないことを確認してベンチに戻った。コーヒーが飲めるならそれに越したことはないが、わざわざ靴を脱いでまで飲みたいってほどじゃない。代わりに入口すぐ横の水場で肩の小屋で調達し忘れた昼食の調理で使うための水を失敬する。


〇九三〇時に出発。次に目指すのは中白峰山だ。


稜線左手には相変わらず富士。





中白峰への登り。気分はまるで天空への階段を一歩一歩昇るかのようだ。





一〇一〇時、山頂に到着。





トミーは相変わらずのんびり歩いてるので、私は風よけにちょうどいいハイマツ帯に身を隠して仮眠しながらトミーの到着を待つ。そしてようやく辿り着いたトミーにも当然、一定の休憩時間が与えられなければならない。結局そこを出発したのは一〇二五時だった。


次のピークは日本第三の高峰、間ノ岳だ。一一四〇時に山頂に到着。





行動時間には「トミーを待つ」分の時間が含まれるので、あくまで私の、ではなくトミーのコースタイムということになるが、まぁ何にせよ結構時間がかかっちまった。

肩の小屋から間ノ岳まで、手持ちのガイドブックに記載されていた標準所要時間は三.五時間ほどだったので、昼食は山頂からさらに一時間ほど下った先の農鳥小屋でとろうかと思っていたが、いつものように私たちの計画は柔軟に変更され、間ノ岳で昼食に。


トミーは肩の小屋で手に入れた弁当を広げる。私はもちろんいつものやつ。





完成。





山頂にはほかに二組のハイカーがいて、そのうち一方は私が北岳の山頂で記念撮影に手を貸した、その立居振舞いが何ともしなやかな初老のソロ・ハイカーだった。

しなやかなハイカー氏は私たちと全く同じ行程で今回の白峰三山縦走を計画していて、初日は肩の小屋に宿泊、二日目は農鳥小屋に宿泊して実際に私たちと同じチャブ台を囲んで食事を共にしたし、三日目も奈良田に下山するまでに何度も再開した。

常に私たちよりも先に行動を開始するしなやかなハイカー氏は、そのときも私たちが昼食に舌鼓を打っている間に私たちに先んじて農鳥小屋の方へと山を下りて行った。


間ノ岳の山頂は広々としているうえに風避けにちょうどいい岩場が点在している。雲ひとつない秋空から降り注ぐ陽光はポカポカと暖かくて、風さえ避けることが出来ればそこはこの世の極楽そのものだ。私たちは食事が終わると当たり前のように、適切な岩場の陰に無防備に寝転んで昼寝した。


まぁ、そんなことをしていたので間ノ岳を下り始めたのが一三一〇時、農鳥小屋に辿り着いたのは一三五五時。そこから大門沢小屋まで優に四、五時間はかかるだろうから、結果論としては、大門沢小屋の小屋主が屋根から落ちてくれたことは私たちにとって非常にラッキーな出来事だったってわけだ。

小屋主は災難だったが、まぁ山での事故はすべて「自己責任」だからな。


さて、私たちが農鳥小屋で経験した数々の出来事はあまりに刺激的で、私たちはそこで本当に思い出深いひとときを過ごした。それらについての回想は日を改めることにしよう。

最終的に私たちは小屋主の強い意向により、翌朝、まだ日も登りきらない〇五一〇時には追い出されるようにそこを後にした。


まずは農鳥小屋のすぐ南側に鎮座する西農鳥岳の山頂を目指す。


そこそこ急な岩肌の斜面につけられた道を登っている最中に、トミーが「あと五分で日の出です!」と言うので、足場が安定するうえに強風をやり過ごせるような然るべき岩陰を見つけ、荷物を下ろして待機する。

太陽が東の地平線上にかかった雲の上から顔を出すのを今か今かと待っている私たちのわきを、例のしなやかなハイカー氏が私たちに一声かけて軽やかな足取りで抜き去って行った。


