1:04 2013/03/17
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File No. 0008:チューブにつながれた人々の命は何よりも尊いのか
例えばあなたが川にかかった橋を渡っているときに、上流からあなたの飼っているペット−犬でも猫でもかまいませんが−とあかの他人が溺れながら流れて来るところを想像してみてください。あなたがどちらか一方しか助けられないならば、あなたは−あなたが実際にペットを飼った経験があるならば尚のこと−いてもいなくてもあなたの生活に大した影響を及ぼさないあかの他人よりも、あなたが常日頃から愛してやまないペットの方を助けようとするのではないでしょうか。しかし自分の子どもか家族か恋人が溺れていて、あなたのペットとどちらか一方しか助けられないとするならば、あなたは別の行動をとるかもしれません。

もっといやらしいケースを想定してみましょう。例えばあなたが川にかかった橋を渡っているときに、水面に一〇万ドルの札束と溺れて死にかけているあかの他人が浮かんでいて、あなたはどちらか一方しか拾えないとしたらどうでしょうか。それだとさすがに、あなたは溺れる「あかの他人」を選ぶと(表面上は)答えるかもしれません。ですが、その一〇万ドルの札束が、あなたが何かの目的のために何年も額に汗して必死の思いでこつこつ貯めてきたお金だったらどうでしょう。そうは言っても、そこで溺れているのが自分の子どもか家族か恋人であれば、きっと多くの場合、人はお金よりもそちらを助けようとするでしょう。

どちらのケースであれ、何のためらいもなく「あかの他人」と言えども人の命を助ける以外に選択肢はないと言い切れる人がいるならば、その人物はとても「利他の精神」に富んだ愛すべき人物ではあるかもしれませんが、残念なことにその価値観は、社会に生きる全ての人々の指針となりうるものではありません。つまり、端的に言ってしまえば、私には自分の命の危険を犯してまであかの他人を助けるために川に飛び込んだりしない、という選択をする権利もあれば、自分の命の危険を犯してまで水面にプカプカ漂うお札を拾いに行く権利もある、という事です。そしてもちろん私の、対象が「あかの他人」なのか、自分に近しい人物なのかでがらりと態度を変える権利もまた、誰にも侵害する事は許されない私固有の権利なのです。

そこにあるのは「命の選別」です。つまり、いかに「あらゆるものは神様がお作りになった」というおとぎ話をベースとする一方で幹部が子供たちへの猥褻行為に精を出す宗教団体や、「人権」という合言葉が用いられる限り何を言っても許されると思っているような圧力団体が「人命価値平等論」を唱えようとも、そんなものは人々の「現実的な」内なる心に於いては成立しえない空論に過ぎないという事です。人命の価値とはいかなる条件のもとでも絶対的だという、一見、誰にも否定する事が出来なさそうな、倫理的な視点から見れば実に美しい価値観は、人々をある特定の方向に導くために創作された虚構でしかありません。人命の価値なるものの本質は、人々によって「相対的に」取り決められてしまう運命にある、実に不確実で不安定なパラメタなのです。
 


命について考えるとき、もうひとつ私たちが受け入れなければならない事実があります。命はいつか尽きるものだという事実です。命を尊重することと、命は尽きるという事実に逆らう事とは全く意味が違うという事です。言いかえれば、社会や、それを構成する私たちひとりひとりには「人命を尊重する」一定程度の、つまりは欲望のために人命を奪ったり、潜在的にも人命を危険に晒すような行為をしてはならないといった義務や責任がありますが、だからと言って、自然に尽きつつある人命まで無理に引きとめる義務や責任があるという事にはならない、という事です。

ですから、かつて漢字は読めないなりに日本の首相をつとめたある政治家の、チューブに繋がれてただベッドの上に転がしておかれるような目に会うのはご免だ、といった趣旨の発言は失言でも何でもないのです。そのために公金がじゃぶじゃぶ使われている事実に言及した事も、国や保険制度の財政難を前にした政治家が着目すべき、きわめて真っ当な政治感覚の結果なのです。

そして、彼の発言に対して「命よりお金が大事なのか」といった受け止め方しか出来ないような、いま現在、もはや自力で栄養を摂る事が出来ずに人為的な「装置」で命を繋いでいる人物の関係者の人々がいるならば、それこそ彼らの根底にある価値観や生き様が本当に「お金よりも命が大事」を実践しているのか、私たちは凝視するべきです。

彼らがその生命維持装置の利用料として医療機関から請求されるお金の「全額」を自分たちで支払うために、自分たちの稼いだお金は全てそちらに回し、持てる財産を全て処分し、それでも足りなければ限度額まで借金を重ねてでもその命を救うために歯を食いしばって闘っている人々なのであれば何も言う事はありません。ですがそうでないならば、所詮、彼らの主張する「何があっても金より命」の指す「金」とは、どれだけ浪費されようとも自分たちの腹は痛まない、社会を構成する人々が社会のために積み立てた「他人の金」でしかないのです。
 


恐らく彼らは、とは言っても自分たちが生活していくための「お金」は必要だ、と主張するでしょう。彼らがそう主張した瞬間に、彼らの唱える「金より命」というロジックは崩壊します。生活のために「お金」が必要だと言う事実は、もはや貨幣経済をベースとして人々の生活が成立している現代社会においては、どんなに健康な人々であっても「お金」なくして命の営みを維持して行く事は出来ない事実の裏付けでもあるのです。

もちろん「一般的に」お金は「手段」で命が「目的」であるという関係性を見失うべきではありません。そうであるにせよ、「お金」とは、例えば空気や水と同様に、「命」と切り離してどちらが大事かなどという安易な比較対象にするような、そんな軽々しい扱いが許される俗物ではないのです。
 


終末医療についての議論が為されるとき、例の「失言大臣」がそうであったように、建設的な意見を述べようとする人々の前には必ず「命の選別」や「命と金」というキーワードを盾にしてそれを妨害しようとする人々が現れますが、そのような偽善的な虚構のセオリーに配慮することは無意味です。そんなものに配慮する前に、私たちは、この社会のどこかに今も間違いなく存在するであろう、自然に燃え尽きようとしている命の灯であっても「消してはならない」という人命主義者の過激派が煽る知性に乏しい論理に縛られて、罪の意識から逃れるために現実生活を犠牲にしながらその命を「守らされている」人々の苦しみにこそ目を向け、彼らをその苦しみから解放する事は出来ないのか、について真剣に考えるべきです。

もちろん私は、いわゆる「延命」のみを目的とするような非生産的な医療に公的支援は必要ない、といった結論ありきの立場に立つつもりはありません。私に出来るのは、真に成熟した議論によって社会や人々の意識があるべき姿へと変化して行く事を期待しながら見守る事だけです。

ただ、私たちが今こうしている間にも、この国のどこかでチューブから人体に栄養を送り込むために使われているお金は、ペットボトルの蓋を集めれば救われると言う、そして今こうしている間にもひとつまたひとつと失われているであろうどこかの国の「子どもたちの」命を何人救う事が出来るのだろう、という事に思いをはせる意味について人々が考えることは極めて有意義な事でしょう、とだけ言っておきましょう。

そして最も重要な事は、今のところ口から自力で栄養を取り込める私たちが、ひょっとすると、いつチューブにつながれてベッドに転がされているだけの当事者になるかは分からないという動かしがたい事実から目を背けない事であり、そして私たちに求められるのは、そうなってしまった場合に、いかにして周囲の人々の人生に悪影響を及ぼすことなく、自らの「尊厳」に相応しい命の幕引きを実現するのか、という課題に今この瞬間からでも真剣に向き合おうとする覚悟なのです。


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