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August 29, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

今日で盛岡ともおさらばだ。最後に「あきを。」でじゃじゃ麺。

大通り(ストリートの名前)に面した店のガラス戸というガラス戸は全て開け放たれていてクーラーが全く効いてない。間違っても夏には訪問したくない店だ。

食券を先に買って店員に渡すと何故かちょうど「六分」でじゃじゃ麺が提供される。事前にインターネットで仕入れた情報のとおりだ。





それから二分はかけて徹底的に混ぜる。





そのまま口に入れるが、やはり何か物足りない。

カウンターにはラー油や紅生姜に加えて黒味噌も置いてある。ほう、白龍(パイロン)にはなかったな。

私は自分のじゃじゃ麺に黒味噌をたっぷり加えてみてから味見をした。その瞬間に私は自分の判断が最も正しかった事を認識した。ワオ!こいつは美味いじゃないか!!


私は二度目のチャレンジで早くもじゃじゃ麺の奥義を見極めた気がした。結局じゃじゃ麺は黒味噌が命という事だ。この舌触りとこの味が両立するならば、たしかにこいつは何度食っても飽きない「ご当地グルメ」に違いない!


〆はもちろん「チータンタン」。こいつも二度目だ。もう勝手は心得てる。





私は満足して店を出た。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/盛岡じゃじゃ麺 あきを。]


ところで盛岡の街を歩いている女性(老人を除く)は私好みの女性が実に多い。ざっと五人に三人は私好みだ、とまで言ってもいい。

みなそれほど垢抜けてこそいないものの、スラリとした健康的なプロポーションをしていて、さらに身体が健康的であるから心も健康的であるのか、歩く姿には全く女性らしい気品が満ち溢れている。私は既に全国の主要な都市は一通り訪問したつもりでいるが、ここまで街を行く女性たちに目を奪われ続けた記憶がない。

なぜ私はそのように感じるのか。二日前、白龍(パイロン)の帰りにふらりと立ち寄った「もりおか歴史文化館」で盛岡の歴史をおさらいしていた時に私にはその謎が解けた。

近世以来、盛岡では飢饉が頻発し、度々農民の反乱が起きている。つまり飢饉が頻発した結果、その時代を通じて無駄に食っては身体に蓄えるタイプの遺伝子は淘汰されたに違いない。盛岡の街では、過去の歴史を通じて健康的でスタイルのいい遺伝子だけが生き延びたのだ。


私の打ち立てた定説に反発したい者がいれば好きなだけ反発するがいい。どんなに彼らが反発したところで、あるひとつの真理が覆る事はない。

醜い者は何を言っても醜い。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 28, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

この私が盛岡の地を踏んだからには、早池峰山に登らないなんて事はありえない。

手元のガイドブックによれば、河原坊登山口から登って小田越に下るコースなら標準所要時間はわずかに五時間だ。もののついでに、すぐ南にそびえる薬師岳の山頂まで往復して河原坊まで戻る事にしてもせいぜい八時間といったところだ。

私は九時に登山口に到着すれば十分だと考えて、当日八時にレンタカーの予約を入れておいた。


定刻通りに車を借り受け盛岡市内を出発した私は、カーナビに「早池峰山」と打ち込み、指示されたルートに従って車を走らせた。カーナビ曰く、到着予定時刻は九時半とある。あれ?結構時間がかかるんだな。まぁ三〇分くらいどうって事ないさ。

途中、カーナビにインプットされてない新道との分岐に差し掛かった。カーナビは旧道の方に私を誘導しようとしたが、新道の方が車線も多くて走りやすそうだったので、私は迷わず新道へとハンドルを切った。

まもなく早池峰山の登山口へは道なりに行けという標識が立っていたので、私はカーナビの案内を無視して新道をひたすら走った。どうもおかしいな、と気づいたのは、私の行く国道が何かの線路沿いに走っている事に気づいたときだった。


車を止めて、トランクのバックパックからガイドブックを引っ張り出して来て地図を確認した私は、事態を掌握した瞬間に誰でもいいから殴りたい衝動に駆られた。

たしかにこの道は早池峰山の登山口を目指してはいるが、私が向かうべき河原坊とは全く反対側の門馬の登山口じゃないか!


門馬の登山口から山頂までは登りだけでも五時間以上かかる。林道を車で登って握沢まで行ってもそこから山頂まで四時間。林道を車で通行するのにどれほど時間がかかるかは分からない。どちらも選択肢として問題外だ。

私は腹を決めた。早池峰山の北側から東へ大回りして、本来、私が向かうべきだった山の南側、河原坊まで車を走らせる。私は道中、その辺を仕事熱心な警官の乗ったパトカーがうろついてない事を祈りながらクソ狭い田舎道を走った。


河原坊の駐車場にようやく着いた頃には既に一〇時半。起きてしまった事は仕方がない。与えられた条件の中でいかに最善を尽くす事が出来るのかで、そいつの人生の価値は決まる。あっという間に着替えを済ませて便所で放尿を終え、登山口に立ったのが一〇時四五分。





もちろん周囲には誰もいないが、そんなのはいつもの事だ。気にしないで出発だ。


河原坊からの登山コースは、歩き始めこそ一般的な登山道の赴きだが、一五分もしないうちに岩のごろごろ転がるガレ場歩きになる。


暑さに文句をタレながらちんたら歩いて、頭垢離(こうべごおり)には一一時四五分に到着。





この辺りで樹林帯を抜け、振り返ると薬師岳や周囲の山々の見事な展望が目に飛び込んでくる。

ここから山頂まではコース脇にロープの張られたザレ場の急登だ。登って行くうちに既に下山を開始した何組かのハイカーとすれ違う。時刻を考えれば、彼らのやってる事はまともだ。私はちょっと頭がイカれてる。


ふと見上げると、私のはるか前方に、まだ山頂を目指して登っている最中のハイカーが一人いる。「お仲間」の登場だ。

別に「お仲間」がいたところで何も嬉しい事はない。ただ私が前方に聳える早池峰山の写真を撮るときに彼が写り込まないように彼には邪魔にならない所にいて欲しいなんて事を考えながら歩いているうちに、私はあっさり彼に追いついてしまった。

そのハイカーは間近で見ると背筋のすっと伸びた実に紳士的な人物で、声をかけてみると、その物腰はとても柔らかく、私はすぐに好感を持った。

ただ彼の歩いている様子を見ていると、このザレ場の急登を登って行くには少々体力が足りないように思われた。とても残念な事に、好人物であるか否かとハイカーとしての実力の間にはいかなる相関関係も存在しない。


彼と分かれてそんな事を考えながら歩いていると「御座走り」と書かれた標柱に出くわした。何の事か分からないままその標柱を通り過ぎた私は、その先にあるロープの垂らされた岩を見てその意味を理解した。

どちらかと言うとその岩は、下りの目線の方が刺激的なように見える。





一二時三〇分、「打石(ぶつえず)」前を通過。





薬師岳を振り返る。





山頂には一三時一〇分に到着。





手元のガイドブックによれば標準コースタイムは三時間ニ〇分とあるから、それより一時間近く早く着いた事になる。私は下界で犯した数々の判断ミスからこさえた借金を帳消しにした。

山頂では三組ほどのハイカーが寛いでいたが、私が適当な岩に腰掛けてバックパックの中からおにぎりを取り出す頃には皆いなくなってしまった。いい流れじゃないか。いつもの事ながら私は山頂を独り占めする特権を享受してからランチタイムを楽しんだ。


鳥海山でも感じた事だが、東北エリアの山は森林限界が低いので低山でも素晴らしい展望のハイキングを楽しむ事が出来る。おまけに空気も澄んでいる。昼食を終えた私はどちらの方角を見渡しても素敵な景色の広がる山頂で、双眼鏡を覗き込んだり、写真を撮ったり、寝転んだりしながら一時間以上過ごした。

一四時ニ〇分、私は下山を開始した。結局、私が好感を抱いた例の初老のハイカーは最後まで山頂に姿を現すことはなかった。


小田越コースの下山路は、常に正面に薬師岳を見下ろしながらの爽快な下りコースだ。





八合目の先でちょっと長めの梯子を下りようとしたら、まさに今から梯子を上り始めようとしている二人のハイカーがいたので私は少々驚いた。三時近くにもなってまだこんな所をうろついてるなんて、私より頭のおかしな連中だぜ!

