1:04 2013/03/17
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File No. 0007:なぜ「フェミニスト」には魅力的な女性がいないのか
西日本のある自治体が「カワイイ区」という名称の仮想行政区を創設して地域振興につなげようと試みたところ、その名称やコンセプトが女性蔑視だと「数人の」市民が苦情を言い立て、有名な女性アイドルタレントが「区長」を退任する、という出来事がありました。

私は公金を使った政策であるこの「仮想行政区」構想そのものについての評価に踏み込む事は控えますが、報道によれば、この「カワイイ区」構想は、そもそも当の女性アイドルタレント側の発案によるものだったとされている点に注目しています。つまり、それが事実なのであれば、「カワイイ区」なるものの創設によって女性は蔑視された、つまり被害に合ったと主張する人々がいる一方で、「カワイイ区」なるものを創設して、その推進に自ら積極的に関わろうとした女性もいた事を示しています。

私は、この「カワイイ区」の創設に因縁をつけた一部の市民のことを、私が心の底から蔑んでやまない「フェミニスト」と呼ばれる一団のメンバーとして定義付ける事にしました。そうする事は、女性全般の権利を確立しようという、恐らく本人たちに言わせる限り「崇高な」理念を掲げて少なくない数の奇妙な意見を主張する「フェミニスト」と呼ばれる人々と対立軸にある「まともな」女性の存在が、間違いなくそこにある事実を明らかにします。
 


「カワイイ区」に批判的な見解を持つ稀少な人々は、「カワイイ区」の創設が「女性はかわいくあらねばならない」という性差別、役割の固定化につながる、と主張しているようですが、仮想行政区の名前に対象物の魅力を表す単語が含まれているからと言って、全ての女性にそうある事を「強制」しているというのは全くひどい言いがかりです。私は、フェミニストと呼ばれる人々が、彼らのその愚かな振る舞いは、例えば「美」という文字が含まれる名前を娘につけた全ての日本人女性の名付け親は「女性蔑視主義者である」と一方的に決めつけて中傷するのと同じである事に気づくだけの知性すら備えていない事を速やかに自覚して、彼ら(彼女たち)に残された人生が救われたものになる事を願ってやみません。

多くのフェミニストの滑稽な主張に反して、それを誰かに「強制する」のではなく、ただ単に人々が、女性にはかわいく、あるいは美しくあって欲しいと「願う」事はその人々の自由です。成熟した民主主義社会に於いては「他者に迷惑をかけない限り」ひとりひとりの市民に、思想や価値観の自由が認められなければなりません。そして「かわいくなりたい」「美しくなりたい」と願う女性の価値観や権利もまた、「別にそうなりたくない」と一生のうち比較的早期の段階で諦めてしまった女性の「諦める」権利と同様に尊重されなければならないのです。

そのような動かしようのない事実を頑なに認めようとしないフェミニストの面々は、なぜそのような狭い了見の人格の持ち主に成り下がってしまったのか。その背景を考察する事は、私たちにとって取り組み甲斐のある作業のひとつに数えられる事でしょう。
 


まず著名な「フェミニスト」と呼ばれる女性たちを見た場合、私たちはすぐに、彼女たちが一般的に、その容姿が性的な魅力に欠けた個体である事に気づくでしょう。たまに標準程度の容姿に恵まれた「フェミニスト」も見かけますが、彼女たちの場合、その言動から、彼女たちの左脳の機能の一部が不自由である事を私たちに強く推測させるので、それらの事も全て踏まえると、やはり「フェミニスト」と呼ばれる人々は、多くの場合、性的な魅力を感じさせない個体という事になります。つまりその事は、かなり高い確率で、彼女たちは男性に魅力的な存在として取り扱われた、端的に言ってしまえば「男に尊重された」経験に乏しい個体群であろうという推測が成り立ちます。

