1:04 2013/03/17
banner_top | Home | Military | Trekking | Gourmet | Life | Contact |
File No. 0017:私たちはてんかんという病気を正しく理解しているのか
またぞろてんかん持ちの男の車が暴走して大勢の人々が巻き込まれ尊い人命が失われました。てんかん持ちの支持者団体がてんかん持ちのイメージ向上のための広報戦略に懸命に取り組んでいる最中に起きた身内同士の足の引っ張り合いを冷めた眼差しで見つめている市民も少なくないことでしょう。

報道によれば、このてんかん持ちは事故発生当初「居眠り運転をした」と警察に供述する一方で自身がてんかん持ちであることは申告しなかったようで、後日、親族と主治医が警察に申し出たことで「てんかん持ち」であることが発覚しています。

私はこの親族と主治医の勇気ある正義の行動に敬意を禁じ得ないとともに、てんかん持ちであることを隠してハンドルを握ろうとする不届き者を悪質な飲酒ドライバーと同列にみなして厳罰の対象とする方向で実現した法改正が、そのような不心得者に対して周囲が社会的な圧力をかけるというその副次的効果という観点からも功を奏していることが再確認できたことを大変喜ばしく思います。
 


もっとも、そうした「てんかん持ち」の人々にとって都合の悪い事件や事故が起きる度に、社会においてそれにまつわる考察や議論が深まるにつれて、彼らは「差別が助長される」などと言って反発することでしょう。実際に、てんかん持ちのなかには、主に就職の場面で差別を受けた、と主張する人々が少なくないようです。

たとえばペットショップで子犬を選ぶときに、定期的に投薬しなければいつ引きつけを起こすか分からない子犬と、健康的で何も問題ない子犬の二匹が売りに出されていた場合、見た目や性格が同じであれば一般的な飼い主は後者を選ぶでしょう。

一度ペットとして子犬を迎え入れた飼い主は、その子犬が死ぬまで責任を持って飼育しなければなりません。同様に、一度採用した労働者の雇用や労働環境に法的責任を負い続けなければならない経営者が同じような基準で採否を決めることは、それがてんかん持ちやその支持者の人々が主張するように「差別」に該当するのかどうかに関わりなく、きわめて合理的な選択行為なのであって、そうすることは彼らにとって当然に認められるべき権利なのです。
 


もちろん、比較対象が健康ではあるけれども見た目が好みでない子犬であったなら、見た目を重視したうえであえて多少難のある子犬を選ぶ飼い主もいるかもしれません。言い換えれば、仮にてんかん持ちの人々であっても他者と比べて頭ひとつ秀でたスキルや人徳をそなえていれば、採用する側の目にも魅力的な人材として映るだろうし、十分に周りの競合相手とも勝負が出来るはずだ、ということです。

それはつまり、本来「てんかん持ち」であることだけを理由に企業に採用されない「てんかん持ち」など存在しないのであって、もし彼らが何をどうやっても就労の機会に恵まれないのだとすれば、そもそも彼らが「労働力としての魅力」を採用する側に感じさせることができない事実に根本的な原因があることの裏返しにほかならないということです。

そんなのは「やぁ、こんにちは。私は大した技術もない、ほかにいくらでも代わりがいるような人間で、おまけにてんかん持ちです」と名乗り出て来た応募者が採用担当者の目にはいったいどのように映るだろうか、と少しだけ注意深く考えてみればすぐに分かることなのです。

ところで持病に悩んでいる人々をペットショップの子犬に例えることは不適切だ、と主張する人々がいるでしょうか。当サイトにおいては、そのような動物愛護の精神やペットの尊厳を理解しない人々の言い分など一ミリたりとも考慮されることはありません。
 


てんかん持ちの人々に向けられる社会の視線は決して温かいものとは言えないでしょうが、私は今回のような事故が起きるたびに自分たちの立場だけを気にして不用意な発言に及ぶてんかん持ちやその支持者の人々の態度にこそ、その原因があることを信じて疑いません。

今回のような事故を二度と起こさないためにどういった社会であるべきか、といった議論になったときに、既に多くの人命が奪われているという目の前の現実にはまるで関心を払わずに、まずは社会が自分たちのことを理解するべきだ、などという他力本願な主張しかできない悠長な人々が「理解」の対象にならないことは、そう不思議なことではないでしょう。