彼らは私に気づいて梯子を上るのをやめ、私に先に下りるよう手招きした。私はありがたくそうさせてもらった。彼らのもとまで下りてみると、二人は六〇歳かそこらの夫婦と思しき二人組で、男の方は口を開くと金歯が眩いばかりに輝いた。

少々言葉を交わしてみると、今から山頂まで登って、その後どのコースで下山するのかも決めていないらしい。もちろんそれは彼らの自由なんだが、私は河原坊への下山コースは岩場歩きになるからやめておけ、とやんわり忠告だけしておいた。

彼らに分かれを告げて少し下ってから振り返って彼らが梯子を上っていくさまを見てみると、やはり彼らも、いま彼らが取り組んでいる物事をスマートに終わらせるには少々体力不足のように私は感じた。彼らが山頂に着くのはどんなに早くても三時半を優に過ぎた頃だろう。彼らは日没までに下山できる当てがあるんだろうか?そんな事を考えるよりも早池峰山の山頂に立つ事の方が彼らにとってそんなに大事な事なんだろうか。


途中、御金蔵(おかねぐら)に置いてあったツルハシを使って盗掘屋のマネをしている写真を撮るのに一五分も手間取り(結局、逆光で満足の行く写真を撮る事は出来なかった)、小田越の登山口に着いたのは一六時の事だった。薬師岳の往復計画はもちろんなかった事にして、さらに車道を河原坊まで歩いて駐車場に戻ったのは一六時ニ五分。

車道から見上げた青い空をバックに聳え立つ早池峰山の美しい姿が、最後に私の疲れを癒してくれた。





何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 27, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

「盛楼閣」の冷麺に味をしめた私は、続く盛岡名物「じゃじゃ麺」を賞味すべく「白龍(パイロン)」へ。

行列覚悟で訪問したが、カウンター席がうまい具合に空いていた。朝食をとってから時間が経っておらず、あまり腹が減ってないので(小)をオーダー。





事前に収集した情報のとおり、味噌が均一に麺にからむまで徹底的にかき混ぜる。

ニ分ほどで完成。





いざ、口に入れてみると、うどんとキュウリの舌触りが心地よいハーモニーを奏でるが、トータルな印象として今ひとつパンチが弱い。目の前に並んでいるニンニクやラー油を適宜加えてみてもそれは変わらなかった。

それより店があまりに狭いので、カウンター席に座っていると、ホール担当の婆さんが後ろを通る度に、そのデカいケツが背中にぶつかって私はいらついた。


テーブル席が空いたので、そっちに移動してやろうかと思っていたら、タイミングよくふらりと入って来た一人客にそのテーブルを占領されてしまった。ツいてるやつだな、と思って食事を続けていたら、その客はカウンター席に空きが出来るや否や、誰に言われるでもなくそっちに移った。

随分とマナーのいい客がいるもんだ、と私は感心しながら他の客を観察していると、他の客も妙に店員に対する態度が礼儀正しかったり、どうも客の方が店に気を遣っているような雰囲気を感じる。


別に店や店員に敬意を払うこと自体は全く悪い事じゃない。ただそいつが「じゃじゃ麺発祥の店」というブランドを前にした時に限られた態度なんだったら全くクソみたいなやつらだぜ、と思いながら(私はそれがたとえ私自身のものに対してであっても、「肩書き」に媚びる連中を見下して生きてるタイプの人間だ)、少量のうどんを残して皿ごと店員に渡し「ちーたんたん」をオーダー。





つまりよくある普通の「玉子スープ」だが、まぁこれはこれで悪くない。

全て飲み終えた私は四五〇円のみ支払って退店。そう考えるとコストパフォーマンスは申し分ないのだが、「盛楼閣」ほどの感動は味わえなかった。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/白龍 本店]


その日のビジネス相手である地元の人物にその話をしてみたら、地元の人々のお勧めは必ずしも「白龍(パイロン)」ではないらしい。「白龍(パイロン)」のじゃじゃ麺は、客が自分好みに味付け出来るよう薄味で提供される。彼女は、何軒か回ってみたらきっと美味しい店が見つかるわ、といった趣旨の事を言った。


ビジネスを終えて、ディナーはこちらも有名処の「一力」で特上鮨。





カウンター席に一人で陣取った私に気を遣ってか、大将は面白い、或いはためになる色んな話をしてくれた。

そして彼は、自分は料理人ではなく「職人」だと名乗った上で、私と会話をしている間にも、私が握りを箸で挟んで醤油につける度に、そのつけ方を真剣な目つきでチラリと見るので、私は今にも私が彼の前で粗相をしでかしてしまうのではいないか、と緊張した。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/鮨一力]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 26, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

夕方からの盛岡でのビジネスに備えて移動する前に、駅前の「牛玄亭」でランチを頂く事にしよう。

牛玄定食、ニ〇〇〇円。





なかなかの美味だ。

ランチにはちょうどよいボリュームの上質な肉を頬張りながら周囲を観察していて気づいたことは、この店は女性の店員が多くて、しかも容姿のチャーミングな店員を優先的にホールでの接客にアサインしているようだ、という事だ。

もちろんキッチンにアサインされてしまった女性たちだって心は美しいに決まってる。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/秋田牛玄亭]


ゆっくり食後のコーヒーを味わってから新幹線に飛び乗り、盛岡まで移動した私は手際よくビジネスを片付け「盛楼閣」へ。

もちろん狙いは「盛岡冷麺」。インターネットでは随分と評判だが一体どれほどのもんだって言うんだ?





辛さは六段階から選べる事になっているが、「別辛で」とオーダーすると、辛味を別皿に分けて持って来てくれる。私は目の前に供された冷麺にひとくち口をつけて驚愕した!

この店の冷麺について特筆すべきは辛味を投入する前のスープの美味さにある。牛骨を煮込んでダシを取るらしいが、そのひんやりと舌に沁みこむように伝わって来るほかの何者にも例えようのない旨みをどう言葉で表現するべきか、私には想像もつかない。

程よくスープを味わい尽くしたところで辛味を全て投入。





率直に言って辛い料理の苦手な私ですら「美味い」としか思えない。ベースになるスープの旨みが、ただ辛いだけの他店のスープを圧倒的に凌駕している。


正直に告白すると、私は「冷麺」という料理に満足感を覚えた事がこれまで一度もなかったので、焼肉屋に行くたびに、当たり前のように「冷麺」を注文する同伴者が一人でもいると、こいつは頭がおかしいのではないか、と呆れた思いで見ていたが、そのような考えを私は改めなければならないだろう。

ただ「盛楼閣」の冷麺に匹敵するだけの冷麺を提供できる店がこの国に一体何件あるというのか。私と焼肉屋に入店して、私に白い目で見られる事なく「冷麺」を注文しようと企む者がいたとしても、そいつに課せられたハードルは果てしなく高い。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/盛楼閣]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 25, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

この私が秋田の地を踏んだからには、鳥海山に登らないなんて事はありえない。


鉾立の駐車場に着いたのは九時過ぎ。ガスで視界が効かないばかりか小雨まで降っていて、そのへんをうろついているハイカーたちはみんな全身レインウェアのフル装備姿だ。

象潟から鉾立まで延びている道を鳥海ブルーラインと言う。名前は立派だが林道に毛の生えたような山道で、そこにはコンビニも何もなかった。食料を買いそびれた私は稲倉山荘でひとつニ〇〇円の「高級」おにぎりを二個調達し、便所で放尿を済ませてから車に戻ってレインウェアを着込んだが、雨足が強まる気配がないので上はすぐに脱いでバックパックに仕舞った。

〇九時五〇分に登山口を出発。





登山道は全て石畳が敷かれていて、ひたすらそれを辿る。相変わらず周囲はガスに包まれているが、道に迷う要素がまるでない。

時間が時間なので、前日御室か御浜の小屋あたりで泊まったと思われるハイカーたちが何組も降りて来る。


「賽の河原」には一時間で到着。この頃にはガスも晴れ、青空が見えて来た。ほぅ、なかなか楽しいハイキングコースじゃないか。





既に森林限界を越えているので、ガスさえ晴れれば常に素晴らしい展望の中を歩く事になる。早速、私はこの山がひどく気に入った。

御浜神社には一一時ニ〇分に到着。





裏手に回ると鳥海湖が見える。





一一時五〇分には御田ヶ原を通過。外輪山らしきものが見えて来る。





七五三掛の分岐には一二時ニ〇分に到着。

多くのハイカーは左に進路をとり、千蛇谷へと下って新山を目指すだろうが、私はあえて右手の外輪山経由だ。岩場に取っ付いて一気に高度を稼ぐ。


敢えて苦難の道を選んだハイカーはその功績により、そうしなかった人々を随分と上から見下ろすという特典が与えられる。





一二時五〇分に「文殊岳」に到着。





「雲さえなければ」新山が間近に見える素晴らしいスポットだ。外輪山コースに入ってからは誰とも会わなかったが、ここで無愛想なハイカー一人とすれ違う。

少々腹が減って来たが先を急ぐ。


外輪山のルートは「雲さえなければ」常に展望に恵まれていて、実に素敵なハイキングコースだ。途中「行者岳」手前の岩場で私は三脚を取り出し、いつものように母なる偉大な自然をバックにセルフ撮影を開始した。

タイマーをセットして私が然るべきポジションに移動し、カメラに向けてクールなポーズをキめた瞬間に、あろう事か三脚がカメラごと前に倒れて来てカメラのレンズが地面を直撃した。私は新山まで響き渡らんばかりの大声で下品な罵り声をあげた。


慌ててカメラを拾い上げてレンズを覗いてみると、その優秀なキャノン製カメラのレンズは割れてはいなかった。今のところ撮影に支障はなさそうだ。もちろん無傷と言うわけには行かない。私のカメラのレンズはケガをしてしまった。しかも撮影した写真に間違いなく悪い影響を与えそうなケガだ。そこにないものが微かにでも写り込んでる写真なんて私は何があっても許さない。あぁ、でもカメラは春先に買ったばかりだ。たしかまだ保証期間は終わってなかったな。

私はせっかくの楽しいハイキングの時間を、それを買った店に何と説明して金を払わずにそのカメラを修理させるかという困難な計画の立案に費やさなければならなかった。


「行者岳」を経由して旧山頂の「七高山」に到着したのは一三時五五分。

誰もいないのをいい事に、墓石みたいなオブジェを前に記念撮影。





さぁ、あとは「新山」の山頂に立ち寄って帰るだけだ。

「行者岳」の方へと戻る道の途中に御室小屋へと下る分岐がある。ロープ沿いにザレ場を下ってから登り返す。


「新山」はさながら巨大なケルンといった様相だ。山頂へは、火山活動で積み上げられたと思われるいくつもの巨岩をひたすらよじ登って行く。

最近あまり街では見かけなくなった例のメッセージが、どういうわけかそこら中の岩にしたためられている。





一四時三〇分、「新山」の隣のピークに到達。ようやくここで「高級」おにぎりの出番だ。

そいつを平らげ、「新山」を占拠していた四人組のハイカーたちが消え去ったのを確認してから「新山」によじ登って記念撮影。





誰もいない山頂で少しばかりのんびりしてから、そろそろ下山しようかとカメラを入れてあるパウチに突っ込んであった地図を取り出そうとすると、どこにもない。くそったれ!カメラを取り出すときにでも落としてしまったんだろうか。レンズの件といい、全く今日はろくでもない事ばかり起きやがる一日だな。

