1:04 2013/03/17
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File No. 0013:ルミネの広告動画は本当にセクハラにあたるのか
ルミネのコマーシャル動画が、「不快に思われる表現」があったとしてインターネットから削除されました。インターネット上には、職場におけるセクシャルハラスメントを絶対に許さないという固い決意に満ちた批判者たちの怒りを超越して憎しみのこもったコメントがあふれ返っています。

問題の動画は、私が解釈するかぎり次のような流れで展開します。出勤途中に近寄ってきた職場の先輩と思しき男に「疲れてるのかい?」と声をかけられた、ミス・ヨシノという地味な風貌のオフィスレディーが、ちゃんと睡眠はとった、と応えます。すると、そのメガネをかけた男はミス・ヨシノに、にも関わらずそのザマなのかい?というような言葉を投げつけます。

続けて二人が並んでビルの中に入っていくシーンでは、ミス・ヨシノとは対照的な、服装や髪型、表情にまできちんと気を使っていることを思わせるチャーミングな女の子が現れて二言、三言、メガネの男と言葉を交わします。その娘がいなくなってからメガネ男はその娘の容姿あるいはキャラクター性をほめる一言を呟き、それからクールな表情でミス・ヨシノを振り返り、彼女とヨシノでは「需要が違う」と言い放ちます。

そこで画面が切り替わり、メガネ男の発言が、ミス・ヨシノは単なる職場の同僚にすぎず、「職場の華」にはなりえない、という揶揄である、といった説明がなされます。そして最後に、ミス・ヨシノが、近頃身だしなみという名の美しさを磨く努力を怠っていたのではないか、と自省する様子を見かけた、通りがかりの後輩らしき男性社員が立ち止まるシーンを背景に「変わりたい?変わらなきゃ」というコピーが映し出され、「ルミネも変わる」という一文が画面に挿入されて動画広告は終わります。
 


実はこの広告には続編があって、前編の最後に登場した若手の男性社員が、実は以前からミス・ヨシノの存在を気にかけていたことを思わせるストーリーが展開するのですが、インターネット上に、映画「バイオハザード」のゾンビのようにあふれ返っている怒れる抗議者たちは、そんなことにまで頭が回ってないでしょう。

セクシャルハラスメント(セクハラ)の定義は非常に曖昧です。その行為を一方の当事者が不快だと思えばセクハラとして取り扱われることになりますが、同じ行為であってもそう思わない人々にとってはセクハラでも何でもないということが往々にして起こりえます。アイドル事務所に所属する若手俳優に似た男性社員がやってもまるで不快に思われない言動を、ちょっと不潔な中年男のマネージャーがやってしまったらあっという間にセクハラとして認定されてしまうことだってあるでしょう。

そこには男性が女性を例えば容姿で選別するのと同じ構図で存在する、女性の男性に対する冷徹な「逆差別」が潜んでいるのですが、そのことをきちんと理解している聡明で見識ある人物に、私は残念ながらあまりお目にかかったことはありません。
 


まずこの動画広告において、冒頭のやりとりは女性の容姿に関するものではなく、表情や覇気、あるいは健康問題に関する会話なので、本来セクハラでも何でもありません。「何だよ、今日も朝から冴えてねぇなお前」「そっちこそシャキッとしてろよ」といった会話は、男たちの間では当たり前のようになされるものです。

この会話が社会において一般的にセクハラだと認知されるのであれば、その事実は、男女平等を要求する一方で女性のもつ「特権」は温存しようと試みる、一部のむしのいい女性たちの知性も品性も欠いた愚かな主張が稀に通ってしまうこの社会の病理を映し出す一例に過ぎません。
 


さらにメガネ男の「需要がちがう」という指摘も、その言葉だけを以てセクハラと認定するには少々無理があるように思われます。「需要がない」のではなく「需要がちがう」とされているのは、ミス・ヨシノは容姿をほめるには値しない女性かもしれないが、違った需要、つまり長所があるという、その言葉をミス・ヨシノにとっても肯定的な意味に解釈する余地を残しているのでしょう。

そして何より重要なことは、その言動がセクハラにあたるか否かは言動の対象者がどう受け止めたかによって決まる、ということです。一連のメガネ男の言動は、それを見て自分の部屋に泥棒にでも入られたかのようにパソコンの前で怒り狂っている多くのヒステリックで無教養な人々の思いに反して、それを契機に自ら「変わらなきゃ」という決心をしたミス・ヨシノにとってはセクハラでも何でもないのです。
 


