1:04 2013/03/17
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File No. 0014:子ザルに「シャーロット」と名付けることは英国王室に失礼なのか
ある動物園が生まれたばかりの子ザルにイギリス王室の新生児にあやかった「シャーロット」という名前をつけたところ、全国から「礼を失する」とする抗議の電話が殺到したそうです。その名前は厳密には公募によって決まったものなので、必ずしも動物園が主体となって決めたものではないのですが、最終的にそれでいいという判断を下したのは動物園なのだから責任も動物園側にあるという理屈は分からないでもありません。

「シャーロット」を推薦した無辜な市民の人々は、もちろん悪意をもってそうしたわけではないでしょう。あまり深くは考えず、ただ単に若干のお祝いの気持ちをこめてそうしたのでしょうが、抗議をしている人々の主な理屈は、王室のご息女と同じ名前を事もあろうにサルにつけるとはけしからん、というもので、それは突き詰めていくと結局のところ「よその国の動物園のサルに日本の皇族にあやかる名前をつけられたらどう思うのか」というものでした。つまり政治信条という観点から見れば、この件に目くじらを立てている人々というのはどちらかと言えば現政権寄りの人々ということなのでしょう。
 


ところで私たちが改めて認識しておかなければならないのは、この件に抗議をした怒れる暇を持て余した人々はさておき、仮にどこかの国の動物園の子ザルに日本の皇族の誰かを想起させる名前がつけられたとしても、すべての日本人がそれを不快に感じるわけではない、という事実であり、むしろその事を肯定的にとらえる日本人すらいたとしても全く不思議ではない、という、これまた動かしがたい事実です。

そしてこの一件で抗議をすることで何かひとつの正義を成し遂げることが出来るとでも思い違いをしているような人々は、レガシーな身分制度を絶対視し、無批判にそれにおもねる一方で、実はたとえば友好的などこかの国の市民が、彼らが敬い慕う「天皇ファミリー」のおめでたい出来事にちょっとした祝意を抱き、それにちなんだ名前を生まれたばかりの愛くるしい動物につけるという情景を目の前にしても嫌悪感しか抱くことができない、心の貧しい哀れな人々なのです。
 


彼らのような人々が重視しているのは、他のコミュニティーの人々がその人々なりに表現してくれるささやかな「祝意」ではなく、あくまで旧来の身分制度の名残として現存する「権威」の方なのです。まして世界中の動物園で働くスタッフたちがそれぞれに抱いているであろう、生まれて来る新しい生命に対する特別な思いのようなものなど、彼らにとってはなから理解を試みる検討の対象にすらならないでしょう。

彼らの立場においては、「体制」が作り出した「権威」の前には、たかが動物の尊厳などものの数ではないし、「サル」などという動物はその名前を聞くだけで卑しむべき対象にしかならないのです。

もちろん彼らが個人として「権威」を重んじる一方で「サル」という動物を毛嫌いするのは彼らの自由です。ですがそのことと、彼らが他者に対して威圧的な言動を伴う「抗議」という手段に打って出てまで自分たちの価値観とは相容れない結果を覆そうとすることが、彼らの所有する一市民としての権利の範囲を逸脱した振る舞いと言えないのかどうか、はまるで別次元の問題です。

「権威」におもねる人々というのは往々にして「権威」の側につくことで自分の考えや行為は常に正しく許されるものだ、という妄想を抱きがちなように見受けられますが、天皇の名前まで持ち出して自分たちの正当性を主張する例があった事実も含めて、この一件もまたそうした一例に見えなくもありません。
 


そして結局のところ「権威」におもねる大衆の人々とは、「権威」の前では自ら主体的に何かを考察したり探究することを放棄する人々です。例えば戦時中に体制側の情報に踊らされて本気でアメリカに勝てるなどと思い込みながら、「日本は負ける」という他に下しようのない正しい判断をしてそれを口にした隣人をいじめていた知性や教養に乏しい少なからぬ日本人が典型的な一例でしょう。

そのような愚かな一部の大衆には、最終的に子ザルの名前が「シャーロット」であることが英国王女に対して失礼にあたるかどうかなど「シャーロット」本人かその家族、百歩譲って王室の実務スタッフが決めることなのであって、そもそも他国の浅はかな一般大衆が判断できることではないのだ、という基本的な社会の仕組みが理解できないのです。そして程なくして自分たちの価値観が当の英国王室の声明によって身もふたもなく否定され、とんだ恥をかくことになるのです。
 


結果的に英国王室から出された声明を見る限り「余計なお世話」でしかなかったにせよ、例えば「英国王室の方々やイギリス国民がひょっとすると不愉快に思うのではないか」という問題を提起する意見が市民から寄せられた、というのであれば、それは大いに結構なことだったでしょう。問題なのは、動物園に対して寄せられた「抗議」が、王室メンバーの名前を動物に用いることが「礼を失することだ」と決めつけたうえに、軽々しく天皇の名前まで持ち出すような、粗暴で短絡的な市民によるものであった事実です。

それは言い換えれば、「権威」とは神聖不可侵なものであり、そして「権威」さえ持ち出せば自分たちの立場を正当化できるのだ、という独りよがりで愚かな思考を持つ一部の市民が誰はばかることなく声をあげ、自分たちの言い分を社会に飲ませようと試みたいびつな事例であったとも言えるのです。

そのような市民が社会に潜在していることは、決してその社会にとって望ましいことではないでしょう。彼らがやったことは、車体を黒く塗装したバスに大型スピーカーを搭載して軍人が好んで歌った唱歌を大音量で流しながら街中を乗り回す例の集団がやっているのと本質的な部分においては同じことなのです。

そして何より注視しなければならないこととは、あのアドルフ・ヒトラーも指摘したように、そうした宗教的な価値観に共鳴して「権威」を無批判に受け入れてしまう本質的には善良なのかもしれないが結局は「無知な」人々こそ、体制側にとってはこのうえなく操作しやすく便利で都合の良いツールにほかならないという事実なのであり、そのような間違ってもかしこいとは言えない救いがたい人々が増殖し、増長しきった社会において何が起きるのか、は、戦時中の日本社会という分かりやすいサンプルを取り上げてみれば火を見るよりも明らかだ、という、まったくもって穏やかでない事実なのです。


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