1:04 2013/03/17
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File No. 0018:老人への虐待をなくすことは出来るのか
神奈川県の老人施設で虐待を受けたとされる老人の家族がその様子を隠し撮りして警察署に提出した映像がメディアによって公開されています。

客観的な姿勢に徹して映像を見る限り、あまり聞き分けのいいタイプには見えない入居者の老婦人に対して「うるせぇ、死ねよ」といった暴言を吐くスタッフや、犬でもしつけるかのように頭を平手でたたくスタッフが鮮明に撮影されていて、インターネット上に設けられた投稿欄には、こんな虐待を許すな、これは暴行事件だ、お婆さんが可哀そう、といった立場の意見が多数寄せられているようですが、介護スタッフの劣悪な労働環境に根本的な原因があるという主張も少なからず見受けられるようです。
 


この施設では他にも短期間に三人の老人が次々と上階のベランダから転落死していて、一旦は事故として処理されていたものの、スタッフが故意に起こした「事件」ではないか、という線で当局も動き出している模様です。

それが事実だとすれば前代未聞の怪事件ですが、冷徹に現実を見極めて客観的に評価するならば、私たちがいま暮らしている社会とは、所詮そのような事件がいつどこで起こってもおかしくない社会だという事実に、そろそろ私たちは正面から向き合わなければならないのではないでしょうか。
 


こうした事件の背景にある高齢化社会の到来に対して、私たちは真剣に向き合っている、と言えるでしょうか。この五〇年あまりのうちに男性の平均寿命は六七.七歳から八〇.〇歳に、女性は七二.九歳から八七.〇歳といずれも二〇パーセント近くも延びています。寿命が延びると言えば聞こえはいいですが、本来死んでしまうはずの個体をチューブまみれにして無理に延命したり、薬漬けにして死期を遅らせているだけのようなケースも当然その中には含まれます。

自然界においては自力でエサにありつけない個体は間もなく死に絶えますが、一部の人間社会においては、本来、生きていくのに必要な身体機能が既に機能していないような個体すら、人工的な措置を施して−本人の意向には関わりなく−生き長らえさせることが美徳であるかのような奇妙な価値観が幅を利かせているのです。
 


問題は、その一方で、そうしたあらゆる意味で膨大なコストを要する「美徳」を維持するために「奉仕」するべき若い世代の人々の数が、今後、確実に減少していく、という事実であり、言葉を選ばずに率直に表現するならば、今後は自力で生活する能力のない高齢者はますます社会の足を引っ張るだけの「お荷物」になっていく、という事実です。

現時点においても、「介護離職」や「介護離婚」といったかたちで、それまでに築き上げて来たキャリアや平穏な人生を犠牲にしてまで老人介護に身を捧げることを余儀なくされる、とても気の毒な現役世代の人々が跡を絶ちません。

メディアによって「転落した」と評される彼らの人生を他人事のように認識している人々は少なくないのでしょうが、果たしてそれは現実を見据えた正しい態度でしょうか。あなたは本当に、彼らと同じ境遇に置かれて「転落する」ことも、あるいは彼らを転落させた老人たちと同じ立場に立つことで、あなたの身近な誰かを「転落させる」こともない、と言い切れるのでしょうか。
 


老人に対する虐待に関して、まず私たちが注意を払わなければならないのは、老人を一方的に「弱者」として扱う態度が本当に適切な態度なのか、ということです。なるほど、身体的な能力や機能という観点からは、彼らは弱い立場の人間かもしれませんが、それにふさわしい謙虚な人間性を備えている老人ばかりかと言えば、そんなことはありません。

最も分かりやすい例は、近年、その急増ぶりが話題を呼んでいる、駅員に対して暴力を振るう年寄りたちです。彼らは、自らの社会的な価値を客観的に評価することができないバカモノです。特段、社会からそうされるに値する背景など何も持ち合わせていないにも関わらず、彼らにとって、自分が周囲の人々から尊重されていないと感じることはおよそ許されないことなのです。

そしてとても残念なことに、頭が悪かったり、性分としてすぐに楽な方に逃げがちな、自分に対して「甘い」人間が最終的にそのような図々しい老人に成り下がってしまう最も大きな元凶は、そうすることが本当に正しいことなのかどうかもろくに考えずに、「年寄り」と聞けば何でもありがたがって「労わる」ことを推奨する私たちの社会そのものなのです。
 