いま私は「性的な」魅力という言葉を使いましたが、これは最もフェミニストの皆さんにバカ騒ぎを始めるよい口実を与えかねない部分ですので、この部分について私たちは丁寧に考察を加えておく必要があります。つまり女性に於ける「性的な」魅力とは何なのか、そもそも女性に於ける「性的な」魅力の存在を認める事は適切なのか、という事です。その存在そのものを否定するのが「フェミニズム」と呼ばれる思想の核心である点にも注意が必要です。
 


私はそうしたテーマについて考察を行うにあたって、生物学的なアプローチを加える事によって極めて有益で説得力のある解を導く事ができる、と考えています。つまり男性が女性を選ぶその選択基準は、その反対のケースと同様に、相手の異性が「自分の遺伝子を後世に残すという目的に適した個体か否か」で決まるという事です。つまりその基準に合致する異性こそが「性的に魅力のある」異性なのです。

そこである「フェミニスト」が提唱した、男性が結婚相手に求める理想の条件、かわいい・かしこい・家庭的・(体重が)軽い の「4K」について考察した場合、まず「かしこい」事と「家庭的である」事が、いずれも育児、教育の場面に於いて、母親として望ましい、優れた資質である事が分かります。

「かわいい」事と「軽い=体型が醜くない」事は、育児や教育の資質とは無関係ですが、自分の遺伝子が、かわいくなかったり体型の醜い女性の遺伝子と結びついてしまう事は、そうして生まれてしまった子どもが優秀な配偶者と結ばれる可能性を著しく低減させるリスク、つまり、自分の遺伝子を次の代に引き渡す事には成功しても、さらにその次の代まで望ましい形態で残す事ができないリスクに直結します。父親にとって(もちろん母親にとっても)自分の子どもの容姿が魅力的である事は、自分の遺伝子が継続的に後の世代まで適切に引き継がれるための重要なファクターのひとつである、という事です。

「フェミニスト」と呼ばれる皆さんが顔をしかめて全身を掻きむしりながら拒絶反応を起こしてしまいそうなこれらの四つの条件は、「フェミニズム」の立場からの位置づけや評価とは無関係に、生物学的には極めて理に適った真っ当な条件なのです。つまり大胆かつ大雑把に言ってしまえば、「四つのK」に当てはまらない項目が多ければ多いほど、その女性は男性たちにとって、あまり積極的には自分の遺伝子を残すためのパートナーとして選択したくない、言い換えれば「性的に魅力を感じない」個体なのです。
 


「フェミニスト」と呼ばれる人々が、ではなぜ「女性が」育児をしなければならないのか、という的外れな論争をけしかけて来ることは容易に推測できますが、ある男性と女性が育児というひとつの大きなプロジェクトにどのような分業体制を敷いて臨むかは、彼らが自分たちで決める事であって、「フェミニスト」の皆さんや私が決める事ではありません。

いま私がはっきりと言えることは、いくつかの考えられるスタイルがある中で、女性が母親として育児に於ける主要な役割を果たして欲しい、と願う男性にとっては、先に挙げた「4K」を備えた女性こそ、まさに女性としての魅力を備えた女性なのであって、あいにくどれも備えてない女性には、「ちょっと言いにくいけど」ランチを一度おごってあげる価値すら見出せないであろうという事実、そして一般的に多くの男性が、意識的にそうしているか否かはともかく、恐らくは生物学的なそれぞれの性における機能差を自然に受け入れた結果として、いくつかの考えられるスタイルの中からその選択肢を選びがちだ、という事実です。

そのような一定の合理性を持った男性の期待に応えた結果、「フェミニスト」と呼ばれる皆さんが頭ごなしに否定する、「何か」を犠牲にしながらも結婚をし、出産をし、立派に育児という偉業を成し遂げた女性は、「フェミニズム」が彼女たちをどう評価しようが、生物学的には「勝者」です。一方で、多くの男性にとって「魅力的」な女性であるためのあらゆる努力を放棄し、「自立」と称して、自分のちょっと変わったアイデンティティとやらに「それって本当にすごく魅力的だよ」と言葉をかけてくれない社会からの「孤立」を推奨するような「フェミニズム」とは、少なくとも生物学的には、環境に適応できない劣った個体群によるひどく惨めな「敗者の論理」なのです。

