1:04 2013/03/17
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File No. 0009:踏切に取り残された老人は助けるべきなのか
踏切に取り残された老人を助けようとして列車にはねられ死亡した四〇歳の女性に対する賞賛の声がやみません。地元の警察ばかりか自治体、政府までもが女性に対して感謝状を贈り、インターネット上では女性の「勇気ある」行為に感服したという声が溢れ、事故現場では献花が絶えないと言います。

自らの危険も顧みず「あかの他人」を助けなければならないという尊い使命感の下に踏切に飛び込んで行った女性の「死」という結末に、私たちは誰もが言いようのない悲しみを覚え、メディアからもたらされる生前の彼女の人柄を偲び、そして彼女の冥福を心から祈らずにはいられないでしょう。

ですが、もし自分がその立場に立ったらどうするべきか、と問われれば、私は間違いなく老人を−彼に自殺願望があったのか否かとは無関係に−「見殺しにするべきだ」と答えます。見て見ぬふりをするような卑小な振る舞いの結果としてではなく、確固たる信念を持って私はそうするべきだと答えるでしょう。

何人たりとも、彼女の尊い無私の行為を愚かだと批難し、その人格を貶め、名誉を傷つけるようなまねをするべきではありません。しかしその事と、残された私たちがこの悲しい事件から何を学ばなければならないのか、とは全く別次元の話なのです。
 


今まさにそこまで列車が迫っている踏切に女性を飛びこませたものとは一体何でしょうか。人命は尊いという普遍的な価値観でしょうか。私たちは社会によって「人命」とは何者にも替え難い、最も尊いものであるという一般原則を子供の頃から執拗に教え込まれますが、ひとつひとつの命に人々が「主観的に」設けるべき、その尊さの「差」について教えられる事はありません。

例えば多くの場合、家や車は古くなるほどその価値が減少していくという法則で成り立っている社会に於いて、その法則を人の命に当てはめて考える事は許されない事だと私たちは暗黙のうちに思い込まされています。ですが今回のような事件が起きたとき、一部の人々は若い女性が命を落とし、老人が助かったという結末に不満を漏らし、−意識的であるにせよ、無意識であるにせよ−その矛盾を明確に指摘します。

もしこのケースに於いて、勇敢に踏切に飛び込んで行った−そして命を落とした−のが老人で、救助されたのがより若い命であったなら、私は社会の受け止め方は全く違ったものになっていたと考えています。表面上はひどく繊細で微妙な違いでしかないかもしれませんが、本質的には全く違った受け止め方を、少なくとも「老いた命を救うために若い命が失われた」事実に反応した人々はするでしょう。つまり、女性の勇敢な行為に畏怖の念をすら抱く一方で、このケースの結末に彼らが「悲しみ」とは別の次元で抱く、「なぜ?」という「後味の悪さ」が恐らくそこには残らないのです。
 


私たちが「もしその場に遭遇してしまったら」を考えるとき、踏切に取り残されたのが年端もいかない子どもであったらどうでしょうか。私たち大人よりも(一般的には)輝かしい未来が待ち受けているべき子供がその対象である場合、私たち大人は自らの命を積極的に危険に晒してでも助けに行くべきでしょうか。特に老人の命を助けるために若い命を投げ出すなんて「割に合わない」と考える人々にとって、正解を辿る事が少し難しいテーマなのではないでしょうか。

社会全体としてはともかく、ひとりひとりの個人が人命の「尊さ」について考えるとき、対象ごとに主観的な「差」が発生するのは自然な事です。自分の子供と知らない子供が同時に溺れていたならば、その子供の持つ未来に於ける「可能性」の差(それは人格や知力やその他の才能となって定義付けされてしまうでしょう)には関わりなく、まず先に自分の子供を助けたいと思うのは、親として当然の事であり、誰にも−その「知らない子供」の親であれ−その親の思いを批難する権利はありません。

同じように、自分自身の命と知らない子どもの命のどちらをより「尊い」と考えるかもまた、個人の主観によって決まるのです。一部の人々にとっては受け入れがたい事実かもしれませんが、自分とどこかの「知らない子供」が同時に溺れているときに、「知らない子供」の親が現れて自分の方には目もくれずに子供の救助に向かったとしても、私たちにその親を批難する権利はありません。さらに言及してしまえば、自分とどこかの飼い犬が溺れている時に現れた飼い主が自分には何の注意も払わず飼い犬の救助に向かったときでさえ、私たちには飼い主がその主観を元に下した判断に異論を唱える資格はないのです。
 


その事はつまり「知らない子供」と、ついでにその親さえもが溺れていたとしても、彼らを助けるべきかどうかは私たちの「主観」によって決まるのであって、私たちは誰一人として彼らの命に対し「責任を負ってはいない」という事実の裏返しでもあります。言いかえれば、もし私がその場に遭遇してしまったならば、私は私にとって、私の命と知らない親子の命はどちらが「尊いのか」をその場で判断しなければならない、という事です。そして助けを必要としている「命」が、私の家族を始めとする私にとって「かけがえのない」命でない限り、私は迷わず「私の命」を選択するでしょう。

自分の命を危険に晒してまで「知らない誰か」を助けに行くという行為は、一見、その「知らない誰か」の命を尊いと思う一念から起こり得る崇高で美しい行為ではあるけれども、一方でそれは自分の命を粗末に扱う行為にほかなりません。人生を送る上で機会に恵まれれば、私たちは自分の命を危険に晒してでも「守りたい」と思う何かを手に入れる事があるでしょう。しかし「知らない誰か」の命が本当にそれに値するのか。誰も教えてはくれないでしょうが、「誰か」が踏切に取り残されてしまった現場に遭遇する前に、私たちが真剣に考えておくべきひとつのテーマに違いありません。

 


亡くなった女性の父親が最後にメディアの前でこう言い残しました。「お爺さんの命が助かったのがせめてもの救いだった」。彼が、老人が助かって「本当によかった」とは言わなかった事に私たちは注意を払うべきです。父親にとっては−恐らく母親にとっても−老人の命ではなく娘の命が助かる事のみが、彼らが心から望んだ結果だったのです。それはたとえ助けられたのが「知らない子供」であったとしても同じ事でしょう。

報道によれば、女性が助手席から飛び出して行ったとき、運転席にいた父親はそれを制止しようと試みたようですが、それはつまりこの父親は老人を「見殺しにする」決断をした事にほかなりません。だからと言って誰がこの父親を批難する事ができるでしょうか。むしろそれは−結果論に過ぎないとはいえ−父親として、何が彼にとってかけがえのないもので、何がそれと秤にかけるには値しないものなのかを咄嗟に判断したうえでの彼なりの最も正しい行為ではなかったでしょうか。

私は亡くなった女性の勇気ある行動には関心を抱いてそれを惜しみなく賞賛する一方で、父親がとった行動の是非を検証しようとすらしない人々の盲目的な行動特性に注目しています。女性が老人の命を守ろうとして起こした行動と、父親が娘の命を守ろうとして起こした行動との間に同等性を見い出す事すら出来ない人々が、「命は尊い」という事実を本質的なレベルで理解しているとは到底思えないのです。


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