1:04 2013/03/17
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File No. 0010:矢口真里の不倫を攻撃する事が真の正義なのか
矢口真里という女性タレントの挙動が再び世間の耳目を集めています。報道によれば、彼女は大手プロダクションに所属する若手俳優の男と結婚して一年足らずの一三年五月、八歳年下の男性モデルを自宅に連れ込み「背徳的な」行為に及んだ後で眠り込んでいたところを帰宅した夫に発見され、離婚に至ると同時に芸能活動休止に追い込まれました。今回、矢口がその後もモデルとの交際を続けていた事が発覚し、矢口の復帰に向けて奔走していた関係者の努力を水の泡にするあるまじき振る舞いとして、矢口の一連の行動は再び厳しい批難の的になりつつあります。

一部で元夫のDVや金銭問題が報じられたにも関わらず、所属事務所同士のパワーゲームの結果であるのか、メディアや主要な芸能人の論調は概ね一貫して矢口を批難する方向に制御されており、彼らに俳優側の素行に関して表立って触れる様子は一向に見受けられませんでした。以降、世間一般の受け止め方もそれらの風潮に流されてか、客観的に見て矢口に対して厳しいものが支配的であるように思われます。

芸能界という一種異質な世界の特性上、その中にいる人々の言動や、彼らを敵に回せば目先の利益を棒に振る事になりかねないメディアの報道に公正さや真理を追究する姿勢を期待するのは生産的な態度とは言えないでしょう。それは矢口の「不倫」を厳しく断罪する一方で、先日他界した「大物」歌舞伎役者の素行を好意的にすら述べるか報じていた彼らの姿勢を見れば明らかです。私たちは芸能界や、それにおもねるメディアとは異なる視点で、これらの事実をつとめて冷静に受け止めなければなりません。

なぜ女性タレントが不倫騒動を起こせば芸能活動休止に追い込まれるのに同じ事をやった歌舞伎俳優が死んだらまるで国民の損失であるかのような扱いを受けるのか、なぜ女性タレントを一方的に罵るその他のタレントの映像が垂れ流されているのに同じ事をしたジャイアンツの監督に少しでもケチをつける誰かの映像はお茶の間に流れないのか。それらの事に疑問すら抱かず女性タレントに口汚い罵声を浴びせて溜飲を下げた思いでいるような人々を見るにつけ、私は彼らが単なる「無知な大衆」である事を自覚する事すら出来ていないという事実に失望を覚えずにはいられません。
 


一般的に、男性が働く「不倫(浮気)」と女性が働く「不倫(浮気)」は性質が異なるものだと受け止められがちですが、その考え方は生物学的な観点から考察した場合、全く理に適ったものだと言えるでしょう。つまり同時に複数のメスに自分の子供を産ませることが可能であるオスと違って、同時に複数のオスの子供を産む事が出来ないメスは、その遺伝子をより良い形で後世に残すための戦略上、オスよりはるかに厳しくパートナーを選別する必要があるからです。その事を極めてスマートに違った言葉に言い換えるならば、オスはメスよりはるかに「目移りしやすい」生き物なのです。

つまり一般論として、オスが浮気をする事は必ずしもパートナーであるメスを否定する事にはつながりませんが、メスに浮気をされたオスというのは本質的な部分でメスに「オス」としての価値を否定されてしまった事を意味します。人間と同じく、その育児システムに適しているという理由から一夫一妻制を採用したと思われる鳥類の世界でも、およそ三割のメスは「浮気」をすると言われていますが、実はそれは「浮気」といった軽々しい言葉で表現するべきではない、よりよいオスの遺伝子を獲得して優秀な個体を後世に遺すためのメスなりの「真剣勝負」なのです。そしてその事実を知らない本来のパートナーであるはずの「オス」は、メスにとってもはや「オス」でも何でもなくて、育児という「作業」を分担するためにメスによって「利用される」ためだけにそこにいる、ただの勤勉なる「奉仕家」でしかないのです。
 


同様に、人間界に於いて女性が不倫という一見アンモラルな行為に走る場合、一般的にはそこに彼女たちなりのやむにやまれぬ「深刻な」理由や事情が存在すると考えられるべきなのです。人間の男たちが単なる「目移りで」そうするのとはわけが違うのです。