そしてついに迎えたご来光。





天気予報をすっかり真に受けて諦めてたってのに、まさか二日続けてご来光を拝むことが出来るとは思ってもみなかった。


振り返ると朝焼けの光を浴びてオレンジ色に染まる間ノ岳。





〇六〇五時、西農鳥岳山頂に到着。





五分ほど滞在していよいよ最後のピーク、農鳥岳を目指して出発する。

それにしても早朝、気温の上がりきらないうちから吹き付ける風の辛さが半端ない。所詮、南アルプスだ、と舐めてかかって目出し帽を持参し忘れたことを私は猛烈に後悔した。


〇六五五時、ついに農鳥岳山頂に到着。





ところで、そこから振り返っても農鳥小屋は見えない。間ノ岳は例の百選に含まれてるが農鳥岳は漏れてる。つまり世間一般では間ノ岳よりワンランク下の扱いだ。間ノ岳からだとよく見えて、おまけに距離的にも間ノ岳の方が近いってのに、何だって名前があえて「農鳥小屋」なんだ?


山頂では例のしなやかなハイカー氏が岩場に腰かけて、そこから見える富士山に見入っていた。ほかには誰もいない。

しなやかなハイカー氏は私たちに気付くと軽く会釈をして、それから山頂を独占していた時間を振り返って満足そうに「ゆっくり出来た」と言い、そして私たちに気を遣ったわけでもないんだろうが、そのまま手早く身支度を整えると山を下って行った。私たちも荷物を下ろし、今や私たちが独占する山頂からの展望を心行くまで堪能することにした。


最後の記念撮影。





三○分もそこにいただろうか。そろそろそこから見える富士山にも飽きて来た私はトミーをそれとなく促して、名残惜しい農鳥岳山頂を後にすることにした。


さて、そこからはいよいよ標高差二二〇〇米の下りだ。去年、奥穂高から新穂高温泉まで一気に下山したときの標高差が一八〇〇米だから、その上を行くってわけだ。

いつだったか、一日で雲取山から奥多摩駅まで歩いたときの累積標高差がたしか二四〇〇米だったが、あのときは本当に最後はフラフラになって、二度とこんなふざけたハイキングやるものか!と心に誓った記憶がある。今回はあれに負けず劣らずタフな戦いになる覚悟を決めなければならない。


まずは山頂からも黄色い鉄塔がはっきりと視認できる大門沢下降点を目指す。農鳥小屋の小屋主がつけたと思われるとても分かりやすいペンキ印をたどって三〇分ほどで到着。


その鉄塔がそこに立てられた経緯を知るハイカーは、誰しも様々な思いを胸に静かに鐘を鳴らさずにはいられないだろう。





しなやかなハイカー氏はそこでも私たちが彼の一人きりの時間を邪魔しに現れるまで腰を下ろしてのんびりと休憩していた。しなやか氏は私たちが農鳥岳から下って来る様子を観察していたらしく、何かの草の実は美味かったろう?と聞いてきたのだが、私は全く身に覚えがなくてかぶりを振った。

聞けばしなやか氏は学生の頃から何十年も山に通い詰めている超がつくほどのベテランハイカーで、彼の豊富な知識に基づいた大変ためになる説明によると、私たちが下って来た山道沿いには、それはそれは美味しい何かのベリーの実がところどころになっていて、私がそんなこととも知らずにちょうどベリーがなっているあたりでカメラを構えていたので、私がそのベリーをつまみ食いがてら写真でも撮ってるんだろう、と思ったようだった。


おまけにしなやか氏は数か月前に脚をケガしてしまい、そのリハビリがてら今回の縦走を「楽しんで」いるらしい。農鳥小屋では一日で広河原から、あるいは奈良田からそこまで一気に登り詰めてしまうような、私に言わせれば全く信じられないような計画を実行する強者ハイカーだらけだったが、 しなやか氏もその一人だったってわけだ!

