1:04 2013/03/17
banner_top | Home | Military | Trekking | Gourmet | Life | Contact |
File No. 0021:「一回戦負けしろ」発言の吉田清一滋賀県議はそんなに悪い事をしたのか
県代表の高校野球チームを乗せたバスの停車位置を巡ってトラブルになったあげくに「お前らなんか一回戦負けしろ」という「暴言」をはいたとされる滋賀県議について、「辞職するべきだ」という内容の抗議の電話が議会の事務局宛に数百件かかって来たほか、所属会派の控室にはカッターナイフの刃が入った封書まで届けられたようです。客観的に見てどっちもどっちとしか思えないくだらないトラブルに対する市民の反応は、この県議に対する一方的な「数の暴力」とも言える事態に発展しています。

メディアに対する対応や、会見の場で釈明と称して展開された幼稚な屁理屈を見ていても、問題の県議が品格にも知性にも欠けた分際でいたずらに傲慢な、いかにも人々に嫌悪感を抱かせることしかできない醜悪な人物であることに疑いの余地はないのですが、だからと言って、ただそれだけの理由で、仮にも正規の手続きを経て民主的に執り行われた選挙によって選出された議員に対して安易に辞職を強要することが許されるわけではありません。

私たちはこの県議が「不愉快な人物」であるかどうかに惑わされることなく、本当にこの県議が辞職に値するほどの悪行をはたらいたのか否か、フェアーな視点に基づく冷静な検証を行うべきなのです。
 


事の発端は、野球チームを運ぶためのバスが乗り降りのために駐車禁止の場所で停車していたことにある、とされています。県議を攻撃する人々の主張を読み解いていくと、まず駐車禁止であっても停車禁止ではないのだから問題ない、という意見が目立つようですが、そんなのはただの法律論に過ぎません。制限速度が時速六〇キロメートルの車道を時速二〇キロメートルでチンタラ走ったからと言って「明らかに違法」というわけではありませんが、そんなのは周囲のドライバーにとっては迷惑行為でしかないのです。

この一件を行列への割込みとか歩きタバコと同列の「マナーの問題」として考えた場合、ただでさえ大きな車体が邪魔なバスの停車の仕方が、そこを通行したいほかのドライバーに対する配慮に欠けた一人よがりで迷惑なものであったなら、そこを通りがかった側が罵り声のひとつも上げてみたくなったとしても、それは全く自然なことだと言えます。この問題に関してどうしても「悪者探し」をしたい人々は、まず、その「公共の乗り物ではない」バスの停車の仕方が、そこを通る人々にどれほど迷惑をかけるものだったのか、にもっと関心を向けるべきなのです。
 


問題の停車場所は、県の教育委員会が指定した場所であった、とされています。県議を攻撃して楽しんでいる人々は、だから球児側には何の非もない、と主張していますが、それはまったくその通りです。ところで問題の県議は、「誰に許可を得たのか!?」と威圧的な態度で声を荒げたことが問題視されているようですが、それはバスに乗っていた関係者の誰かが「許可を得ている」と口答えをしたことに対する反応なのであって、まったく正当で的を射た「質問」でしかありません。

周囲の迷惑も顧みず天下の公道に堂々とバスを停めていい、なんて「許可」を誰かに出す権限を持っているとか言う、神様も真っ青の大物とはいったいどこのどいつなのか?間違っても、教育委員会のいち担当者風情にそんな権限はありません。いったい誰が?という当たり前の疑問を抱いた県議をして怒鳴らしめたこの部分については、そんな事すら理解できずに県議の「質問」を誘発してしまった「関係者」の対応と頭の程度にこそ問題があるのです。ついでに、なぜ、教育委員会のいち担当者ごときがそんなエラそうな「許可」を出す仕組みが滋賀県では堂々とまかり通っているのか、人々が関心を払うべきなのは、むしろそちらの方なのです。
 


バスを停めたのは球児ではないので、一回戦負けしろ、というのは暴言だ、という主張も目立ちます。しかしあくまで県議が「暴言」をはいた相手は球児ではなく、対応した学校関係者であったとされており、それは釈明会見の場で県議が強調していた事実でもあります。

一般的に学校関係者は自分の学校の野球チームが勝ちあがることを希望してチームと活動を共にしていると考えられる以上、学校関係者は客観的にみてこのチームの一員とみなされるのが妥当でしょう。プロのスポーツチームが選手だけではなく、監督、コーチからトレーナー、雑用係のスタッフも含めて構成されるのと同じことです。

そして県議は「チームの一員である」関係者らに対して、周囲の迷惑に配慮できない思い上がったクソのようなお前らなど一回戦で消えていなくなればいいザマだ、と言ってのけたのです。まして、もし関係者の誰かが「代表チーム」が問題のバスに乗車していることを盾にして県議を黙らせようと自らその事実を明かしたのであれば、県議の怒りは猶更のことでしょう。県議の側にしてみれば、代表チーム「様」が県民に少々迷惑をかけたくらいでつべこべヌカすな、と言われたのと同じことなのですから。

様々な異論はあるにせよ、最終的に本人が球児に対してではなく対応した関係者に対してその言葉を吐いたのだ、と主張しているのですから、あくまでその「暴言」が球児に対するものだ、と言い張る反県議派の人々は、そうしたいのならば県議の主張を覆す明白な証拠を提示するべきです。それが出来ないのならば、彼らはすごすごと大人しく引き下がるほかありません。
 