自分の夫が不倫に走ってしまった妻が目くじらを立ててその理由を追及しても大した収穫は得られないでしょう。多くの場合、ただ単にその夫は本能に忠実だっただけの事なのです。つまり、もっと妻が何かの「努力」をしていればそのような事は起きなかったか、と言われれば、大抵の場合それはどのみち起きた事なのです。携帯電話を勝手に開いて怪しいメールのやり取りがないかをチェックしたり夫の仕事場に前触れもなく電話をかけるような「圧力」をかければ一定の「抑止効果」はあったかもしれませんが、ずる賢い夫ならいずれその上を行く何らかの方法を編み出してでも、彼の本能に基づく欲求をあくまで満たそうとするでしょう。妻の方に非があるのではなく夫がそもそもそういう特性を持つ「オス」の個体なのだから、妻の方にはそれを受け容れるか、或いは見限るという二つの選択肢しかありません。

ですが自分の妻が不倫に走ってしまった夫は、その事実を真摯に受け止め、その理由をきちんと明らかにするべきです。そして恐らく多くの場合、夫自身の妻に対する扱いや態度がその理由と無関係ではいられないでしょう。それらは彼女たちにとって夫の「人間性」そのものの評価基準となりうるパラメタなのです。そのような彼女たちなりの評価基準を以って「オス」を厳選すべきメスが、他の「オス」を排除して一度は選んだ「オス」を今では他の「オス」同様に排除して、新しい別の「オス」を受け容れているのです。その事実の指す意味が、ただ単に性欲や不貞という「メス」側の事情で済まされるほど単純なものであるわけがありません。

そしてもし夫自身にはそれでも何の問題も見当たらないというのなら、それは夫にとっては更なる悲劇を意味します。つまりもし本当に夫の側には何の問題もないのに妻が他の「オス」に走ったのならば、その夫は始めから、ただ彼の持っている何かを妻が「利用する」ためだけに夫として選ばれた都合のよい「奉仕家」に過ぎなかった事を意味しているのにほかならないからです。
 


なかには本当に男なら誰でもいいと言わんばかりの「お股のユルい」メスがいて、たまたまそのメスを妻に選んでしまった気の毒な夫もいるかもしれません。ですがそうであっても、本来、生物学的メカニズムに基づく厳粛なる理由によって一匹のオスだけをシビアに選別しなければならないはずのメスが、その成長過程に於いてそのような自然の法則に反する行動特性を持つ個体になり下がってしまったのには、それなりの理由があるはずなのです。

一般的に自己肯定感の低い女性は誰とでも「ヤる」と言われますが、その行為に没頭している間は少なくとも相手の男に必要とされているという「自己肯定感」を感じる事ができるわけですから、それはあながち間違った指摘ではないでしょう。であれば、なぜ彼女は自己肯定感に乏しい女性になってしまったのか、を究明しなければ、彼女の自然の法則に逆らった「不可解な」行動特性の謎を解き明かす事は出来ません。

そして恐らく多くの場合、その理由はその女性の幼児期の親との関係性に帰結するでしょう。ここで見落としてはならないのは、それは彼女の親の育児姿勢や能力に端を発する問題であって彼女本人の責任ではない、という事です。最終的にそのような女性が誰かに受け容れてもらえるのかもらえないのかには関わりなく、その幼少期の「トラウマ」は彼女にとって、彼女が一般的には不道徳とされ誰もが顔をしかめるような行為に走ってしまう理由に十分値する、彼女なりの「のっぴきならない」深刻な事情なのです。
 


矢口をはじめとする女性の不倫に拒否感を示す多くの人々、多くの場合それは同性である女性たちのようですが、彼女たちに不倫に走った女性がそうしなければならなかった背景にまで迫ろうとする姿勢はまるで伺えません。もちろん彼女たちが手近なところで有名人の「不倫」という行為を声高に批難して彼女たちなりの「正義」を主張する事を楽しむのは彼女たちの勝手だし、私は彼女たちの言わんとする事が頭から間違ってると言うつもりも、そんな彼女たちの姿勢を糾弾するつもりもありません。ただ指摘しておかなければならないのは、彼女たちのそのような言動が最終的には何の解決ももたらさなければ誰かに助けの手を差し伸べる事にもつながらない無意味な自己満足の「正義」でしかないという事実です。

