1:04 2013/03/17
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File No. 0016:鳩山由紀夫の土下座は本当に日本の国益を害するのか
鳩山「ルーピー」由紀夫氏が抗日ゲリラを収容していた韓国の刑務所跡地で石の置物に跪いて「謝罪」の意を表明したことに、一部の日本人から轟々と非難の声があがっているようです。インターネットの情報サイトに設置された投稿欄には「国賊」、「犯罪者」、「売国奴」といった、およそ個人に向けられる言葉としては最上位に位置するものと定義されるべき罵詈雑言が溢れかえっています。

結論から言ってしまえば、個人が観光地に出向いていってどんな姿勢でどんな思いを表明しようが、その個人の自由です。そしてそれは一部の日本人がある個人を集団リンチよろしく口汚い言葉で罵る「自由」よりも尊重されるべき、一段階格調の高い「自由」なのです。

つまり大変分かりやすく例えるならば、そのことは仮に現役の首相であっても保証されるべき、国際的には過去における周辺国への侵略行為を美化しているとの呼び声高い、あの忌まわしい靖国神社にお参りする「自由」と同質の「自由」なのです。
 


私はルーピー氏が偉大な首相であったとは全く思いませんが、後に続いた三人、短気が災いして孤立した末に退陣に追い込まれてしまったり、何がやりたいのか分からないまま首相になって敵対政党にいいように利用された挙句に退陣に追い込まれてしまったり、あるいは単なる思い上がりの、様々な意味で病気持ちの現首相に比べればはるかにましだったと評価しています。

首相在任時代には日米関係を軽視するような言動で外交センスのなさを露呈しましたが、それは沖縄の基地問題を解決したいという思いが空回りした結果であって、彼が(その実力のほどはともかく)少数弱者の民意に寄り添う覚悟のある政治家であった裏返しでもあり、 さらに金銭問題で管理能力の甘さを露呈こそしたものの、賄賂性のあるお金のやり取りはそこにはなく、むしろ現与党に所属する古参議員に比べればはるかにクリーンなイメージを持つ政治家ですらありました。

結局のところ、利権に距離を置く一方で情に流されやすい理想主義者であるルーピー氏は、そもそも政治家に向かない人物だったのかもしれません。
 


知性のなさを剥き出しにしてインターネット上で誹謗中傷に湧く個人の書き込みとは対象的にメディアの論調は抑制的です。一部に謝罪の意思が国民の総意だと受け取られかねない以上、「元首相」という立場をわきまえるべきだ、というものもありますが、その主張は侵略行為に対する謝罪が「必要ない」と考える立場からの一方的なものに過ぎません。反対に、侵略行為に対する謝罪が必要だ、と考える国民にとっては、謝罪は不要だと言い張ってだだをこねる現首相のような人物こそ迷惑きわまりない存在なのです。

国内だけではなく国際世論まで考慮した場合、過去に日本が犯した行為が「侵略行為」なのであれば、ルーピー氏の言うように、国家として謙虚に「謝罪の意思を持ち続ける」ことは当然あるべき理性的な態度と言えるでしょう。そのことだけは理解しているのか何なのか、そもそも日本の行為が「侵略行為ではなかったのだから」謝罪は不要だ、と言い張る日本人も少なからずいるようですが、ここまで来ると手の施しようのない哀れな人々としか言いようがありません。

もし本気で彼らがそう考えているのならば、一説によれば世界第三位の規模にまで強大化したとされる中国軍が、八〇年前に日本軍が中国本土に対して行ったのと全く同じことを仮にこの現代において日本に対して仕掛けて来ても、それは侵略行為ではないし非難や謝罪にも値しない、と言い張れるのかどうか、についても彼らは真剣に考えるべきです。結局のところ彼らの思考回路は彼らが最も忌み嫌う、彼らが言うところの−そして実際そうなのでしょうが−「事実をねつ造して」ただ金をせびろうとする韓国の「慰安婦支持団体」のそれと大差ない、実に浅ましく自分勝手な思考回路でしかないのです。
 


言うまでもなく、謝罪の意思を持ち続けることと、今後発生するかもしれない金銭的な賠償請求に応じることとは全く別の問題です。賠償問題については既に国際法に照らし合わせて決着済みであることは疑いの余地がないのですから日本側として一切応じる必要はないのです。

だからと言って過去の侵略行為を「なかったことにしていい」ということにはならないのです。刑期を終えた犯罪者は別の犯罪を犯さない限りさらなる刑罰に服する義務はありませんが、だからと言って彼らの犯罪は「なかったこと」にはならないのと同じことなのです。

そのことは、例えばある「過去に侵略された」民族が尊敬に値する人々であるのかどうかとも関係がありません。いかに電器屋や観光地に集団で来襲した末の彼らの行儀の悪い振る舞いや、サッカーや野球の国際試合での彼らの観戦態度が目障りであったとしても、だからと言って、彼らの親、祖父母は殺されてもかまわない存在だった、という理屈は国際社会においては通用しないのです。

ルーピー氏の謝罪行為は、そのような当たり前のことも分からない日本人ばかりではないのだ、ということを、少々わかりやす過ぎるうえに人目を引くやり方でやってしまっただけの事なのです。
 


最終的に、ルーピー氏が自身の政治的な復権という邪悪な動機からパフォーマンスに走ったのではない、と言い切ることは難しい、という課題こそ残るものの、彼の行動を好意的に受け止める中国人、韓国人が少なからずいるという事実に私たちは注目するべきです。彼らの論調のなかには、賠償されるかどうかが問題なのではなく謝罪の気持ちがあるのかどうかが重要なのだ、というきわめて現実的で良心的な意見が散見されます。

もちろん、それが全てを代表する意見でないことを理解したうえで、私たちは中国人や韓国人のなかにも、ただ非難すればよい、という態度を良しとしない、未来志向の良識ある人々が−たとえほんの一握りの少数派だったとしても−存在するのだ、という事実を改めて考え直すべきでしょう。

そして日本人は何より、過去の過ちをなかったことにして国家としての体裁を取り繕おうとするような客観的に見て見苦しい態度が、自分たちの国にとって本当に望ましい、ふさわしいものなのか、といった視点を失うべきではありません。これら広義の外交戦は、当事者同士だけではなく、日本と何らかの利害関係にある世界のあらゆる国々が注目しているであろうステージの上で日々展開されているものなのです。

様々な理屈をこねて過去の過ちを認めず謝罪もしない、という稚拙な外交戦略の末に得られるものが、その代償として失われるものと比べてそれに見合ったものであるか、あるいはそれよりもっと大きな国益に結びつくものだとは、私には到底思えないのです。


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