要するにこの縦走路を歩いていて私たちが他のハイカーにちっとも出会わないのは、私たちがあまりにのろま過ぎて、そこを歩いている他のハイカーたちに追いつきようがないからで、唯一出会ったしなやか氏も本調子だったら私たちとの接点など持たずに風のように山を下りて行ってしまっていたことだろう。


私もトミーも稜線から見る最後の景色を瞼に焼き付けてから、先に下山したしなやか氏の跡を追うように〇八一〇時に「下降点」を後にする。


ハイマツ帯を走るザレ道を延々と下る。





途中、たしか既に一〇時を優に過ぎていた頃だったと思うが、薄暗い樹林帯に入ったあたりで白いヘルメットをかぶった細身のハイカーが一人、汗だくになりながら苦悶の表情を浮かべつつ登って来るのに出くわした。何時に奈良田を出発したのかは知らないが、どういう行程で歩いているのか気になって、農鳥小屋に泊まるのか、と尋ねてみると、その白ヘルのハイカーは、農鳥岳まで日帰りでピストンするつもりだ、と言うので私はぶったまげた!

こんなところにも命知らずの凄腕ハイカーが一人いたじゃないか!!いったい全体、何だってこのコースには、こうまで切れ者ハイカーばかり吸い寄せられるように集まって来るって言うんだ!?


全く信じられない、本当にそんなことが可能なのか?なんてことをトミーと語らいつつ、もちろん退屈なうえに限りない消耗戦を強いられる下り道に対して不満を漏らし、ときには罵り声をあげながら歩いているうちに大門沢小屋に到着(一〇五〇時)。





そこでもしなやか氏はのんびり休憩していて、下から登って来た三人組の若手ハイカーたちと談笑していた。彼らは大き目の荷物を背負っていたのでテント泊まりでもするつもりなんだろう。


小屋は既に閉められてはいるが避難小屋として開放されているらしく、中に入れるようだった。入口前のちょっとした小広場の一画に、営業中は飲み物を冷やすために使われていると思しき設備に沢水が引かれているのを目ざとく見つけた私は、その飲んでも腹を壊さない保証のない水を調理用に確保して昼飯作りに取りかかる。





完成。





しなやか氏と三人組のほかには、「山ガール」と呼ぶには少々年季の入った一人の婦人ハイカーが沢の方からフラリと現れ、私と同じように水を確保してから登りルートの方へと消えて行った。

もし農鳥小屋に泊まるつもりでいるなら(いろんな意味で)時間が足りな過ぎる。かと言ってテント泊の装備には見えない。あの婦人はいったいどんな旅程を組んでたって言うんだ?私とトミーはあれこれシュミレーションをしてみたが、結局、何ひとつ目ぼしい答えを見出すことはできなかった。


一一三〇時に大門沢小屋を出発。


下りの行程は思いのほか暑くて、携行している水分がみるみる減って行く。そんなとき登山道沿いに何度も現れる沢は実にありがたかった。私は沢を見つけるたびに手袋を外して顔を洗い、手ですくった水を頭からもかぶり、そしてもちろんそいつを心行くまでガブガブ飲んだ。用心深いトミーは私がいくら薦めても決してそいつを口にしようとはしなかったし、タオルがない、という理由で手すら洗おうともしなかった。


そして何本も現れる悪名高い手造りの橋。





ロープさえあればオーケー。





ロープがないやつは信用できない。橋を手すりにして石づたいに向こう岸へ。





一三一五時、ようやく一本目の吊り橋。





発電所の取水口。





こういうのはちょっとムカつく。





迂回路。ハイキングの気分は台無し。





そのまま登山口までその風情もクソもない道を歩かされるのかと思っていたが、途中で登山道に復帰する。


一三三五時、二本目の吊り橋。





そこから五分で林道に合流する。





トミーと二人で舗装された林道をちんたら歩いていると前方にしなやか氏が歩いているのが見えた。標高差二〇〇〇米を超える長い長い行程のなか、初めて私たちがまさにしなやか氏に追いつこうとしたその時、しなやか氏は振り返って私たちに気づくと、にこやかに話しかけて来た。

いつもなら退屈な林道歩きになるところだが、私たちはしなやか氏との主にお互いの登山歴にまつわるいろんな話に花を咲かせてのんびり歩いた。


途中、何とかって画家の個展を見に行くと言うしなやか氏と分かれた私たちは、一四五〇時、ようやく奈良田の(第一)駐車場に到着した。そこをバスで出発してから実に五五時間後の事だった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




October 3, 2015


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

トミーに誘われて土浦の花火大会へ。


トミーの友人男女三名が一〇〇〇時から有料の桟敷席のすぐ近くのスペースを占領して、私たちの分も含めて一四、五名分の観覧場所を確保してくれているらしい。なんて素敵な友人に恵まれてるんだ、トミー!