時間が時間なので、下山中に道迷いはおろか、ちょっと道を間違えて引き返すという事態すらも私としては受け入れがたい。つまり日が暮れるまでには駐車場に戻らなければならないし、あわよくば下山したら何件ものラーメン店がしのぎを削るという酒田まで車をすっ飛ばして閉店前のラーメン屋に滑り込もうと考えている私には、一分たりとも無駄にできる時間などないって事だ。


御室小屋まで降りて行くと、ちょうど鉾立の方から千蛇谷経由で登って来たと思われるハイカー集団がいた。私は躊躇なく一人の男に彼らが鉾立から登って来た事を確認した。それから別のグループの一人にも念のために同じ事を聞いた。どうやら私が戻りに使うべき道は間違ってないようだ。

一人目のハイカーは、ここに来るまでに疲れてしまったのか、或いはもともと陰気なのかは知らないが、あまり私に好意的な反応を示さなかったが、二人目の初老の男性は気さくな人物で、しばし無駄話に興じてしまった。


そのハイカーと分かれてから下山を再開した私は、間もなく一組の老ハイカーの集団とこそすれ違ったものの、その後は御浜神社に至るまで一人のハイカーとすら会わなかった。つまり周囲に広がる素晴らしい景色を私はいつだって独り占めしながら帰り道を歩いていった。

ところどころ雪の残る谷を隔てた左手の断崖絶壁の上部には私が往路に辿った外輪山コースの稜線がそのまま見渡せた。全く往きも帰りも私を飽きさせない山だぜ!私はそこら中で三脚を立てては自分の写りこんだ写真を撮りまくった。


そのうち雲が一面を覆い始め、一向に晴れなくなった。そういえば予報では夕方から雨だったな。私は三脚をさっさと仕舞って、後はひたすら帰りを急ぐ事にした。


ガスの中を順調に距離を稼いでいたとき、私が辿っていた道が突然ある地点で私を雪渓へと誘い込んだ。視界の効かない大自然の中を一人ぼっちで歩いていて想定外の事態に出くわす事ほど不快な事はない。唯一、地図がない事を不安に思った瞬間だった。

雪渓の先は外輪山コースの基部だ。う〜ん、まぁ往きに外輪山を辿ったんだから、そっち側に戻る道なら正解なんだろう。たぶん今年一番面倒くさそうな顔をしてそう考えてから私は雪渓を渡った。私の判断はいつだってシンプルだ。





一七時一〇分に御浜神社を通過。そろそろポツポツと雨が降り出した。だが上半身は無防備とは言え、下半身はいつひと雨来ても構わないように防水パンツにゲイターまで着けたままだ。まぁシャツなんて汗で濡れたって思えばいいさ。今さらいちいちバックパックを一度降ろしてレインウェアを取り出すなんて面倒なマネをするまでもなく、私はそのまま小走りで登山口を目指す事にした。


私が軽やかなステップで石畳の上を進んでいた時、本当に私は目を疑ったのだが、前方に二人のハイカーがいるのが見えた。どうやらカップルのようだ。女の方は朝方に稲倉山荘で見かけた気がするな。男の方は・・・ まったく記憶にない。とにかく彼らはバックパックを降ろしてレインウェアを取り出すという、私に言わせるところの「面倒な」作業の最中だった。

率直に言って、雨に濡れるのがいやなら、雨が降り出してからレインウェアを取り出すというのはあまり賢明でない、と私は思った。その日の雲の動きとか、或いは天気予報を頭に入れていれば、彼らはもっと早い段階でレインウェアを取り出せていたはずだ。

そんな事より、私が言うのも何だが、彼らは何でこんな時間にまだこんな所をうろついているのか?少なくとも私が二人に声をかけて颯爽と抜き去ったとき、男の方は一瞬驚き、それから少し安堵の表情を浮かべたように見えた。僕たちの他にもまだこの山に人がいたなんて!とでも言いたげな。女の方は座り込んでいて、私が見る限りもう体力の限界といった感じで、私が声をかけた事などどうでもいい、と思っているようだった。


しばらく行くと、さらに若い男の二人組が石畳の真ん中に座り込んでいた。もう少しで登山口だってのに最後の休憩か?あれ?新山の山頂で見かけた男たちのようだ。そのときは四人組だと思っていたが、あれは二組の二人組だったのか・・・。

彼らが随分と長く(少なくとも私はそう感じた)山頂を占領していたので、私の様々な予定がちょっとずつ後ろにずれてしまったのだが、まぁいい。マナーとして一声かけると彼らはとても爽やかな笑顔を見せて私に道を譲った。


それからさらに行くと、今度は石畳の道を登って来る男がいる。私は一瞬、彼が何をしようとしているのか理解できなくて困惑した。夕方の六時にたった一人であの鳥海山に登り始めるって?私が少々混乱しているとその男が話しかけて来た。

何でも下山中に足を挫いて動けなくなったハイカーが、彼の所属する組織に救援要請をよこしたので、彼はこんな時間にひと仕事する羽目になったらしい。ご苦労さん。彼はどうやら私が彼を迎えに来た尖兵だと思ったようだ。残念だが、私にそんなドジな知り合いはいないぞ?

心当たりを聞かれたが、まず真っ先に思い浮かんだのは、見るからに「もう動けないわ」というオーラを発散しながら座り込んでいたカップルの女だった。足を挫いたのは男なのか女なのかを尋ねると、救援組織の男は「分かりません」と答えた。普通、確認しないか?


まぁいずれにしたって状況から見てあの女ハイカーか、あるいは座り込んでいた若者二人のどちらかしかありえない。私は彼らを見かけた大まかな位置を救援隊員に説明して、彼と分かれた。それからカップルの男の事を思い出した。あの安堵の表情は「やっと迎えが来た」という思いから浮かんだものだったんじゃないのか。もしそうだとしたら冷たく抜き去ってしまって悪い事をしたな。


もう一組、五十がらみの男二人を抜き去って登山口まで戻って来たのは一八時一〇分の事だった。一般論としてハイカーの行動終了時間としては不合格だ。最近このパターンばかりだな。それでも私より遅い時間までハイキングにいそしむハイカーもいるわけだ。まぁみんなが無事に帰って来れれば何よりだ。


私が駐車場で着替えを終えて、酒田のラーメン店を目指してレンタカーのアクセルを踏み込み登山道入口の前を通り過ぎたとき、例のカップルがようやくそこに到着したのが見えた。じゃあ救援隊のお世話になったのはやっぱり若者の方か。私はそれほど気にしてなかったが、彼らが私の予定をほんの少しだけ狂わせた罰を神が彼らにお与えになったのかもしれないな、と勝手な事を考えながら私は酒田への道を急いだ。


そして七号線で事故渋滞に巻き込まれた私が酒田の町に到着したとき、私が事前にチェックしてあった七件のラーメン屋は全て店じまいした後だった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 24, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

私は基本的に、子どもと接する場合であっても、大人に対してそうするのと同様に、ひとりの人間としてその人格を尊重しつつ接するように心がけるタイプの人間だ。

その代わり、大人に対する敬意に欠けていたり公共マナーを身につけてないやつは、たとえ子どもでも容赦はしない。

その結果、その場ではその子どもが恐怖に怯えて心に傷を負うことになっても、彼(あるいは彼女)にとってその経験は必ずや生きていくうえでの財産となるだろう。もしそうならなかったら?別にそれでも構わない。そいつがなぜそんなひどい目に合わされたのかをその場で理解できなかった場合、その後のそいつの人生は概ねろくなものにならないだろうが、私には関わりのない事だ。

子どもの人格を尊重するという事と、子どもを傷つけまいとして公共の場での無作法もただ見守る事しか出来ないような幼稚な親のやっている事とは根本的に質の異なるものだ。


私は「なまはげ館」を訪問してそのような事を考えた。


「なまはげ」のコンセプトは実にシンプルだ。

夜中に突然、我が家を訪れた異様な風体の妖怪が、周囲の大人や自然に対する敬意に欠ける子どもは有無を言わせず裏山に連れ去るぞ、と子どもたちに恐怖を植え付ける事で、子どもたちはそれから謙虚に生きる事を覚え、宿題をちゃんとやったり出された食事を残さず食べようと努力する。

実際にその伝統行事の様子を撮影した映像は実に愉快だ。妖怪役の村人の迫真の演技を前に、子どもたちは本気で恐れおののき逃げ惑い、妖怪役の村人に許しを請う。本当に裏山に連れ去られんばかりに妖怪役の村人に抱え上げられた少年が、ただ硬直した表情で必死に柱に掴まって渾身の抵抗を試みるシーンを見た私は、周りでそれを見ていた他の観光客と一緒に大笑いした。

とらえ方によっては実に暴力的な手段による「教育」にほかならないが、どこかの人権団体の代表がそんなたわ言を主張しても誰も耳を貸さないだろうし、また貸すべきでない。子どもの分際で調子に乗るなよ、というその種の警告は「その子どもたちのために」誰かによって為されなければならないし、私たちもまたそのようにして育てられたはずだ。


一通り「なまはげ館」を見て回り、古き良き伝統行事に関する私なりの考察を加えたところで、隣接する「男鹿真山伝承館」に移動する。そこでは概ね三〇分単位で、実際にその地域で現在も行われている「なまはげ」の様子を再現するショーが催されている。





