1:04 2013/03/17
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File No. 0011:その「差別」はなくすべき差別なのか
献血センターを訪れたゲイの男が直近の性行為に関する質問に虚偽の回答をして献血を行った結果、エイズウィルスに感染したそのゲイの男の血液が検査をすり抜け、その血液を輸血された無関係の男性が二次感染するというあってはならない事件が起きました。

報道によればこのゲイの男は「検査目的で」献血に訪れたとされていますが、このような、その行為が引き起こし得る「他人の人生を破壊する」という重大な結果には関心を払わずに、自分の利益のためには規律を犯す事に何のためらいも抱かないような反社会的な人間であっても、現行の法制度に於いてはこれを罰する法的根拠がない、という事実には少々驚きを禁じえません。

報道によれば、献血という制度が人々の善意の元に成り立っている以上、そうした悪意の人間とは言えその制度の中で処罰までするというのは行き過ぎだ、という根強い意見が、その制度を担う現場にはあるとされています。結果的に、そのような人間という生物の本質から目を背けた生ぬるい「性善説」をベースに運用される献血制度のせいで、一人の無関係な市民がエイズウィルスに感染した。その動かし難い事実を私たちは忘れるべきではありません。
 


一方で、エイズウィルス感染者は時として人々の「差別」の対象となる、というのは、しばしば各方面で言及されている事でもあります。数年前にはエイズウィルスに感染している事が発覚した看護師が就業先の医療機関に退職を強要されたとして一部のメディアを賑わせた事がありました。

一般の就業者ではなく、この感染者が患者との肉体的な接触が頻繁に発生する看護師という職業であった事から、その「差別」はむしろ正当なものだ、という意見も市民の中には少なからずあったようです。一方で、それを理由に職を奪うというのはやはり「差別」にほかならない、という意見も根強く、政府も二〇一〇年、それまでは就労に於ける差別禁止の対象外であった「医療従事者」もその対象とするべく、ガイドラインを改訂しました。

まず言及しておかなければならない事は、国のガイドラインが何を提示していようと、それが社会的に正しいのかどうかは全く別の問題だ、という事です。国、役所、役人といったプレイヤーは往々にして国民社会のためにならない判断をし、よからぬルールを作ります。その看護師の事例があってから慌てて改訂されてしまうようなガイドラインなど、はなから権威あるものと考えるべきではないのです。

その看護師に対する扱いが「差別である」と主張する人々の根拠は何なのか。あるいはその看護師に対する差別は正当だという人々の根拠は何なのか。そうした事を客観的にゼロベースで考察してみる事は、「差別」という名前の、私たちが子供の頃から決してしてはならない事として教えられて来た行為の持つ裏の一面を垣間見るのに無益ではないでしょう。
 


エイズウィルス感染者に対する差別は人々の「無知」から起こる、というのは、差別をなくそうと訴える人々がいつも持ち出す常套句です。彼らは、エイズウィルスは「日常生活では感染しない」という事実から、それは感染力の弱いウィルスであり、過敏に反応してはならないと主張します。もちろんその事は、「日常生活」とは次元の違う現場で働く医療従事者にエイズウィルス感染者がいても「全く問題はない」という論拠にはなりません。

では医療従事者について彼らは何と主張するか。「適切な対処をしていれば」患者に対する感染はない、と主張しているようです。だから感染者が医療従事者であっても問題はないのだ、と。ですがその事は、そうした主張をする人々が、何らかの事情でそれが「適切に対処されなかった場合」について、患者の安全についていかなる担保も出来ていない、という事をも意味しています。

その「適切な対処」とやらが為されないリスクをどう評価するのか。彼らからその問いに対する明確な回答が得られないうちは、残念ながら、社会にとってその「差別」があってはならないものなのか、或いは「差別」という名称がついてはいるが、非感染者の安全を第一に考えた場合に一定の合理性を有する「区別」なのか、社会が正しい結論を導き出す事は出来ません。

その一見「差別」に見える行為は人々の「無知」から為されるものなのではなくて、単純にその安全性を誰も担保できない事実をどう評価するのか、という立脚点の違いから為されているだけのものなのであり、対立する両陣営の知識量とはまるで無関係な、それぞれのリスク評価に対する姿勢の相違の産物でしかないのです。
 


それはほとんど起こり得ない事だからゼロに等しい、というロジックに誰もが騙されるわけではありません。それはあくまでゼロではないのです。ゼロではない以上、そのリスクを回避するのかしないのか、の選択は当事者全員、つまりは感染者やその支持者の人々と、彼らとは一線を画する、言い換えれば彼らが「差別主義者」だと批難する人々との双方で折り合いをつけたうえで為されなければならないものなのであり、「それは差別だ」の一言で一方の意見が軽々しく排除されるような事があるとするならば、それは民主主義に対する冒涜以外の何者でもないのです。

その問題を考えるにあたってひとつの例を挙げるならば、コンドームを「正しく」装着していればエイズウィルス感染者との性行為によってもウィルスに感染する事はない、と言われているのですから、仮に恋人がエイズウィルスに感染している事が発覚してもコンドームさえ使ってくれるなら「喜んでセックスするわ」と申し出る覚悟がない人々には、看護師に対して為された退職勧奨が「差別だ」という資格などないという事になるでしょう。
 


エイズウィルスには、年々その感染者が増加の一途を辿っているという別の一面もあります。その多くは同性間、もしくは異性との性行為による感染だと言われていますが、残念ながら行政によってその感染の伝播を食い止めるための有効な試みは何ら為されておらず、さながら野放し状態というのが現状のようです。