そもそもこの動画広告が猛反発を受けた要因のひとつとして、身だしなみや表情といった視覚的アピールに周囲の女性たちよりも気を使うことによってより魅力的な存在であろうとする、そうでない女性たちが一般的にその努力不足を棚に上げてなぜか目の敵にするタイプの女性を、ミス・ヨシノよりもあからさまに価値のある存在として登場させてしまったことにあるでしょう。

おそらくはこの動画広告のターゲットがミス・ヨシノと同類の、現時点において「職場の華」とは言いがたい女性たちであるにも関わらず、彼女たちの身代わりとも言うべきミス・ヨシノを一段低い、率直に言って価値のない女性であるかのように描いてしまえば、それに該当する女性たちが反発するのは当然のことです。ですが、もちろんそのことと「セクハラ」とは何の関係もありません。

メガネ男がミス・ヨシノの意に反して「職場の華」であることを強要したのであるならいざ知らず、シナリオの上ではミス・ヨシノが自らの意思で「変わる」ことを決意したに過ぎない以上、メガネ男の言動が女性に特定の役割を押し付ける性差別だ、とする一部の指摘は明らかな言いがかりです。結局のところ、そのストーリー展開に不満をたれる人々を見ていて私たちが再確認できることと言えばただ単に、自らの努力や心がけに対する正当な報酬として「職場の華」として扱われ、男性たちにちやほやされる女性に対して、そうではない一部の女性たちが−自らの意思でそのポジションに安住しているにも関わらず−その深層心理の中で抱き続けているひがみや妬みがどれほど根深いものであるのか、というつまらない事実だけなのです。
 


最も私が滑稽に思うのは、最終的に若手の男性社員とミス・ヨシノの淡い「恋の予感」を感じさせるこの作品において、メガネ男は単に「ヒール」として配役されているに過ぎないということに、多くの人々が気付いてすらいないことです。メガネ男の言動が仮にセクハラに該当するものであったにせよ、そのことを根拠にこの広告が許せないと主張する人々は、例えば少年ジャイアンが登場する「ドラえもん」は暴力アニメでけしからん、と怒っているようなものです。

続編の最終シーンでミス・ヨシノが見せたとても幸せそうな表情にこの広告の制作陣の意図を読み取り、「最終的に」その物語に共感できるか否かは、ひとえにそれを観る人々の人生経験と感性に左右されるでしょう。たとえ一見理不尽な出来事にせよ、それをきっかけに自ら「変わる」という決意をした人々が自らを成長させて新しい人生を手に入れるというプロセスは、周囲に対する不満を唱えるばかりで何ひとつ自ら行動を起こそうとしない人々とは違って、その決意が出来る人々にとっては、自らの体験を通じて違和感なく自然に実感することのできる現実的なストーリーなのです。
 


最終的にルミネはおそらく本来「商圏」であるべき人々からの反発を受けてこの広告を取り下げましたが、そのことはメガネ男の言動がセクハラである、つまりこの広告は象徴的な「セクハラ推奨キャンペーン」だ、ということを彼らが認めたことを意味するものではないでしょう。

表面的には「不快な表現があった」という理由を掲げておく一方で、純粋に商業的見地に立てば投じたコストを回収できるだけの販促効果やブランディングをもたらすべき「広告」としてもはや使えなくなったからこそ彼らはそれを取り下げたのであり、メガネ男と同じような言動にまるで自身の全人格でも否定されたかのように感じる女性が現実に存在していようがいまいが、あるいはメガネ男のような言動がどこかの法廷でセクハラとして認定されることがありえようがなかろうが、その事自体は彼らにとっての関心ごとではないのです。

結局のところ、問題の広告をルミネが取り下げたことで溜飲を下げる思いをしている人々がこの騒動を経て手にしたものは何もないか、あってもとるに足らない些細なものでしょう。それは自ら「変わる」決意をしたミス・ヨシノや、あるいは同じような決意をすることができる現実社会の「ミス・ヨシノ」たちが恐らくいずれ手に入れるであろう「彼女たちにとって」価値のあるものに比べれば、客観的に見る限り、あまりにも無価値です。

もちろん、思想や信条の自由が保証されているこの社会において、自分でない女性が「職場の華」として褒めそやされる一方で、自分が「単なる同僚」としての扱いしか受けられないことを気に喰わないと「思う」自由はすべての女性に保証されるべき権利です。そのことと、自分という女性には大して魅力を感じない一方で、「職場の華」とされる女性に対しては魅力を感じてしまう同僚男性社員の「自由」に干渉する権利まで彼女たちに与えられるべきなのか否かは、まったく別次元の問題なのです。


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