不倫に走る必要のない女性たち、言い換えれば自分の夫婦生活に満足しているか、そうなるだろうと楽観的な見通しに支配されている女性たちが不倫に走る女性を一方的になじる光景は、単なる「強者の論理」が展開される一シーンでしかありません。彼女たちの立場から見ればいかにも正当性のある論理であっても、違った立場の女性たちから見ればそもそも前提条件が間違っているのです。自殺という行為を「周りの人たちを傷つける」という理由で「悪」とみなし、その本人が生きる事によって傷ついている、或いは傷ついて「いた」事実には何の配慮も示さない人々が得意げになって主張する理屈と同じように、いかにも独善的で残酷で、そして本質的に見当違いな論理なのです。

そうなる前に「離婚すればいい」といった類の意見についても私の目には単なる「強者の論理」にしか映りません。特に夫婦の間に子供がいる場合はそれを実行する事で子供の人生に少なからず影響を与えるわけですから、母親として簡単に切りうるカードでない事は明らかです。よく選挙権のない外国人に「帰化すればいい」という言葉を浴びせる人々がいますが(それは私も同意見です)、国籍の違いなどはあくまで社会のシステム上に於ける「人工的な」問題でしかありません。しかし親子の関係は生物的な、言い換えれば人々の意識や人々の作り出した制度といったものを超越した、もっと「根源的な」関係性なのです。夫を裏切る事が出来る妻が子供を裏切る事の出来ない母親であっても全くそれは自然な事なのです。

母親が不倫という行為に走る事自体が子供に対する裏切りじゃないのか、という意見は稚拙そのものです。それに対する答えは、なぜ母親が不倫に走ったのか、という背景によってどうとでも変わりうるでしょう。父親と母親との関係性に幻想を抱くことなくそれを冷静に見極める事のできる子供が、母親の起こした行動の裏にある「母親なりの」理由や事情を理解したとき、その子供が果たして父親の味方につくかどうかなんて外野の人々には最後まで分からないのです。
 


女性の不倫を否定的に捉える男性たちの動機は少し違った意味を持ち、そしてそれは恐らく女性たちのそれよりもっと「切実な」ものでしょう。つまりそれは自分の妻か、或いは彼の計画上ではいつの日か妻になってくれるのであろうどこかに「いるはず」の女性が、自分の事を差し置いて他の「オス」に走る事に対する本能的な嫌悪感です。しかしそこで彼らが再確認しなければならないのは「メス」という性の生物学的特性です。「基本的に」女性は不倫に走るべき特性、本能を持ち合わせている性ではない、という事実です。

その事は一般論として、夫が妻に、彼女が不倫に走ってしまう「必要性」を与えない限り、妻がそのような行為に走る事はないであろう事を意味しています。つまり私たち男性は、ただ単に不倫に走った女性の「ルール違反」を攻撃するという無意味な作業に従事するのではなく、むしろそこまで彼女を追い詰めたものとは一体何だったのか、について「追い詰めうる」立場の側から自戒の意味を込めて検証する姿勢をこそ求められるべきなのです。

もちろんそれを実践するのかどうかは、ひとりひとりの男性の自由です。自由ですが、たったそれだけの事も出来ない夫が、いざ自分の妻に対して遠い将来に渡って他の「オス」に走る「必要性」を与えたりしない事をどのような手段で担保するのでしょうか。結局のところ、自分の主張は押し通したい一方で立場の違う人々の行動の裏にある背景には関心を抱かない「オス」が、彼にでも掴まえる事の出来た「メス」にとって、いつの日か巣を作らせたり虫を取って来させるだけの利用価値しかない「奉仕家」に見える日が来てしまったとしても、私には全くおかしくない事のように思えてなりません。
 


矢口には子供はいませんでしたが、その職業や社会的ステータスとそうした場合の周囲に与える影響を考えれば、「母親」たちと同様に「離婚」というカードは容易に切れるものではなかったかもしれません。私たちの前に彼女が「離婚」という決断を下す前に不倫に走った本当の理由が明らかにされない以上、少なくとも私は矢口のとった行動を積極的に支持する事が出来ないのと同様に、それを口汚く批難する事も出来ません。

ただひとつ言える事は、彼女の復帰のために奔走した人々は恐らく最終的には彼ら自身の利益のためにそうしたのであって、矢口本人のためにそうしたのではなかっただろう、という事です。そして結局は誰ひとりとして、矢口がとった行為の本当の被害者が誰なのか、そもそも本当に「被害者」が存在したのかどうかも含めて、説得力のある解を導き出す事は出来ないだろう、という事なのです。


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