もっとも私たちは、てんかん持ちの人々が展開しているなかで唯一取り上げる価値があると思われるロジック、「てんかんという病気が社会に正しく理解されていない」という彼らの声に対しては真摯に耳を傾けるべきです。もちろんその動機は、純粋にてんかんという病気のことを理解したい、というロマンチックなものであれ、奴らに一切つけ込む隙を与えるな、という多分に戦略的なものであれ、何であってもかまいません。
 


まず「てんかん」は遺伝性疾患でも伝染病でもありません。ハンセン病のケースでもそのような誤解に基づいた地縁や血縁レベルの「差別」が長年にわたって行われて来た、と言われていますが、当然ながら「てんかん持ち」であるという理由だけで彼らの人格まで否定するような言動は厳に謹むべきです。

てんかんは投薬によって五〇パーセントから七〇パーセントは治癒する病気である、とされています。つまり、現在「てんかん持ち」である人物が一〇年後もそうであるかどうかは誰にも分からないのです。その人物が過去にてんかんの発作を発症したことがあるからという、ただそれだけの理由で安易に「どうせお前は一生てんかん持ちだろう?」と言った態度で接するようなことは人として無知で恥ずかしい行為なのです。

また「偏見」に悩まされている、と主張するてんかん持ちの人々が指摘する事実のひとつに、てんかん持ちだからと言って全員が一様に白目を剥いて全身引きつけを起こしながら口から泡を吹いて倒れるわけではない、というものがあります。もちろん絵に描いたような発作の症状を起こすてんかん持ちの人々も少なからず存在する一方で、発作を起こしても顔面や手足のみといった局所けいれんしか伴わないてんかん持ちの人々も存在するという事実を、私たちは知らなければならないのです。
 


それらを正しく理解したうえで、まず投薬によっても治癒しないレベルの「てんかん持ち」が一定の割合で存在する事実を私たちは忘れてはなりません。一般的に発作の症状は「投薬によってコントロール可能である」とされている通説も、それを一〇〇パーセント保証するものではなく、当然ながら投薬による副作用のリスクも考慮しなければならないし、そもそも薬を飲み忘れるマヌケの存在も無視することは出来ません。 それに「てんかん」とは、いかに投薬や服用が適切であっても、睡眠不足や精神的ストレスといった「ちょっとした」てんかん持ち自身の事情に起因して発作が起こりうる病気なのです。

そして彼らが全身引きつけを起こして卒倒するのか、身体の一部がピクピク動くだけなのか、はまるで大した問題ではありません。けいれんが局所的であっても意識障害が起きているのであれば正常な運転を継続することは不可能でしょう。彼らがハンドルを握る事の是非を考えるときに私たちが重視しなければならないのは彼ら一人一人の症状の個人差ではありません。あくまでそのてんかん持ちがハンドルを握るにあたって本当に周囲の安全に対する責任を果たしうる人物なのか、というその一点だけなのです。
 


例えば主に都市圏の鉄道路線で導入されている「女性専用車両」は女性を痴漢の被害から守るためのものとされていますが、ならば痴漢だけを女性から隔離しておけばよいものを、全ての男性を車両から締め出すという明らかな「男性差別」によって成り立っています。

それは車内に溢れ返る男性たちのなかから痴漢だけをピンポイントでつまみ出すことが現実的に不可能だからでしょう。世の中にはときとして、本来許されるべきではないとされていながらも、誰かの安全な暮らしを守るためには避けられない「差別」が存在する、という分かりやすい一例です。

まして尻を触って来る気持ちの悪い男から一部の女性を守るために黙認される「差別」と、所構わず猛スピードで突っ込んでくるテロリスト顔負けの凶器と化した暴走車から老若男女を問わず尊い人々の命を守るために有用な「差別」、どちらが社会にとって存在してしかるべき、より合理的な「差別」なのか。仮にてんかん持ちに運転免許を与えることの是非を論じることが、てんかん持ちや支持者の人々が主張するとおり「差別」にあたる行為なのだとしても、私はその「差別」に取り組む人々を積極的に支持するでしょう。

そしてもしそうすることでてんかん持ちの人々が少しでも納得すると言うのであれば、糖尿病や心臓病を抱える人々がハンドルを握ることの是非についても、それらの病気に対する「正しい理解」のもとに深い議論が為されることを願ってやみません。


−プッシー大尉烈伝−[人生編/コラム]に戻る >>> 
Copyright (C)2011 Lt.Pussy All Rights Reserved.