まずスタッフによるショーの概要の説明があり、次に家の主人役の初老の男性が場を和ませるトークをする。

それから実際にその伝統行事が執り行われるときと同様、まず「なまはげ」グループの男(人間)が挨拶に訪問し、家の主人の許しが出たところで、いよいよヤツらが登場する。





浪曲師顔負けのハスキーな節回しには、真摯な稽古の痕跡が伺える。

その後、家の主に酒を勧められて落ち着きを取り戻した「なまはげ」と家の主との間でコントのようなやり取りが繰り広げられる。つまり「なまはげ」が持ち歩いている謎の「台帳」には、その家の子どもや嫁の悪行の全てがしたためてあり、「なまはげ」がそれを読み上げるごとに家の主が釈明をしながら酒を勧めるというシナリオだ。

彼らの会話はその界隈の訛りのまま行われるので、私は字幕なしで洋画を見ているような気分になったが、周りの観光客は大喜びだった。


ショーが終わったので、私はそこから歩いて五分ほどの距離にある「真山神社」を訪問することにする。

「真山神社」は「なまはげ」の黒幕とも言うべき神が祀られているとされる歴史的宗教施設だ。駐車場にあった案内図によれば、村の家々を荒らし回った「なまはげ」たちが最後に帰って行くとされる「本殿」まで 2.3KM とある。





ほう、私の足なら三〇分もかからずに着きそうじゃないか。


明日は鳥海山のハイキングが控えている。まぁその足馴らしにすらならないだろうが、毎年のように人里に乗り込んで来る「なまはげ」の住処にこちらから乗り込んでやるというのも面白い。

一時間後には戻って来る事になるだろうと踏んだ私は、水分すら持たずに手ぶらで本殿を目指して歩き始めた。


まず「拝殿」横の石段からスタートだ。





一般の観光客がそう思うかどうかはともかく、参道はよく手入れがされている。

前日の雨で所々ぬかるんでいて、サンダル履きの私を少々苛つかせたが、少なくとも道迷いの心配は皆無だ。





だが歩いても歩いても本殿らしきものは見えて来ない。

三〇分ほど歩いた頃に現れた標柱。





あれ!?まだ半分しか歩いてないって事か?

補給用の水分が全くないのは少々気になるが、そうは言っても、ここまで来ておいて引き返したりしたら、かなりマヌケだ。


どうやら街で 2km 歩くのと山道を 2km 歩くのとではわけが違うらしいという事実を学習してまたひとつ賢くなった私は、結局さらにニ〇分歩いて「本殿」に到着。





「本殿」二階からの展望。

「回転展望室」が特徴的な寒風山(中央)を見下ろす。





行けるものならその先にあると言う「本山」まで足を延ばそうかと思っていたが、「本殿」から先の道は草に覆われていてサンダル履きで行く気にはならずさっさと下山。


私がそれを見て思いつきで「本殿」まで乗り込む事にした案内図のもとに戻って来たのは、そこを出発してから一時間と四〇分後の事だった。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 23, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

ビジネスのため秋田に移動しなければならない私は駅の自動券売機へ。

私は新幹線に指定席で乗るのを好まない。指定席の車両では、混み具合には関係なく、私の隣の席を指定された客は当たり前のように私の隣の席に座ろうとするだろう。

自由席の場合、ちょっとだけ早めに行って自分好みの席をとってしまえば、よほど混んだ車両でない限り敢えて私の隣に座ろうとする客はまずいない(もちろん後から乗り込んで来る乗客の皆さんとの「心理戦」というプロセスは必要だ)。

結果的に私は自分のお気に入りの席で誰に気を使うでもなくリラックスして長旅を楽しむことになる。


そしていつものように自由席のチケットを購入しようとした私は、秋田新幹線が全席指定である事を初めて知った。ちっ、面倒だな。仕方なく指定席券を買おうとした私に券売機が「買え」と促して来たのは「立席特急券」という見慣れない名前のチケットだった。

私が乗らなければならない列車は、どうやら既に「満席」のようだ・・・。





四時間立ちっ放しという事実を突きつけられて、さすがの私も少々動揺する。自由席の車両が一両でもあれば絶対に起こりえない「トラブル」だ。そもそも全席指定なんだったら、もっとその事実をしっかりと(要するに私がその事に気づくように)事前に周知しておくべきだ、と思いかけて私はやめた。

目の前の状況を誰かのせいにして不平をたれる事にエネルギーを注ぐ人間と、そいつを楽しむ方法を考える作業にさっさと取りかかれる人間との違いこそ、私が軽蔑するタイプの人間と、この私との違いじゃないか。


私が東京駅のホームで駅員を捕まえて手に入れたばかりの「立席特急券」を見せ、では私は車両のどこに立っていればいいのか、と聞くと、駅員はまるでそれは全て自分の責任だとでも言わんばかりに申し訳なさそうに、デッキに立っててもらいたい、と言った。

私は早速、私が乗るべき車両の到着を待つ行列に並び、車両が到着するや否や乗り込んで行ってデッキの一画を占領した。

哀れなことに、私とは別にお婆さんと孫らしき少女の二人組も「立席特急券」での長旅を強いられているようだった。気の毒だが私が二人にしてやれる事は何もない。


大宮を出れば次の仙台までは一時間以上かかる。その間ひとの乗り降りはない。私は早速デッキに座り込んで東京駅のホームで買っておいた「サバ寿司」を掻き込んだ。「立席」とは書いてあっても私に与えられたスペースでどんなポーズをとっていようが私の勝手だ。ふむ、こいつはいい。独り占めした床にあぐらをかいて誰に気を使うでもなく「サバ寿司」なんて、ちょっと風流じゃないか。

私がたしか三貫目の「サバ寿司」に箸をつけようとした頃に、車掌が通りがかってお婆さんと孫に何事か話しかけ、そのまま二人を客室へと連れていった。たぶん空いてる席を見つけて案内してやったんだろう。話の分かる車掌じゃないか。

私はどうしようか。登山用具を詰め込んだニ〇キロ級のキャリーバッグを引いて混みあう車両の一画にわざわざ移動するのも面倒だな。それにこの場所はそろそろが私の「お気に入り」になりつつある。よし、私は車掌の親切には丁重に礼を言いつつ、その申し出は断ることにしよう。

そして車掌がまた現れたとき、もちろん私にも一声かけてくれるもんだと思っていたら、車掌は私には見向きもしないで行ってしまったので私は少し傷ついた。


後で分かった事だが、明日は大曲で花火大会があるらしい。平日の昼間に秋田に向かう新幹線が満席だなんてどうもおかしいと思っていたが本当に迷惑な話だ。


その四時間の旅はなかなか快適だった。私がノートパソコンを開いたり、本を読んだり、荷物に足を投げ出して仮眠をとったりしているうちに列車は秋田に着いてしまった。ビジネスの約束の時間に遅れることもなく、それをさっさと終わらせた私は、豪雨をものともせずホテルから歩いて「秋田長屋酒場」へ。


秋田の郷土料理は「全て揃っている」と豪語するその店に入ると、歓迎のしるしに太鼓を叩かれる。カウンター席に着いた私は、その内容を予習しチェックしておいた「郷土料理」の名前を次から次に挙げて注文した。

「いぶりがっこ」は燻製にした沢庵。





「とんぶり」はキャビアのような食感をした粒々の草の実。





「あみこ茸」というキノコの煮付けは少々塩辛いが酒の肴にはもってこいだ。





ハタハタの一夜干し。こいつは美味かった。

ししゃもみたいに頭から丸ごと頂ける。





「ギバサ」とはアカモクの現地語で、ヒジキと同じホンダワラ科に属する海藻の一種だ。





かき混ぜればかき混ぜるほど粘り気が出る。その喉ごしは秀逸だ。





「寿司はたはた」。

握り寿司をイメージして注文すると「何だこれは?」となる。





〆は「きりたんぽ味噌田楽」。

食事というよりおやつに丁度いい。





あれもこれもと注文していたので結構な金額になってしまった。





※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/秋田長屋酒場 秋田駅前店]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 18, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

米子を訪れたついでに私は鳥取砂丘まで足を延ばす事にした。


途中「お魚センターみくりや」で軽く腹ごしらえだ。刺身定食一一〇〇円。





それとは別に「岩ガキ」を注文。五〇〇円。





広島あたりで注文したらたぶん倍額だろう。東京だといくら取られるのか想像もつかない。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/地魚料理 恵比須]


真っ昼間からミルキーなぷりぷりオイスターを堪能した私は一路「鳥取砂丘」へ。


「お魚センター」で見つけた観光客向けのパンフレットには砂丘に関する基本的なデータが掲載されていた。砂丘は平坦地ではなく起伏に富んだ形状をしていて、「馬の背」と呼ばれる高さ五〇米ほどの丘から眺める景色はなかなかのものらしい。

マップに駐車場からの遊歩ルートがあったが、三時過ぎに駐車場に着くと満車のようだ。有料というのも気に食わないのでその前を素通りして少し行くと一キロメートル程先に「良心的な」駐車スペースがあった。そこから徒歩で海岸に侵入できるようだ。

私は迷わずそこに駐車し、ペットボトルとカメラと小銭を少々カーゴパンツのポケットに突っ込むと、砂浜を横切って波打ち際を「馬の背」の方へと歩き出した。


ほどなくして「馬の背」が見えて来た。観光客の姿も見える。





鞍部からなだらかに海岸へと降りてくる斜面には無数の足跡がある。「馬の背」から景色を眺めるだけでは飽き足らない観光客は、そこを辿って下まで降りて来るようだ。

「馬の背」の稜線までの「直登ルート」はかなり急角度の斜面だ。足元は砂。あれを駆け上ってみると面白そうだが、そんな事ができるやつはそうはいないだろう。

だいたい歩いて降りるやつすらいないようで、そもそも足跡が全くついてない。


よし、やってみなければ。





そいつはまるで不可能だ。助走が長過ぎたとか言い訳はしない。その後、カメラを回収してから歩いて上まで登ったが、それでもノンストップで登り切る事は出来なかった。


くだらない遊びはそれくらいにして、自然の織り成すアートを堪能する。





帰路はわざわざ浦安の有名店に立ち寄って「牛骨ラーメン」とやらを堪能しようとしたら、夜の営業を「お休み」と店先に貼り紙がしてあった。舐めやがって・・・。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 17, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