介護の現場においても老人たちの暴言や暴力が蔓延していることは周知の事実ですが、なぜか社会には、そのことについて老人たちを糾弾する雰囲気もなければ、被害にあっている介護職員たちを助けようという声もあまり聞かれません。駅員に対する暴力の件にしても同じでしょうが、年寄は全て「弱者」という名の、何はともあれ保護するべき存在だ、という誤った認識が社会の隅々にまではびこり尽くしてしまっている何よりの証拠でしょう。

突然掴みかかって来るような凶暴な老人を取り押さえてケガをさせてしまったら「虐待だ」などと非難されてしまったら、「被害者」の人々はたまったものではありません。私たちは、ただ単に、虐待「とされる」行為に及んだ介護職員を問答無用で社会的に抹殺するのではなく、彼らの声にもきちんと耳を傾けるべきです。

最終的に虐待を受けてしまう理由が(ベランダから突き落とされるほどのものかどうかはともかく)本人の人間性にあるような年寄りが「必ず」いるはずです。私たちは「虐待」という密室で起こる事態について、それが起こる背景も含めて常にフェアーな視点を失うべきではないのです。
 


介護の現場の人々がほとほと手を焼いているであろう痴呆老人の扱いについても、私たちはそろそろ現実的な議論に着手するべきでしょう。 症状の程度にもよるのでしょうが、痴呆老人とはつまり物事の善悪の判断がつかなくなってしまった老人だ、と言い換えることが出来るでしょう。現行法においては人を殺しても罪に問われることのない精神病の人々と同質の存在だということです。なかには回復する例もあるようですが、ある程度進行してしまった痴呆は基本的に治ることはありません。

そこで私たちが真剣に考えるべきなのは、現時点においては健康である私を含めた多くの人々の中で、自分がそのような状態になり果ててしまっても生き長らえたいと考える人々がどれほどいるのか、ということです。

チューブだらけの寝たきり老人と同様に、自分では何もできない、あるいは−正常な判断力がないために−反社会的な行為に及んでも自覚がない、ただ周囲に手を焼かせるだけで自分ではお礼やお詫びを言うことすらままならない、そればかりか身近な人々の生活まで破壊しかねないような存在に成り下がってしまってまで生き延びたいと思うことは、普通のことなのでしょうか。もはや回復する見込みはない=二度とその状態から抜け出すことはできない、ということが分かっていた、としても。
 


私は、この社会において「尊厳死」に関する議論が深まらないことに苛立ちを覚えます。臓器提供の意思表示カードと同じように、この程度まで痴呆が進行してしまったら安らかに眠ることを希望する、という意思を表明し、その意思が適切に全うされる手段を用意することは、身近な人々−それは多くの場合、最愛の家族ということになるでしょう−の幸福な人生を破壊してまで、生きることにしがみ付くような見苦しい晩節を迎えたくない、と考える、たかだか一般的な範囲の良識を持ち合わせた人々にとって大いに救いになるでしょう。

「尊厳死」を合法化することに反発するのは、多くの場合、周囲の援助なくして生きることのできない重度の障害者を支援しているような団体で、彼らは「尊厳死」が合法化されることで、(周囲の支援を前提に)頑張って生きている重度障害者が差別と偏見に満ちた人々から「オッケー、あんたらもさっさと尊厳死しちまえよ」という圧力をかけられることになる、と主張しますが、そんな言い分は、−ただ単に取り越し苦労としか思えないということ以上に−彼らには「現に存在する」勝手に自分の死期を決めるな、という現行の法体系によって為される宗教的な価値観に基づく圧力によって苦悩を強いられている多くの人々の窮状を理解してない何よりの証拠なのですから、まるで取り合う価値のない、片手落ちの言い分と評価するほかありません。

障害者であれ何であれ、「尊厳死」を強要されない権利はもちろん担保されるべきです。そのことと、障害者(やその支援者)に、何らかの理由でそろそろ人生に終止符を打ちたいと考える他人の意思にまで図々しく介入する権利があるのかどうかはまるで別の問題なのです。
 


多くの場合、老人に対する「虐待」の背景には、その老人の面倒を見なければならない人々−身内か、賃金と引き換えにその役を引き受ける「お世話係」か、を問わず−が背負わなければならない負担の重さが関係していることは間違いないでしょう。そして皮肉なことに、その重い負担は、基本的には虐待を受ける側の老人本人が作り出したものに他ならないのです。

そうした客観的な事実に着目することなく、ただ単に「虐待はよくない」と唱えるだけでこれらの虐待がなくなるわけがありません。そのような視点に立ったとき、いずれ「老人」となる私たちが、−自分の身を守るためにも、そして周囲の人々の幸せのためにも−その良心に則って今からでも準備出来ることは、決して少なくないと私は思うのです。


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