性行為によるエイズウィルス感染を防ぐ最も有効な手段は、感染者には一目でそれと分かるようなマーキングを行う事です。国民に定期的な血液検査を義務付けたうえで、例えば罪人に対して近世の「お奉行所」がそうしたように感染者には身体の一部に入れ墨でも入れておけば、これらの「性行為による感染」はそれだけで激減するでしょう。

もちろんそのような案には「差別を助長する」といった猛反発が、主に感染者の側から寄せられるでしょうから、今日の社会に於いてそれを実現する事は不可能でしょう。そしてそのような事が行われれば実際に感染者に対する「差別」は助長されてしまうでしょう。

しかし言い換えればその事は、この社会に於いては、エイズウィルス感染者に対する「差別を助長しない」事が、新規のエイズウィルス感染者をこれ以上「増やさない」事よりも優先されているという事実を証明しています。年々増加する多くの新規の感染者の殆どは、彼らがそうならない事よりも既に感染している人々の「差別を助長しない」事を優先する社会によって必然的に生み出された犠牲者以外の何者でもないのです。「差別はいけない」という高潔な価値観を重んじる一方で、その「差別」の対象となり得る人々を年々増産しているのが、いま私たちの生きるこの社会の現状なのです。
 


私は最近「差別を助長する」というキーワードを別のシーンでも耳にしました。てんかん持ちが交通事故を起こした場合の厳罰化を盛り込んだ道路交通法の改正に対して、てんかん持ちの団体が唱えていたものです。彼らのケースも、先に述べたようなエイズウィルス感染者が訴える「差別」の構造と共通項を多く抱えています。

もともとてんかん持ちは運転免許の交付対象外でしたが、てんかん持ちの団体の働きかけにより、二〇〇二年の法改正によって、てんかん持ちにも条件付きで運転免許の取得が認められる事になりました。その条件とは、概ね「発作を起こさない者」「発作を起こしても安全運転に支障がない者」といった、およそてんかん持ちが該当するとは思われない厳しい条件ですが、この法改正を受けて運転免許を取得するてんかん持ちが次々と現れ、そして当然のように発作を起こしては一般人を巻き込む死亡事故を各地で引き起こしています。

栃木県で発作を抑える薬を飲み忘れた重機オペレーターの男がその自走式重機で車道を走行中に集団登校の列に突っ込み、いたいけな子供たち六人の命が一瞬にして奪われた一件は世間の記憶に新しいところでしょう。その事故を受けててんかん持ちの団体はどのような声明を出したか。てんかんの発作は薬を正しく服用すれば抑えられるものだ、差別はしないで欲しい、そんな内容だったと記憶してますが、この事も、彼らが権利だけは主張する一方で、薬を「適切に服用しない」てんかん持ちの振舞いやそのリスクに対して頑ななまでに無責任な立場を取り続けている事を私たちに分かりやすく伝えています。

てんかん持ちに運転免許を与える事は明らかに社会の人々の「命の」リスクを増大させます。せいぜいてんかん持ちの人々がハンドルを握れて喜んで、そして一部の人々が「差別はいけない」という価値観を満たして満足するだけのその法改正の代償を、私たち社会は、多くの子供たちを始めとする無関係な一般市民の「命」で贖っているのです。てんかん持ちの人々が自分たちの利益のために社会がそれを喜んで引き受ける事を要求している「リスク」とは、その多くの無関係な一般市民の命が失われてしまうという、到底社会が受け入れるべきとは思われない破滅的な「リスク」の事にほかならないのです。
 


差別をする事がなぜいけない事なのか、という問いに対して、自分が差別される側に回ったら辛いから、と答える人もいるでしょう。これをてんかん持ちのケースに当てはめてみれば、もし自分がてんかん持ちになっても車を運転出来た方が都合がいいから、てんかん持ちには免許を与えないという差別には反対しよう、という事になるのでしょうが、愚かな事です。

自分が他者の立場になって考える事で物事の善悪を決めるというのであれば、てんかん持ちにかけがえのない誰かの命を奪われた、遺された人々の立場にも立たなければならないでしょう。社会とは利害の対立する人々の集合体なのです。一方の権利が重宝されるその裏でもう一方の権利はまるで蔑ろにされてしまう。そのような事が往々にして起こり得るのが社会なるものの真の姿なのです。だからこそ私たちは、対立する利害のどちらをより肯定するのかを決めるにあたって、常に客観的であるか、両者に対してフェアであるかを自問自答しなければならないのです。

「差別をなくせ」という言葉には、時と場合によって社会をあるべき正しい方向へと導く力があるのと同時に、一方で何者かによってその客観性を一気に覆すためのツールとして、「差別」とは理由を問わず「いけない事だ」と洗脳されている人々につけ込む手段として利用される危険性をも孕んでいます。誰かが「差別」というキーワードを口にしたとしても、それはある特定の立場側から発せられた責任を伴わない一方的な権利の主張に過ぎなくて、それが主張される裏では誰かの権利が一方的に踏みにじられるような事さえ、この社会に於いてはしばしば起こり得る事なのです。

だからこそ私たちは、いま目の前で行われている「差別」と思しき何者かと対峙したとき、その「差別」らしきものはなぜ行われているのか、それがある事で、或いはなくなったときに誰が得をし、誰が不利益を被るのか、ただ単に「それはよくない」という感情論に逃げ込む事なく、その背景を冷徹に見極めなければならないのです。「差別」という言葉に目を曇らされる余り「もう一方の」守られるべき誰かの権利に注意を払えないような人々は、結局、彼らが忌み嫌う「差別」なる行為に走る人々と同じような行為に自分たちもまた手を染めている事に、常に自覚的でなければならないのです。


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