米子を訪れたついでに私は伯耆大山にハイキングに出かける事にした。


伯耆大山の山頂は避難小屋のある「弥山」とされているが、実は伯耆大山の最高峰は「弥山」から稜線伝いに東に位置する「剣ヶ峰」である事は、あらゆる伯耆大山に関するガイドブックに記載されている。

だが一〇年以上前に起きた地震の影響で稜線は崩壊してしまったため、現在「剣ヶ峰」へと至る縦走路は立ち入りが禁止されている。もし今日、伯耆大山を初めて目指すハイカーがどこかでそのルートマップを手に入れたとしても、「弥山」から東に登山道は存在しない事になっているだろう。

反対の天狗ヶ峰側から「剣ヶ峰」へと至る稜線も同じ理由で「立ち入り禁止」だ。にも関わらず、今日に於いてもいずれかのルートを辿って「剣ヶ峰」を目指す不届きなハイカーが跡を絶たないようだ。けしからん話じゃないか。よし、私が行って一言注意してあげなければ。


東京を発つ前に私がガイドマップを参考にこさえた手製のルートマップによれば、大山情報館前の駐車場から「天狗ヶ峰」までのコースタイムは一三五分だ。そこから先はルートがない事になってるので距離を元に大体の所要時間を推測するしかないが、まぁ一〇時に登り始めれば、槍ヶ峰まで足を延ばしてから剣ヶ峰に向かい、そこで捕まえたハイカーにお小言を言ってやって、それから下山しても日没までには余裕があり過ぎるくらいだろう。

私は睡眠時間をたっぷり取って九時半ごろに旅館を出発した。


観光マップを参考に駐車場を目指したが、途中で道を間違えたりして、駐車場に着いた頃にはとっくに一〇時を過ぎていた。まぁ問題ない。時間に余裕はある。

「文政の大鳥居」前で尿意を催しトイレを探し回ったりして(結局なかったが)多少の時間を浪費し、「大山寺」への参拝は省略して、いよいよ鳥居をくぐったのは一〇時四七分。





そこからしばらく、自然石のものとしては国内最長を誇るとされる石畳の参道。





「奥宮」は結構な段数の石段の上にある。そこでトイレを見つけた私は無事に放尿を終え、建物の裏にある「行者登山口」へ。時刻は一一時一〇分。

五分もしないうちに分岐が現れ、左に折れる。岩のゴロゴロした道を三〇分ほど登ると「下宝珠越」。

多くのハイカーはそのまま「中宝珠越」側へと進むところだろうが、私は好奇心から「宝珠山」に寄り道する事にする。

五分ほど歩いて宝珠山の山頂。恐ろしいほど凡庸でつまらない。





下宝珠越まで戻ってさらに宝珠尾根を歩いて行くと、次第に視界が開けて来る。はるかかなたに見える「ユートピア避難小屋」。





このあたりから岩をよじ登ったり、崩落した巻き道を越えたり、とハイカーにあまり親切でない道のりになる。この時点で時刻は一三時〇五分。あれ?何かおかしくないか?

駐車場を出発してから二時間少しで天狗ヶ峰に着いてるはずじゃなかったか?もう一度、手製の地図を取り出して確認した私は愕然とした。登りのコースタイムを合計した「一八五」という数字が丸で囲んである。くそったれ!

私はどうやら昨夜、間違えて同じように丸で囲んだ下りのコースタイム「一三五分」を登りのコースタイムだと思い込んで寝てしまったようだ。実際にはここから天狗ヶ峰まではさらに一時間以上かかる計算になる。私はこの時点で、剣ヶ峰に到達する事を優先する必要から、槍ヶ峰の往復をすっぱり断念した。


上宝珠越に着いたのが一三時一五分。さらに肩で息をしながらニ〇分ほど登ってようやく「三鈷峰」の山頂(一五一六米)に到達。由緒ある参道だと聞いていたが、このコースはなかなかハードだ。暑さもたたって疲労困憊の私はニ〇分ほど休憩。





三鈷峰から避難小屋までは一五分ほどの距離だ。先客ハイカーが一人いたが、小屋の中で何やらごそごそしてから下山方向に去って行った。





さぁ、ここからが本番だ。時刻は既に一四時ニ〇分。常識的に考えて、もう誰も登って来る事はありえない。この先、もし私が不注意から足を滑らせ、不幸にも谷の底までまっさかさまに落ちてしまうような羽目になっても、誰も気づいてくれやしないって事だ。気合を入れなければ。

私は最後のおにぎりを頬張り、バックパックのボトルにある水分をベルトに括り付けたパウチのボトルに移しかえられるだけ移しかえてから天狗ヶ峰方向へと歩き始めた。


しばらくは、確かに細いうえにいやらしい砂利道だが、特に難しいとも思わない踏み跡が続く。





ユートピアを発ってからニ〇分ほど歩いたあたりで、前方の稜線に人陰を確認する。私が言うのも何だが、こんな時間にあんなところをうろうろしやがって何考えてるんだ?

遠くから見ている限り、前進するのにかなり手こずっているようにすら見える。


私の行く稜線は、片側は切れ落ちているものの、まだ大丈夫だ。





いやいや、そんな事を言ってられるのは前に進んでいる間だけだった。しばらく歩いてからいま来た道を振り返るとき、愚かなハイカーたちは退路を絶たれた絶望感を味わう事になるだろう。





山で起きる事故ってのはだいたい下りで起きると相場が決まっている。下り道の方が登りよりはるかにバランスを保つのが困難だって事だ。ましてこんな両サイドの切れ落ちた砂利道を下って行くなんて私にとっては少々受け入れがたいリスクだ。

おまけにあの宝珠尾根のしんどいコースを下って行くのもまっぴらだ。夏山登山道ならどうせビギナー向けだし下っていくのも楽そうだ。私はそのとき喜んで弥山まで縦走する事を決意した。


前方を見やると一本道の少し向こうに「天狗ヶ峰」の山頂が見えて来た。例のハイカーがいてこちらを見ている。下って来る気か?一本道のうえですれ違う事は到底不可能だ。私は「こっちに来るかい?」というジェスチャーをして見せた。

それを見たハイカーは「お前が来い」と言わんばかりに手招きをした。ありがたい。正直ちょっと先を急ぐんだ。私はそそくさとその一本道を渡り終えて彼の元にたどり着いた。

一人だと思っていたそのハイカーにはもう一人、女ハイカーのお供がいた。男の方は随分とダンディーな雰囲気を漂わせた初老の人物だった。サングラスで顔が隠れているが、マダムの方もたぶん同年配だろう。夫婦かとも思ったが、あまりに男の方がダンディーなので、ちょっとわけありの二人かもしれないな、などと私は余計な心配をした。


てっきりもう剣ヶ峰まで到達して引き返して来ているのかと思ったら、二人はまだ剣ヶ峰に向かっている途中で、先に進むのが怖くなったが戻るのも怖くて、もうどうしようかしら、とマダムが楽しそうにまくし立てた。

それを決めるのは彼らの仕事だが、私は、ここからユートピアに引き返す位なら縦走してしまいますね、と個人的な意見を述べた。それを聞いたマダムは「ついていくわ!」と即答した。ダンディー氏は何も言わなかった。私は、私が谷の底に落ちてしまったら然るべき機関に通報してくれるよう頼んでから、彼らの先を歩き始めた。


剣ヶ峰に至る稜線はそれまで以上に神経を使う。踏み跡は途中で右(北)側のヤブの中を通る巻き道へと続くが、そこを通る誰もが心の安らぎを覚えるはずだ。





天狗ヶ峰から一〇分ほどで剣ヶ峰に到達。三脚をセットし終えたら、さっそく剣ヶ峰を尻に敷いて記念撮影だ。





私が一人で写真を撮って遊んでいると、ダンディー氏とマダムもほどなく到着した。だがあまりゆっくりしてる暇はない。ここから弥山までの稜線こそ最も根性を入れてかからなければならない本日のメイン・ステージだ。

時刻は既に一五時三〇分だ。私は二人に一声かけてからいよいよ弥山への縦走路に足を踏み出した。


縦走路はそれまでにもまして、稜線崩壊の傷跡をまざまざと見せつけてくれる。特に右(北)側面の崩壊が著しい。





足を乗せた瞬間に崩れ落ちそうだ。





たぶんこいつが難所として名高い「ラクダの背」だろう。遠慮なく尻を使って下りる。





振り返ると、(四つん這いで)奮闘するダンディー氏。





たしかにもはや道でも何でもない。


ときには尻を使い、ときにはタマをこすりながら前進を続け、ようやく「三角点」に到達したのが一六時一五分。


弥山側から稜線への入り口には、夏山登山道を登り切った程度のハイカー風情には絶対に立ち入らせないという当局の強い姿勢を感じさせるロープが二重三重に張り巡らされている。





あれ?ところで私は何か目的があってあんなクレイジーなルートにハイキングと洒落こんだんじゃなかったっけ?まぁいい。無事にここまでたどり着けたのだから「よし」としなければ。


途中で姿の見えなくなったダンディー氏一行の身を案じつつ、時間も時間なのでとっとと下山(彼らは六合目で写真を撮っていた私に追いついて、そのまま風のように去って行った)。

