1:04 2013/03/17
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File No. 0020:女性にとって子供を二人以上産むことは何よりも大切なのか
ある中学校の校長が全校集会の場で「女性にとって最も大切なことは子供を2人以上産むこと」「(子供を産むことは)仕事でキャリアを積む以上に価値がある」などと発言した、とする匿名の通報が教育委員会に寄せられ、現在この校長に対する「処分」が検討されている、と報じられています。少し前には、議会における保育士不足に関連する議論の場で、未婚の市長とは同じ土俵で議論できない、と発言した市議会議員も処分されていたような気がします。

校長の発言の背景にあるのは、この国の少子高齢化問題であると判断できます。少子高齢化を解消するためには女性が出産するよりほかないのですから、一般論として社会全体にこの少子高齢化問題を何とかしなければならない、という暗黙の合意があるのであれば、それを耳にして不快に感じる一部の人々の心の動揺はさておき、むしろこの校長の発言は提示されてしかるべき、言い換えれば目新しさも何もない、常識的でありきたりなつまらない意見表明でしかありません。

このような、言わば「当たり前の」意見が公職の人々から発信される度に、それに反発する、恐らくは子供を産めないか、そもそも結婚できない層を中心とする市民からのものと強く推測される「抗議」という名の怒りが表面化するのですが、仮に彼らが、子供を産むことは「悪いことだ」という信念で行動しているのであれば、その言動には一定の筋が通ってるし、納得の行くまで好きなだけ戦えばいいでしょう。

ですがその一方で、彼らが子供を「産みたいのに」産めないとか、「結婚したいのに」出来ない人々なのであれば、ついうっかり出産や結婚を肯定する意見を表明してしまって火だるまになる公人と、根底の部分では同じ立場にいるのですから、その怒りは結局、自分がそれを成し遂げられないことに対する単なる「八つ当たり」に過ぎないのではないでしょうか。
 


ところで、ひとつだけはっきりしていることは、子供を残せない個体は生物学的には明らかに「敗者」だ、ということです。人間も数ある生物のうちの一種類に過ぎないのですから、たとえ「人間はほかの動物とは違う」と強弁する人々が現れたとしても、それはただ単に「人間」という存在をとらえるにあたっての立脚点の違いに過ぎないのであって、少なくとも子供を残すことが出来なかった(人間を含む)あらゆる生物個体は、そのまま生物界の法則に則って、遺伝子ごと淡々と「淘汰される」個体なのだ、という冷淡な事実をひっくり返すことは出来ません。

結婚して子供を産み育てるという過程に至上の喜びを感じる多くの人々は、別に「社会に強制されて」るわけではなくて、ただ単に自分の遺伝子をベストな形で遺すことを追及するように仕組まれた本能に基づいてそのように感じているのですから、それが出来ない人々がどんなに、その自然な感情、価値観を否定して社会的なコンセンサスを得ようと試みても、「火は熱くないよね」と言っているようなもので、まるで要領を得ない、見当違いでマヌケな試みでしかないのです。
 


ところで私たちがひとつだけ忘れてはならない事は、生物学的には「敗者」に位置づけられる人々だからと言って、社会的にも「敗者」で尊重するに値しない人々だとは限らない、ということです。私の周りにも、妙齢にさしかかっていながら結婚にたどり着いていなかったり、「人工的な措置」を含めたいろいろな努力に取り組んでいるけれども子供を授からない夫婦がいますが、みな、私にとっては素晴らしい友人たちであり、当然のことですが、私は彼らを社会的な「敗者」として見下すように接したことは一度もないし、いついかなるときでも私にとって可能な限りの敬意をもって接するように心がけるのです。

それは彼らが、(少なくとも私の前では)結婚や出産を肯定する人々の価値観を否定するような態度を一切取らない、いわば自分とは違う立場に立つ相手であっても、その価値観を「尊重する」ことのできる「良識ある」人々だからです。彼らが、公職にある人物が自分たちが実現できない「生き方」を肯定したからと言って因縁をつけて騒ぎ出すような、愚かで傲慢で知性の欠落した、社会的にも「敗者」の域を抜け出ることが出来ないであろう人々とは一線を画した存在だからです。
 


百歩譲って、校長の発言がある種の価値観の押し付けによって学生に悪い影響を与える、と糾弾する人々の屁理屈に付き合うならば、同時に校長が提示した価値観に感銘を受けて勇気を新たにした学生に与える将来的な「良き影響」を淡々と取り上げるまででしょう。

一部の人々の権利とやらを過剰に評価する事に執着するあまり社会を俯瞰することが出来ない哀れな人々は、世の中には勉強が出来ない子供もいるのだから学校の先生が「しっかり勉強しましょう」と口にする事すらけしからん、とか、人間関係をうまく築けない子供もいるのだから「みんなと仲良くしましょう」と発言することすら許されない、と言うのと同じくらいバカな主張を自分たちがしていることに、できることなら生きているうちに気付くべきなのです。

実際、これらの「子供を持てない」人々の問題の構図は、かつての「ゆとり教育」を想起させます。勉強ができることは「悪いこと」ではないにも関わらず、勉強ができるに越したことはないにしても僕(わたし)は勉強が出来ないなぁ、という子供たち(やその親)に過度に配慮して、実に安易に勉学の意義を軽んじる政策を導入してしまったばかりに、この国の教育機関は、全員とは言わないまでも少なからぬ数の「出来の悪い」若者を社会に放出する羽目になりました。

私が言っているのではありません。結局は政策を転換せざるを得なかった国が「暗に」そう言っているのです。一般的に、社会へと旅立つ前の青少年期にしっかりと勉強をしておくことは、「社会のため」にではなく自分自身のために有益な「美徳」でしょう。ある美徳について行けない人々の存在に目を向けすぎるあまり、そのような美徳そのものを人々から奪ってしまった迷惑きわまりない典型的な悪例として、この政策は歴史にその名を刻むことでしょう。
 


もっとも私は、校長の意見は、それはそれとして「尊重されるべき」だとは思いますが、その意見が唯一の正解であるかと問われれば「ノー」と答えるでしょう。社会の在り方を考える前提として、この校長は、現状の人口が維持されるか、あわよくば増加することだけが、社会を豊かにする唯一の方法だと決めつけていますが、必ずしもそうとは限りません。

とは言っても、一般論として、多くの人々が結婚や出産というプロセスを踏むことが、社会にとっても本人たちにとっても良い結果や幸福をもたらすであろうと強く推測される以上、この校長の発言は、何も的外れなものではありません。少なくとも議論の出発点として、それを世に問うだけの価値のあるひとつの考え方であり、それが出来ない人々が「気分を害する」といった勝手な事情でもみ消されてしまうべき軽々しい意見ではないのです。

そのうえで、人口減社会においては本当に豊かさを追求することはできないのか、あるいは各夫婦にとっての育児戦略−1人の子供に集中的に投資するのか、2人の子供に投資を分散するのか、あるいはそれ以上の「量」を確保するのか−にまでテーマを広げ、校長の意見に対して自分なりの仮説や検証をもとに堂々と議論を挑む人々を、私は尊敬の眼差しで見守ることでしょう。

その一方で、「配慮」などという言葉を持ち出して、公人がただ単に自分の意に沿わない意見を発すること自体が「許せない」といきがる身の程知らずの市民など、それぞれに多様な価値観を持つ人々が共存し合わなければならないこの社会にとっては駆除されるべき「害虫」でしかない、というだけの事なのです。


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