トミーは会場周辺の混雑をうまくやり過ごす方法も検討済みで、四マイルほど離れた公園の駐車場にアウディをとめて、そこから自転車で現地に向かうと言う。アウディの荷物スペースに積めるような自転車なんて持ち合わせてない私のために、トミーは別の友人から折り畳み式のやつを一台借りて来た。


(ほぼトミーによって)組立完了。





結構、年代物のようだが決して具合は悪くない。ただトミーは自前の最新式に乗っているので、私はどうしてもひぃひぃ言いながら涼しげに快走するトミーの背中を必死になって追いかけることになる。

そして先導するトミーのルート選択のセンスは最悪で(と言うよりも弱者への配慮が足りないので)、わざわざ急な登り坂や段差の激しい道を先導していった挙句に道を間違えて軽く二マイル弱は遠回りさせられたのにはここだけの話、ムカついた。


現地に近づくにつれて車は渋滞し、おまけに歩道からあぶれた人の群れが車道にはみ出して歩くようになるので、小回りのきく自転車であっても、車道の左側を一列で、なんてまともなコース取りではちっとも前に進めなくなる。

コンプライアンスに厳しいトミーには申し訳なく思いながら、それとなく先頭に躍り出た私は、そういった場合に「たぶん」常識的に許される範囲でもっとも現地に早く着けるルートをその場で判断し、仕事熱心な警察官がその辺にいないことを祈りつつ無言で巧みにハンドルを操り自転車を走らせた。


桜川にかかる土浦橋を渡って左に折れたあたりで自転車から降りて、堤防上の屋台が並ぶ小道を有志の面々が占拠した観覧スペースへと歩いて向かう(結果論から言えば、学園大橋側からアクセスした方が全然近かった)。

有料の桟敷席が設置される河川敷から続く堤防の斜面は既に「ただ見」の客でぎっしり埋まっていて、屋台前の道もどうしようもなく混雑していて遅々として進まない。適当なところで混雑から無理矢理抜け出して堤防の外側に自転車を置いてから再度クソのような堤防上の道へと復帰し、たまたま通りがかった屋台で六〇〇円のお好み焼きを入手して、さらに人の流れに合わせてちんたら歩いているうちに、ようやくトミーは素敵な友人たちを堤防の斜面に発見した。


既に集合していたトミーの友人たちの中には初めてみる顔もいたし、もう何度も会ったことのある気心の知れた連中もいた。ひとまず私は、観覧席を朝から確保してくれた偉大なる功労者三名に感謝の気持ちを伝えながら、個人的に持参した「チオビタ」を差し入れる。

斜面は結構な角度で、適切な姿勢を維持しないとずるずる下へと滑ってしまう。だが仰向けに寝転ぶ形で一度姿勢が安定してしまえば、間近で打ち上げられる豪快な花火を、その度にいちいち見上げたりすることなく真正面に見ながら堪能できるって寸法だ。


私(とトミー)がついさっき屋台で入手したばかりの大して美味くもないお好み焼に文句を言いながら、そいつを掻き込んでるうちに大会はスタートした。


まさに私たちの目の前で豪快に炸裂する迫力の大玉(一〇号玉)。





少し離れた北側(右手)のポイントからも打ち上げられる。





圧巻だったのは中盤に展開された「ワイドスターマイン」。惜しみなく何十発も連続して打ち上げられる大物たちが夜空を彩る。





うへー。





ひゃー。





いや、もうマジですげー。





あまりに「ワイドスターマイン」が素晴らしすぎて、後半戦はいまいち盛り上がらなかったような気がしないでもない。





帰りは道に迷うこともなく、ピクリとも動かない渋滞する車の間をすり抜けてスイスイとアウディの元に帰還。同じころ、駅でもとんでもない混雑が発生していたらしい。(多少の道迷いには目を瞑るとして)トミーのプランは実に適確で素晴らしいものだった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



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