夏山登山道で下りきってもよかったが、「大山寺」に参拝するのを忘れていたのを思い出し、元谷を渡って大神山神社経由で「大山寺」へ。

夜には撞くな、と書いてあったが、一九時なんてまだ夜じゃないだろう、と「開運鐘」を力いっぱい撞いてから駐車場に帰り着いたのは一九時〇五分。率直に言って、下山を完了する時刻としては甚だ不適切だが、昨夜たっぷり睡眠をとったおかげで今日のハイキングを無事に終える事が出来たのだと思えば許容範囲だ。


駐車場から見上げると、今日歩いた三鈷峰から弥山に至る稜線がはっきりと夕暮れの空に浮かび上がり、その上に月が輝いていた。





何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 16, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

米子を訪れたついでに私は石見銀山まで足を延ばす事にした。途中、出雲大社に寄り道する事にしよう。

臨時駐車場に車を止めてシャトルバスに乗り込むと、バスは「古代出雲歴史博物館」まで私たちを運んでくれた。そこから出雲大社までは歩いて五分もかからないのだが、その博物館もなかなか面白そうだったので、私は参拝帰りに立ち寄る事にした。

「松の参道」を歩いて行くと左手に手水場が現れるがこのざまだ。





神には悪いが私は手洗いを省略した。


鳥居をくぐるとすぐ目の前にある拝殿には参拝客が殺到していた。たぶんそれでも正月の参拝客に比べれば控えめな方なんだろう。炎天下にも関わらず私は辛抱強く私の番が来るのを待ってから、コインを木箱に投じて形ばかりの参拝をした。





周りの参拝客を観察してると、どうやらここでは四回も手を叩くのが流儀らしかったが、そんなものは無視だ。


参拝を終わらせて建物の裏側に回ると、そこでも別の建物の前で参拝客が列を為して自分の番を待っている。後から調べて分かった事は、わたしが始めに参拝した建物は「拝殿」と呼ばれる建物で、その裏に神がおわします「本殿」というのがあるという事らしい。

おまけについ先日まで、そこの神はその「本殿」の改修のために本来の神の家を離れて「拝殿」の方に滞在していて、いまはやっぱり元の棲み家に戻っているらしい。で?結局どっちで参拝すればいいんだ?


私は一応「本殿」の方でも形ばかりの参拝をした。こう言っては何だが、私にとって「参拝」という行為は、例えばクリスマスの夜になるとみんなでケーキを食べるのと同じようなものだ。それをやったから良い人生を送れるわけでもないし、実際、神がおわすとされている聖なる空間には空気しかないと分かっていても、それはちょっとした旅の記念のイベントとして実施されるべきものだ。

私はそういう科学的なスタンスを重視する人間なので、たぶん神に本気でいろんな願い事をしているからか、いつまでも手を合わせて拝み続けてるような参拝客を見ると、本人は信仰心が厚いゆえにそうしてるつもりなんだろうが、私にはただの欲深い人間にしか見えない。


参拝を終わらせてから境内を一周していくつかの歴史的な建造物を鑑賞し、最後に「おみくじ」。出雲大社の「おみくじ」は吉だの凶だのといった分かりやすいランクのようなものは書かれていない。私が引いたのは「第二十五番(内容はインターネットで検索すれば出て来るだろう)」。


その後、博物館に移動して出雲の国の歴史を勉強する。この博物館、かなり内容が濃い。真剣に観覧した場合の所要時間は二時間。

今でこそ人口は流出する一方で社会の発展から完全に取り残されてしまった感がないでもないこの地域も、「青銅器文化」の栄えたニ〇〇〇年以上前には非常に大きな勢力を持つ部族が支配していたと思われる事が近年になって判明し、従来の九州や近畿が当時の文化の中心を担っていたとされる通説は覆されつつあるようだ。

この地域は、ただ単に「縁結びの神様」がいるというだけではなく、もっと歴史的、文化的側面からその価値を広く認知されなおす必要があるだろう。ただ何でもお願いしに来ればいいってもんじゃない。


腹がへったので「出雲ぜんざい」を賞味するため神門通りへ。猛暑のなか、お目当ての店には何組かの行列が出来ていたので即座にパス。大鳥居の目の前にある「おくに茶や」という店はすぐに入店できるというのでそこにする。

おくに茶やの「冷やしぜんざい」。





お代は六〇〇円。もちのサイズが目を引くが、それだけに留まらず、小豆の風味がほどよい甘さに抑えられていて、なかなか私好みだ。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/おくに茶や]


シャトルバスで駐車場まで戻って、いよいよ石見銀山へと移動。

まずは「世界遺産センター」へ。一七時三〇分閉館だと言うが出雲の博物館で思いのほか時間を食ったので、私がそこに着いたのは一六時過ぎ。

少し遅かったか、と思ったが余計な心配だった。展示の内容があっさりしていて、観覧は小一時間で終了。

坑道の中を見てみたかったのだが、メインの坑道、つまり江戸時代初期に銀山奉行として名を馳せた長谷川長安の名前にちなんだ「長谷川間歩」に立ち入るにはガイド同行のツアーに事前に予約をしておく必要があると言う。予約なしで中に入れる「龍安寺間歩」というのもあるが、そこは受付が一七時までであるうえに「遺産センター」からはほどよく離れた場所にあって間に合いそうにない。

そうなると私がとるべき道はただひとつだ。たぶんもう誰もいないであろう「長谷川間歩」の入り口まで赴き、あわよくば SUREFIRE のライトを片手に「侵入する」。


「長谷川間歩」の探検ツアーの集合場所とされている駐車場まで車を走らせると、案の定、車は一台もとまっていなかった。そこから山道をニ〇分も歩けば「長谷川間歩」のようだ。

その先は(私にとっては)踏み跡も明瞭でサンダル履きでも何の問題もない「親切な」山道だ。いくつかの史跡の前を通り過ぎつつ、汗だくになりながら登っていくと、やがて前方に怪しい霧かもやのようなものが見えて来た。「長谷川間歩」だ。





坑道から冷気が漏れている。事実、坑道入り口の前に立つと入り口から何とも冷たい風が吹き付けて来て涼しいどころか寒い位だ。





入り口は南京錠で施錠されていた。私の技術ではそいつを破って侵入するのは無理だ(もちろんそんな事を実践するのは犯罪だ)。

いい塩梅に涼んだところでさらに先へと行くと「釜屋間歩」がある。岩に直接彫りつけられた階段で有名なスポットだ。





手元の案内図によれば、もう少し先まで行くと「石銀集落」というのがあるらしい。先人の暮らしの痕跡が伺い知れるような貴重なスポットだとしたら、そいつを目にしないでは帰れない。私はまた山道を登り始めた。

そこから先の山道はあまり人が踏み入ってないようで、草で覆われていた。自然生物に対して無防備極まりないサンダル履きで登って行くには少々勇気がいるシチュエーションだ。さらに登って行くと、あろう事かスズメバチが一匹、私を威嚇するように私に向かって飛んで来た。ミツバチが百匹単位でかかって行ってもかないそうにない巨大なやつだ。

おいおい、スズメバチの巣の前を通り過ぎてまで見に行かなきゃならないほどその集落は素敵なスポットなのかい?

立ち止まって様子を伺っていると、スズメバチは道のわきの葉っぱに止まって何やら仕事を始めた。そいつを千切ってって新しい巣でも作る気だろうか。少なくともやつは私にはもう興味がないようだ。私は何事もなかったかのようにまた山道を登り始めた。

そこから「集落」までは三分もかからなかった。案内板によれば、たしかにそこには銀山の運営に関わったひとびとが暮らしを営んでいた痕跡を示す数々の出土品があったらしい。

だが今はただの更地だ。写真か何かで見れば十分で、危険生物が出没する山道を汗だくになって登ってまで見に行かなければならないものではなかった。





私はやっぱり帰り道でも例のスズメバチに追いかけ回されながら、逃げるようにその地を後にした。


米子まで戻った私のディナーは「一番軒」の塩ラーメン。





もやしとネギのたっぷり入ったスープがほどよいコクを感じさせる私好みの一品だ。叉焼も柔らかくて言うことなしだ。並は五〇〇円で大盛は七〇〇円。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/一番軒]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 15, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

ビジネスのために米子に降り立った私は、さっさとビジネスを片付けて夕食に角盤町へと繰り出した。

向かった先は、インターネットでやや評判のいい「炉端かば」だ。境の漁港に近い地の利を生かして、ボリュームの割りに安くて新鮮な魚が出て来るらしい。

カウンター席に腰掛けてメニューを見てみると「かば大盃盛」なる刺身の桶盛りがあって、ハーフサイズが一〇〇〇円だと言う。ふむ、その辺で店の品定めをしてから他のメニューを注文というのも悪くないな。私はアルバイト店員にそいつを一丁とビールを注文した。

ビールと共に付き出しが供され、それとは別にさっきのアルバイトが「サービスです」とハマチか何かの「あらだき」を持ってきた。メニューを見ると五五〇円で提供されているようだが、ただでくれると言う。なかなか気前がいいじゃないか。

そっちにはまだ箸をつけずに付き出しを肴にビールを飲んでいると、アルバイトが桶盛りを持って来て「お待たせしました」と言った。私は思わず「そいつがハーフか!?」と怒鳴り返した。





まず桶のサイズが一〇〇〇円のそれではないし、ネタが豊富でサザエの刺身まで乗ってるうえに全ての刺身一切れ一切れのサイズがでか過ぎる。後になって「実はあの桶盛は三〇〇〇円でした」と言われても私には全く反論できないような一品だ。それにそもそも一人で食う適量を完全に超えている。

アルバイトは私の質問に涼しい顔で、そうだ、と答えて行ってしまった。私は覚悟を決めてその桶盛を完食したが、もちろん全ての刺身は鮮度が抜群なうえにボリューミーで全くケチのつけようがなかったし、そしてそれだけで私は満腹になってしまった。