たとえ一部の「フェミニスト」と呼ばれる人々が社会的にどれほど優れた地位に上り詰めていたとしても、その地位に価値を見出すかどうかは、女性たちのひとりひとりが自分で決める事です。幸福や充実した人生を実現する方法は、何も「地位」や「収入」だけとは限らないし、まして過剰な「地位」や「収入」が誰に対しても「幸福な人生」を保証するものかと言えば、全くそんな事はないからです。
 


自分たちの生物学的な環境への不適合、つまり多くのオスにアピール出来る「性的魅力」の欠如を包み隠すために「フェミニスト」たちが陥りがちな、「自立」と称して女性の「地位」や「収入」にことさら重きをおく独善的な価値観は、彼女たちが自分たちの人生を都合よく総括するためにその内心で抱き続ける分には、一定の価値のある思考の方法ではあるかもしれません。問題なのは、彼女たちがいつだって、彼女たちの思想に共感もしなければ、彼女たちの提唱する生き方を実践しようともしないような女性たち、専業主婦や、男性が女性に期待する「女性像」に近づくために努力が出来る女性たち、を貶めようと試みる事です。

なぜ彼女たちがそうするかと言えば、所詮「フェミニズム」とは、「フェミニスト」たちが、自発的にと止むに止まれずとを問わず自分たちの選択した「風変わりな」ライフスタイルや価値観を正当化するための手段でしかなく、「一般的な」選択をして幸福感を味わっている女性たちに自分たちが見下されないための幼稚な「理論武装」に過ぎないからです。「カワイイ区」という名称に不可解な反応を示す「一部」の市民がそうする理由とは、つまり「カワイイ」という概念そのものが、その人々にとっては、社会に自分たちの生物学的価値がどれほどのものかを再評価する機会を与える、その人々の「プライド」にとってきわめて都合の悪い概念だからです。

それは例えば勉強もしなければ頭も悪い子どもの親が突然学校に現れて「成績のいい子どもを褒めるのは人権侵害だ」と喚いてるようなものです。成績が悪いまま学校を卒業するのはその子どもの勝手だし、そうする「権利」はその子にもあります。その事と、勉強という「努力」をして優秀な成績を残すという「美徳」そのものを否定する事とは全く別次元の話なのです。
 


最後に「4K」について、もう少し私なりの考察を加えておきましょう。私は「4K」を備えた女性が一般的に男性にとって「魅力的な女性」である点に疑いを抱いていませんが、四つの「K」が全て揃わなければダメかというと、全くそのようには思いません。「賢明な」男性であれば、四つの「K」を完璧に備えていながら自分を選んでくれる女性などそうそう見つからない事を知っているし、また女性に四つの「K」が完璧に備わっている事を期待する事が、どれほど相手の女性に対して「負担」という名の悪い影響を及ぼすか、も理解しているからです。

だからもしあなたが「四つのK」を備えている自信がなくて悩んでいるとしたら、まずは、極端にかわいくない、極端にかしこくない、極端に家庭的でない、極端に重い、のいずれにも「当てはまらない」事を確認してみてはいかがでしょうか。「そんなもの、さすがにひとつも当てはまらないわ」と鼻で笑わないでください。著名なフェミニストのババァたちは、それらの特徴のうち二つや三つは当たり前のように該当してしまうのですから。

そして、それらの四つの要素は、いずれも自分の意思で改善する事が可能である点に注意を払うべきです。特に女性の容姿はお化粧や服装で見違えるまでに「カワイク」変わります。お化粧を落とした女性の顔に失望する男たちの話をよく耳にしますが、そのギャップが大きい女性ほど、その女性は「カワイク」あるための「勉強」と「努力」をした事になるのですから、私は常々、彼女たちのような女性こそ男性たちからもっと高い評価を得るべきだ、と考えています。もっとも私が過去に親密になった女性たちは皆、「彼女たちの名誉にかけて」お化粧を落とした顔もとても美しい女性たちばかりでしたが・・・。


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