そのうえで、高校球児に「負けろ」という言葉を浴びせることが、それほど非難に値する行為なのか、を考えてみましょう。たとえばジャイアンツ対タイガース戦を観戦しているジャイアンツのファンは「間接的に」タイガースが負けることを望んでいます。逆もまた然りです。つまり、対戦型のスポーツに興じる人々にとって、自分たち(のチーム)が負けることを希望する一定数の人々の存在は避けて通れない運命なのです。

仮に多くの人々が言うように、路上で人目も憚らず怒り狂う精神病まがいの初老の男に「一回戦で負けろ」と罵られた位で動揺したり傷ついたりするような貧弱なメンタルの選手がいるのだとしたら、そんな選手は、チームの勝利のために本気で取り組むチームメートたちにとっては、ただ単に自分たちの足を引っ張るだけの腹立たしい目障りな存在でしかないでしょう。

要するに自分たちのチームを応援してくれる人々こそ「間接的には」意地悪く対戦相手の敗北を願うなかで行われる「一回戦」に望むにあたって、たった一人の変な男に「一回戦負けしろ」と言われたくらいで心が折れるようなチームなど、所詮、そもそも一回戦を勝ち上がる資質も資格もないチームなのです。

それが人種差別や出生地にからむ差別を含むものならともかく、たかだか「一回戦負けしろ」という言葉が「暴言だ」と主張して球児たちの心理状態を過度に心配しているような人々は、結局のところ、本気で勝つための努力に取り組むアスリートはそんな雑音にいちいち惑わされないという一般的な事実を知らない、言い換えれば、たぶんそれまでの人生のなかで「本気の努力」に取り組んだ経験のない、その程度のランクの人々なのです。
 


同じ県を代表するチームに「負けろ」とは何事だ、という感情論にいたっては考慮する価値もありません。学校であれ県であれ国であれ、自分が所属する集団を代表するとか言う、好きでそのスポーツに取り組んでる連中を応援する「義務」など誰にもありません。

私には顔立ちの整ってない日本人女子レスリング選手とキュートな東欧圏の女子選手が対戦していたら迷わず後者を応援する自由があるのと同様に、この県議には、自分の県を代表するチームであっても「負けてしまえ」と思う、基本的かつ神聖不可侵な権利があるのです。
 


冒頭でも取り上げたとおり、この県議がわざわざ開いた釈明会見とやらは、結局、この県議の人間性の低劣ぶりを必要以上に強調する効果しかありませんでした。なので私にも多くの人々がそれを見て不快感を催したその心情自体は理解できます。

しかし、だからと言って、そのことを改めて指摘しながら騒ぎ立てたところで、この県議は所詮その程度の人間なのだから仕方のないことなのです。例えばあの乙武とかいう障害者に手足がない事実を指摘したところで、今さら乙武に手足が生えて来るわけではないのと同様に、この県議の人格的な欠陥についてあれこれ指摘したところで、今さらこの県議の人格の改善など望むべくもないのです。

だからこのような男が県議を務めていることが気に食わない人々が攻撃の矛先を向けるべきなのは、この男本人ではなく、むしろこのような男をわざわざ選んで議員にしてしまう滋賀県民の方なのです。そうは言っても、人格的に優れた人物にしか投票してはいけない、などという決まりがあるわけではない以上、滋賀県民が、例えただ単に県の恥を全国に晒す以外の何の功績も見込めないような、どうしようもない男に選挙の度にせっせと投票するのだとしても、最終的にそれは滋賀県民の自由であり、彼らに固有の権利なのです。

結局のところ、議会制民主制度においては、こうした見るからに「不愉快な」人物が議員バッジを身に着けてふんぞり返っていたとしても、明らかに法に触れる行為が明るみにでもならない限り、多くの場合、人々はせいぜい腹を立てたり、無駄な電話代や切手代を使って負け惜しみの行動を実行に移すチャンス以上のものを与えられることはないのです。その事に納得できない人々とは、言い換えればそもそも自分が所属する社会が採用している政治制度の「欠陥を含む」本質を理解していない、単なる勉強不足の人々ということなのです。
 


仮にこの件で自分のことを「正義漢」だとでも思いこみながら一方的で無知な主張に明け暮れている人々が、三年後に行われるとか言う次の滋賀県議選までちゃんとこの一件の顛末と県議の名前を覚えていられる「まともな」知的水準の人々だとして、あいにく次の選挙でもこの男が再選してしまったとしても、へぇ、滋賀県民の民度ってその程度なんだなぁ、とインターネットの記事を紅茶でも飲みながら読んで鼻で笑うのが、地方の自治や独立の謳われるこの社会に暮らす人々にとってのあるべき態度なのです。この男が落選したなら、あぁ、滋賀県民の民度も少しはマシになったんだなぁ、と心の中で褒めてあげればよいのです。

そんなことよりも私が気になるのは、このような場末の小競り合いにいちいち激しい興味を示す、全国に溢れ返る偉大なる「正義漢」どもが、ところで甘利元大臣の一件をいったいどう評価しているのか、という事です。

甘利の一件は、国務大臣の秘書が立場を悪用して国庫から支援企業に金銭を流出させようとしたうえ、大臣本人も現金の入った封筒を悪代官よろしく「こっそり」スーツのポケットに仕舞った事実が疑われる事案です。街中でトラブル相手に「捨て台詞」を吐いただけの田舎議員には怒りを露わにするくせに、この、病気と称して逃げ回る犯罪容疑者らのことなど、とうに忘れてしまっておくびにも出さないような、そんないかにも恣意的で知恵足らずな市民がこの社会に大勢暮らしているのであれば、私はそのことの方をむしろ憂慮するのです。


−プッシー大尉烈伝−[人生編/コラム]に戻る >>> 
Copyright (C)2011 Lt.Pussy All Rights Reserved.