「あらだき」まで片付けた私は当然それ以上は何も注文する気にならず、膨れ上がった腹を抱えて店を出た。会計はたったの一七〇〇円。


米子なんて人口数でいつもビリの県にあって、空港駅は無人のプレハブ、アニメに出て来る一つ目妖怪で観光客を誘致しようなんて必死になって、ほかにもっとましな観光資源もないのかい?とかなり甘くみていたが(まぁそれらは全て事実なんだが)、私はこの街の魅力について公正に再評価をしなければならなくなった。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/炉端かば 米子店]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 11, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

西条から車で二時間かけて、「鯛めし」発祥の地と言われる宇和島は「とみや」へ。

「鯛めし定食」は一三〇〇円。





松山の「吉」と同じく生卵を使うスタイルだが、汁が少々多すぎて、かき混ぜると卵のとろみがなくなってしまう。





いろいろと意見はあるだろうが、「吉」の鯛めしの方が私好みだ。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/とみや]


昼食を終えたら、沈下橋(ちんかきょう)から四万十川に飛び込むために岩間へ。


沈下橋とは川が増水すると水面下に沈んでしまう橋のことで、増水時の耐久性を考慮し、欄干が付いていないものが一般的だ。読み方を正しく覚え、陰毛と同じ呼び方をしない事が重要だ。

もう何年も前に、四万十川流域の子どもたちは夏になると沈下橋にやって来て、その上から川に飛び込むという事実を知った私は、ぜひ自分でもそれをやってみなければならないと決意した。そしていよいよそのミッションが遂行されるときがやって来た。

岩間沈下橋は、四万十川に架けられた五〇近くの沈下橋の中でも特に象徴的な存在だ。観光客向けの資料に「四万十川の沈下橋」として写真が載っていれば、多くの場合この岩間沈下橋だ。私が現地に到着すると、いくつものグループが川遊びやキャンプを楽しんでいた。





私は周囲をひと通り偵察して、私が橋から飛び降りる姿を撮影するのに最もよいと思われるポイントを選んで占拠し、そこに立てた三脚のうえにカメラをセットした。


これから私の踏むべき手順はシンプルだ。カメラの録画ボタンを押したら橋の上まで駆けて行き、そのまま四万十川に飛び込む。そしてそのままカメラの元に駆け戻って来て停止ボタンを押す。

多くの場合、初めて橋の上から飛び込む人々は橋の上から水面を覗き込んでいくらかの「心の準備」を終えたうえでようやく飛び込もうとするだろう。私にそんな時間は必要ない。


念のため、私は川の中から橋のうえの子どもたちに早く飛び込むようにと手招きをしている父親らしき男の元に行き、今日の水深で大人が飛び込む事に問題がないかを確認する事にした。

彼は実に親切な男で、事情を説明すると、私が飛び込むべき(要するに最も深い)ポイントの詳細まで私にアドバイスしてくれた。最も深いところでも私のみぞおち位までしか深さがなかったが、実際に飛び込んでる人々がいるのだから問題ないんだろう。私は彼に礼を言い、カメラの元へと戻った。


彼によって飛び込むように促された何人かの子どもたちは既にその宿題を片付けて川の中にいたが、一人だけ、怖気づいて橋の上にしゃがみ込んでいる少年がいる。周りの大人たちが口々に早く飛び込め、と彼に促すのだが、少年はなかなか決心がつかないようだった。

私は彼が飛び込んでから作戦を開始することにした。いま、世界は明らかに彼を中心に周っていて、周囲にいる誰もが彼の一挙手一投足に注目している。私のダイブに誰一人関心を持つ必要はないが、少なくとも私のカメラに記録される映像の主役は私である必要がある。


結局、彼は飛び込む素振りを見せてはやめる、というような事を一時間近く繰り返したあげくに、飛び込む事を諦めた。川に飛び込む勇気がなかった事を恥じる必要はない。ただ彼は諦めるならさっさと五分で諦めるべきだった。


少年が橋の上で徒らに時間を浪費しているうちに、上流から色とりどりのカヌーに乗った集団までやって来た。一〇やニ〇ではない。一〇〇艘近くはいそうな集団だ。

体験カヌーに興じていたと思われる彼らは、私が三脚をセットしていたあたりにぞろぞろと上陸し始めた。彼らは慣れない手つきでカヌーを片付けようとするが、強化プラスチック製と思われるカヌーと河原の石がぶつかる音がボコボコとうるさい。

まぁ仕方がない。私は、彼らが一人残らずきれいにこの河原から姿を消すまで撮影を延期する事にした。


二時にはそこにいた私がようやく行動を開始した頃には、もう四時を過ぎていた。それはちっともかまわない。二時間以上も「日本で最後の清流」と崇められる四万十川で川遊びに興じるひとびとをぼーっと眺めて過ごすという贅沢なひとときを体験できた幸運に、むしろ私は感謝をするべきだった。いよいよ私はカメラの録画ボタンを押して駆け足で橋の上へと向かった。





何て事だ!二時間もそこを観察してたってのに、肝心なときに降下ポイントを少し間違えてしまった!

もちろんやり直しだ。





今度はほぼイメージ通りの出来だ。誰も伴わず一人であの「岩間沈下橋」に初めて乗り込み、周囲の視線をモノともせず、リハーサルもなしで、川原から橋まで駆け上がってノンストップで四万十川に飛び込む姿を、誰の手も借りず、三脚にセットしたカメラでビデオ撮影する事に成功した男はたぶん過去に一人もいなかったか、いても数えるほどだろう。


夕食は西条まで戻ってまた「天風」。今日は鶏ガラベースの「中華そば」。やはりニ九〇円。





※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/ラーメン天風 西条店]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 10, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

西条までやって来た私が石鎚山に登ることなくこの地を後にするなんて事はありえない。レンタカーを借りて一路ロープウェー乗場へ。

山頂の駅に着いたのは一〇時前だ。気温は標高一三〇〇米地点でも摂氏ニ七度。





下界に比べれば幾分ましとは言え率直に言って暑い。駅舎で小用を足したり売店で売られているカブト虫を観察してから出発したのはちょうど一〇時。

一五分ほど歩いて成就社に到着。形ばかりの参拝をしておみくじを引いたら「小吉」。





鳥居をくぐって登山道に入る。「登山道」のくせにしばらくは下り坂だ。ニ〇分ほど下って「八丁鞍部」に着いた先から、いよいよ登りが始まる。

石鎚山は基本的に「階段を登る」山だと形容されるべきだ。登山道の整備が行き届いているとも言えるが、私にとっては全くいい迷惑だ。普通の坂道なら最短の動きでステップを踏む事が出来るが、なまじ階段なんてものがあるとその分余計に脚を上げなければならない。

周りにほとんどハイカーがいないのをいい事に、ぶつぶつ文句をたれながら三五分ほど歩いて「度胸試しの鎖」の取っ付き地点に到着。





一般的に山で見かける鎖より一回り太くて逞しい鎖だ。この鎖場は登りよりも岩場の反対側の下りがきついので自信がなければ素直に巻き道を行け、といった内容の注意書きがあって、さっき私を抜いて行ったばかりの先客グループは、それを見てそそくさと巻き道の方へ行ってしまった。

少しばかりの小休止を兼ねて水分を補給してると、もう一組のグループが現れたが、彼らもその注意書きを見て巻き道へと消えた。私は何だかいけないことをしているような気分でその鎖に取っ付かなければなならなかった。

始めはスパイダーマンよろしく軽快に登って行った私だったが、程なくして適切な足場が見つからずに頭を悩ませるようになった。実際にそこを登る人々がそうしているのかどうかは分からなかったが、仕方がないので私は鎖の継ぎ目の輪っかを足場にしながら登る事にした。

たぶんその長さ四八米の鎖を登りきるのに私は五分以上も時間を費やしてしまったようだった。おまけに暑さのせいもあってそれを登り切った頃には肩で息をしているような始末だった。この鎖場を登りきるのに度胸は大して必要なかったが、相応の腕力と体力が必要な事は間違いなかった。

ちなみに鎖を登り切った岩のてっぺんは「前社森」という。敢えて苦難の道を選んだハイカーはその功績により、そうしなかった人々を随分と上から見下ろすという特典が与えられる。





私がそうしたのを見たからかどうかは分からないが、後続のハイカーたちはどんどんこの鎖場を登って来た。一五分ほどそこで過ごした私は喧騒を避けるようにその場を後にした。

ちなみに下りの鎖場がきついと注意書きにあったが、多少でも鎖場をかじった事のあるハイカーたちにとってそれは当てはまらないだろう。明らかに下りの方が足場は豊富だ。


前社森からはニ〇分ほどで「夜明峠」に到着。残念ながら目指す天狗岳はガスで見えない。





夜明峠から一〇分ほどで「一ノ鎖」の取っ付き地点。もう十分に暑さと階段のせいでへばってしまった私はおにぎりを頬ばりながら暫く休憩。





「一ノ鎖」は三三米と最も短い。あっさりクリアしたものの、私にとって熱中症の初期症状である「頭の血がドロドロした感じ」を発症。気づかない事にして前進を再開、「ニノ鎖」の取っ付き地点に到着。

「ニノ鎖」は長さ六五米。





ここでは先客がいい感じでもたついてくれたので、休憩を挟みながらゆっくりと登る事が出来た。


いよいよ「三ノ鎖」を上りきれば山頂だ、と思っていたら、「三ノ鎖」は工事中で使用不可。

迂回路は私に対する嫌がらせとして最強レベルを誇る鉄製階段。





弥山山頂には一三時一〇分に到着。前社森や鎖場の手前で随時休憩を挟んでいるとは言え、標準タイムより一〇分遅れ。





もっとも、私にとって石鎚山の山頂とは最高点である「天狗岳」のてっぺんにほかならず、弥山はただの通過点に過ぎない。ハイカーたちで賑わうそこをさっさと素通りして私は一路「天狗岳」へ。

