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April 14, 2013


やぁ、諸君。私がプッシー大尉だ。

よい子は自然災害の脅威について学ぶ時間だ。その前に腹ごしらえを、と向かった店のシャッターの貼り紙。




別にいつも利用してないが、実に迷惑というか、まぁ残念だ。

もちろん、私ほどのベテランになればこんな事態は常に想定内だ。プランBは長崎ちゃんぽん。





※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/川端家 本店]


腹を満たしてから向かったのは、報道陣が、他社に負けない「いい画が撮りたくて」陣取った、彼らが「定点」と呼んでいた場所だ。山頂付近の溶岩ドームを捉えるには絶好のポイントだったが、同時にそこは地形的に火砕流にとっても格好の通り道だった。




三角碑の建てられた「定点」は既に造成されていて当時の面影はない。山頂からは 4km 離れているらしいが、実際にそこに立ってみると、山頂から崩れ落ちた火山性物質が一気にここまで到達するとはにわかには信じがたい。ちなみに実際には、それはさらに 2km 海側にまで到達した。

そのとき発生した火砕流は、時速 80km 程度で山肌を滑り落ちて来たと言われている。とすれば、(全てが公式通りに運んだとして)それが「定点」に到達するまでかかった時間は三分。そこからさらに 2km 海側に到達するまで一分三十秒。

仮に誰かが「定点」から直線的に海側へ走って逃げていたとしたら、いかに絶好のスタートを切っていたとしても、時速 26km 以上で五分近く走り続けなければ逃げ切る事は出来なかった、と言えば、いかにその日「定点」に陣取っていた人々が、その時点で既に絶望的な運命にあったかイメージが湧くだろうか。

もっとも彼らを飲み込んだ「一番大きな」火砕流が発生したとき、「定点」にいた人々は、数分前に起きた別の火砕流に巻き上げられた火山灰で既に視界を失っていたらしい。彼らは結果的に彼らを飲み込む事になった火砕流の発生を知らないまま、それに飲み込まれてしまったかもしれない。


次に訪問したのは、また別の日に起きた火砕流の「熱風」に襲われた小学校の校舎跡。





一五年近くも吹きさらしにされている割に保存状態はすこぶる良好だ。

「熱風」が一瞬のうちに過ぎ去ってしまった事を示唆するかのように、その外観は一見、熱によるダメージを受けた建物のそれとは思えないが、近づいてみると窓枠がぐにゃりと曲がっていたり、雨どいが熱で溶けていたりする。

室内を覗くと、そこにあったはずの物質がセメントや金属を残してほぼ焼失してしまっていて、外観とのあまりのギャップに驚く。


最後に「雲仙岳災害記念館(がまだすドーム)」でおさらいをする。





復興費という名前の多額の税金でも投入したのか、寂れきった港町には不釣合いな近代的で立派な建物が訪問者を迎えてくれる。


入館すると、まずノスタルジックな制服に身を包んだコンパニオンがべったり横について火山のしくみのあれこれについて解説をしてくれる。いくらか棒読みに聞こえる語り口はともかく、プロ意識に長けた彼女たちは、そのとても長い解説を一文字も間違えずに丸暗記している。

館内は火山災害に興味のある者にとって魅力溢れるコンテンツばかりだが、特に「平成大噴火シアター」はエキサイティングだ。多くの公共事業がそうであるように、まるで採算度外視の、ユニバーサルスタジオの大人気アトラクションも顔負けのとても素晴らしい出来栄えだ。


夕食は二日続けて○龍。今日は「香味塩らーめん」。





悪くないが、率直に言って、私は豚骨(まるたつらーめん)の方が好みだった。


※詳細 → プッシー大尉烈伝 [美食編/○ 龍]


何か質問は? OK。諸君の健闘を祈る。

以上だ。
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