1:04 2013/03/17
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File No. 0019:道徳とは法律より尊いものなのか
広島県の教育委員会が作った小学校高学年向けの「道徳教材」をコラムで取り上げた憲法学者がインターネット上で罵られています。

問題の教材は、二〇一四年度だけで教育現場において八五〇〇件の負傷事故が起きたとされるほか、一二年度には全身不随の後遺症をもたらす事故も発生している「組体操」に取り組む少年たちの物語を通じて、作成者いわく「相手を思いやる心」や「相手をゆるす心」、「相手を許さない、という行為が集団に与える影響」を子供たちに教えようというもので、「ピラミッド」の下段にいた児童のミスで転落して肩を骨折した「組体操に全ての情熱を注いでいた」少年が母親の説得に応じて最終的にミスをした児童を許す気持ちになる、というシナリオで構成されています。
 


憲法学者は「法律よりも道徳が大事なのか」と題して、学校側の安全管理上の法的責任が問われてしかるべきストーリーの中で、そのようなことには一言も触れずに「団結すること」や「他者を許すこと」の美徳だけが強調されるような教育でいいのか、という当たり前の問題提起をしているのですが、インターネット上には例によって頭の不自由な大勢の人々からの「小学生に法律を教えてどうする」だの「道徳教育と法律の教育は別だ」だの、あげくのはてには「ミスした生徒は悪くない」といった、憲法学者氏の文意をまるで理解できていないことを自ら露わにしたノータリンなコメントがあふれ返っています。

それらのコメントのうち少なからぬ数のものが、憲法学者が「ミスをした相手を許す」なる美徳を否定している、という目もあてられないような誤解(という名の読解力不足)から発生していると思われ、それらのコメントが醸し出す格調高い自信に満ち溢れた−率直に言えば「エラそうな」−論調とのギャップを見るにつけ、失笑を禁じえません。
 


知能水準が一定以下の人々にそれが理解できるかどうかはともかく、そのコラムで憲法学者氏が指摘しているのは、教育機関の不法行為を道徳の名の下に児童同士の問題にすり替えてうやむやにしてしまうような教育を当の教育機関が行うことに対する不信感であり、「道徳」という名の、法律に比べてきわめて主観的であやふやで出処もよく分からないような行動指針を、法律を差し置いて絶対視するようなことが教育の現場で行われていることに対する違和感であり、まして子供たちに対する違法行為への従属や黙認を助長するような「道徳」意識の刷り込みが許されるのか、という自然な疑問です。

会社の利益のために全員が一丸となってサービス残業に取り組もう、という、その会社内では美しいものとして評価されるであろう道徳観は「違法だ」という憲法学者が提示するたったひとつの例を見るだけで、数百人にも及ぶ口の悪い「道徳主義者」たちがこの学者に束になってかかって行っても勝ち目がないことは明らかです。
 


そもそも「道徳主義者」が持ち出す、小学校高学年の生徒に道徳教育は馴染んでも法律を教えることは馴染まない、とする主張には何ら正当な根拠がありません。文部科学省の定めた学習指導要領によれば、社会科において国の歴史に対する造詣を深め、政治や国際社会に対する国の役割にまで理解を求められる子どもたちが、「学校は児童に危ないことをさせてはいけません」という法律論すら理解できない、という「道徳主義者」たちの主張は、彼ら自身がかつてどれほど出来の悪い子どもであったかはさておき、まるで説得力を欠くものです。

道徳教育の時間に法律論を持ちこむこと自体については様々な議論があってもよいでしょうが、道徳を身に着けさえすれば法律には無関心であっていい、という教育が許されるわけがありません。違法性が問われる事例で違法性に何ら触れることなく「道徳」とやらのみを実践した親子が「お手本」であるかのごとく称賛されるような道徳教育が、あたかも法的な権利を主張することは集団の「団結心」を削ぐよろしくない了見であるかのような印象を子どもたちに与える危険性について、聡明な大人たちは慎重に検討するべきでしょう。そもそも実社会においては、子供たちに危険をもたらす大人たちの違法行為に目を瞑る、という行為自体が、最も不道徳な振る舞いとして批判的に取り上げられるべき卑しい行為なのです。
 


この憲法学者が指摘している通り、少なくともある程度の民主化が進んだ社会においては一定の手続きを経て普遍化されたものとして存在する法律とは異なり、「道徳」と呼ばれる行動規範はより恣意的で閉鎖的なものでありえるでしょう。婚前交渉を不道徳だと考える人々もいれば道徳的に問題はないと考える人々もいるように、個人の主観によっていかようにも変わりうるいい加減で多分に「宗教的な」価値観であるとも言えます。

特に「団結心」の名の下に展開される同調圧力は、場合によっては組織や体制にとって、そこに所属する人々を洗脳して都合のいい方向へと誘導するためのとても便利なツールとして利用されることは歴史が証明するところです。現実社会において、本人としては率先して自分が所属する組織や体制にとっての「模範的な人物」であろうとするその裏で、実際には組織や体制にとって都合のいいように利用されているだけの哀れな消耗品も、例の「道徳主義者」の中には少なからず含まれていることでしょう。

そのことは、人格の劣った人間は許してやっても反省して行いを改めるとは限らないという観点から導き出される、他人を「許す」という行為に固有の負の側面までフォローしない近視眼的な道徳教育の無責任さ以上に、体制側が行う道徳教育を無批判に受け入れる事のリスクという一面にも聡明な人々は注意を払うべきである事実を端的に示す分かりやすい一例なのです。


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