弥山から天狗岳に至る稜線は、私の持っている古いガイドブックによれば「ナイフリッジ」と紹介されているが、私がその権限を以って正確に表現するならば、れっきとした「尾根道」だ。ただ一部だけ、崖に向かって斜めに切れ落ちた露岩部を通過しなければならず、ハイカーによっては足のすくむ思いをする事もあるだろう。





コース上、概ね稜線部にあたる「岩」の南側には巻き道が付けられている。多くのハイカー、と言うか、私が目にした全てのハイカーはそちらを歩いていたが、プロセスを重視するハイカーなら堂々と岩の上を歩こうとするだろう。必要と思われる箇所には十分過ぎるほど足場も手がかりもしっかりとある。

天狗岳(一九八ニ米)に到着した私はさっそく三脚とカメラを取り出して記念撮影だ。





南尖峰まで足を延ばして山頂を独り占めしながら昼食。二人組のハイカーがやって来たので挨拶を交わして早々に退散。


帰路はロープウェーを使わず天柱石を経由して西之川まで歩いて下るつもりで夜明峠へ。八丁方面に戻る道を分けて右に折れる道に足を踏み入れた私は三歩進んだところですぐさま引き返した。

トミーのおかげでトラウマを抱えた私にこんなヤブ道は荷が重過ぎる。





実に四.五リットルも持ち込んだ水分も全て使い果たし、暑さと階段のせいでよれよれになりながら成就社まで辿り着いた私は、たまらず売店に駆け込んで「みぞれ」味のカキ氷を注文。その美味かったことと言ったら何に例えればよいのか私にはさっぱり見当がつかない。





ただし、それまで熱中症寸前まで体温が上昇していた体にいきなりカキ氷をたらふく掻き込んだ事で、私の体温は一気に下降して肌寒さまで感じた。代謝や心臓の働きに問題のあるハイカーはたぶん私のまねをするべきでない。

どこかの国の首相のように、すぐにお腹を壊すような人々も同様だ。


充実したハイキングを終えて西条のホテルに戻った私は、早速パソコンをインターネットに接続して、どこで夕食をとるべきかのリサーチを開始した。

色々調べてみたが、地方の寂れた町ではありがちなように、どうも私をして是非訪ねてみたいと思わせるような適切な店が見つからない。

面倒くさくなった私は、たったニ九〇円でラーメンを提供しているという経営努力を意気に感じて「天風」というラーメン屋を訪問してみる事にした。

注文したのは「とんこつしょうゆラーメン」。それだけではちょっと物足りないかと「味玉(一〇〇円)」をトッピング。





それが私の手元に届けられるまで全く想定してなかったのだが、まずニ九〇円のくせに味玉が半個分はじめから乗せられてるじゃないか!

そしてニ九〇円のくせに麺は全て自家製の無添加らしい。ニ九〇円のくせに叉焼もきくらげも全く手抜きを感じない。そしてスープも申し分ない。

そのラーメンより美味いラーメンを提供する全国のラーメン屋を私はたしかに何件も知っている。だがそれをニ九〇円か少々甘く評価してもそれに近い値段で提供出来るなんて店すら、私の知る限り皆無だ!私は必ず明日の夕食にもこのラーメン屋を訪問する事を固く心に誓った。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/ラーメン天風 西条店]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 9, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

ビジネスのために昼から西条に移動しなければならないが、午前中は松山城で時間つぶしだ。

松山城は標高一三ニ米の山の上にあって、多くの場合、観光客はロープウェーでそこを訪れるようだが、私は宿泊していたホテルから最も近い「古町口」から歩いて登った。一五分も歩けば門(乾門)にたどり着くが、猛暑のせいで既に全身汗まみれだ。

「大天守」は国内で一二のみ残存すると言われる、徳川幕府時代に建造された天守閣のひとつだ。もっとも、同じように現存している姫路城や彦根城のそれに比べると小ぶりで華やかさに欠ける。





平野部にある山稜を利用して建てられた城郭を「平山城」といい、この松山城は「三大平山城」のひとつに数えられてもいる。わずか三階建てであるにも関わらず、天守からは松山市街を越え、はるか瀬戸内海まで見渡せる。





県庁側に下城して、昼は五志喜で「宇和島鯛めし」。





「吉」と食べ比べというわけでもないが、こちらは生卵ではなく山芋でとろみを出すスタイルだ。まぁ美味ければ何でもいい。





※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/郷土料理 五志喜 本店]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 8, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

ビジネスのために昼から松山に移動しなければならないが、午前中は高知城で時間つぶしだ。

高知城は江戸時代初期に築城の名手として知られていた百々越前守綱家(どど えちぜんのかみ つないえ)によって建造された城郭で、天守閣は外観四重、内部は六階建て、創建時の姿をそのまま今日に伝える国内唯一の天守閣であるともされている。





高知や土佐と聞いて坂本龍馬や板垣退助の名前を挙げる事は出来ても高知城の城主の名前が淀みなく頭に浮かぶような教養に満ちた人物はそうはいないだろう。例えば奥さんにへそくりの小判一〇枚で馬を買ってもらった事で知られているのもここの殿様だ。

城内には出土品から家具調度の類まで様々な品が展示されている。なかには一部のオーストラリア人の目には決して触れさせてはならないような過激な模型もある。





城内を一周したら例によってひろめ市場へ。昼食はもちろん明神丸。


その後、松山に移動して手短にビジネスを終え、急いで向かったのは「鯛めし」を提供しているという「吉」。一〇時閉店のところを九時に入店。

カウンターに着席した私は、まず中味は親父におまかせにして刺身の盛り合わせとビールを注文。ほどなくして出て来たのがこれ。





親父曰く全て天然もの。いきなり鱧が付いてくるというのも驚きだが、そればかりか天然ものの鯛に加えてオコゼまで盛られている。

天然オコゼの放つ眩いまでのこの輝きを見るがいい。





私はたしかオコゼを造りで頂くのはこれが初めてだ。天然オコゼの造りは、何とも言えない歯ごたえと甘みで私に至福のときをもたらした。


最後にいよいよ鯛めし。





私が「鯛めし」の存在を知ったのは、松山に着いてからホテルにチェックインし、インターネットで愛媛にミカン以外の名物は何かあるのか、を調べていた時だった。わずかその数時間後に対面を果たした「鯛めし」の衝撃的なまでの美味さを私は生涯忘れる事はないだろう。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/鮮魚旬菜 吉]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 7, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

ビジネスのために高知に降り立った私は、何はさておき昼食のために「ひろめ市場」へ。

一目散に「明神丸」の行列に並んで、カツオの塩タタキとたれタタキがセットになった「塩・タレ盛り合せ定食(九八〇円)」をオーダー。





およそ四年ぶりの訪問になるが、その美味さは微塵も揺らぐ事がない。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/明神丸 ひろめ市場店]


手短にビジネスを終わらせ、夕食もひろめ市場へ。

夕食には、高知出身の友人に勧められた「チャンバラ貝」とウツボのたたき、唐揚げあたりを注文。店の名前は「ぼっちり」。





チャンバラ貝は、姿かたちがあの恐ろしいアンボイナガイを彷彿とさせるが全く別種の貝だ。身を串で刺してツルンとひねり出す。





食感も味付けも素晴らしいのだが貝料理としてはかなり小ぶりなので、少々もの寂しさを感じないでもない。


次に箸をつけたのはウツボのたたき。





率直に言ってこれはかなり美味い。カジキをもう少し脂っぽくした感じの食感だ。手元のポケット図鑑によれば、小骨が多いために食用にする地域は限られているらしい。

続けてウツボの唐揚げ。





最後はドロメで締め。一般的には「生しらす」と呼ばれている鰯の稚魚の事で、ハゼ科の同名の魚とは全く別物だ。





※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/鰹処 ぼっちり]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。




August 3, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

今日はさいたまアリーナで恐竜ショーの鑑賞だ。「ウォーキング・ウィズ・ダイナソー(Walking with Dinosaurs)」と銘打たれたそのショーでは「実物大の」恐竜の模型たちがステージ中を所狭しと暴れまわるという触れ込みだ。

開演間近の客席はほぼ満席。





だちょうサイズの恐竜たち(の「模型」)はスーツアクターによって実にリアルな動きをする。もっと巨大なやつら(の「模型」)は、地面の模様をした床に擬装されたソーラーカーのような車によって滑るように動く。

私のお気に入りの「アロサウルス」は車で動くタイプだ。





ブラキオサウルスはとにかくデカ過ぎて、あの凶暴なアロサウルスも全く歯が立たない。

手前に立ち尽くしているのは案内役のハクスリー博士(アンドリュー・ルイス)。





ハクスリー博士は研究のためなら恐竜のクソにも喜んで手を突っ込む。

後半の部の冒頭、スポットライトを浴びて観衆の視線を一身に浴びながら、気合いを入れてクソの中に手を突っ込むハクスリー博士。





舞台の終盤にいよいよ真打「ティラノサウルス(Tレックス)」が登場する。

よろい竜「アンキロサウルス」に猛然と襲いかかるティラノサウルス。





ティラノサウルスが客席に睨みを効かせると一斉に撮影が始まり、カメラの撮影ランプがそこら中で点灯する。

尚、「恐竜が驚いて暴れ出してしまうので」フラッシュ撮影は固く禁止されている。





登場する恐竜たち(の「模型」)はオーストラリアの技術者集団によって製作されたらしい。

客席からただ鑑賞するだけでもいいのだが、双眼鏡を持ち込んで一体一体の恐竜(の「模型」)をよく観察してやると、その造りから動きに至るまでの再現性の精巧さがよく分かるだろう。


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。



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