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File No. 0003:日本社会が直面する高齢化にどう向き合うべきなのか
日本人の高齢化が止まりません。私は人を年齢で一括りにするような「年齢差別」にも通じる考え方は好ましいものとは思いませんが、便宜上、六五歳以上の人々が「高齢者」と定義される場合、ほぼ四人に一人が「高齢者」というのが、日本の現状のようです。

一般的に高齢な人ほど医療費がかかるうえに、彼らが未だに右肩上がりの経済成長を前提として設定された金額の年金を受給し続けているので、実に四人に一人を占める「高齢者」の存在は、今や日本の財政逼迫の最も大きな要因である、とすら言えます。私もいずれ「高齢者」になる事はよくよく理解したうえで、それでも率直に言ってしまえば、「高齢者」は今や日本の社会にとって、とにかくその維持にコストのかかる全く厄介な存在なのです。

とは言え社会には、そのような動かしようのない事実をはっきりと口にする事が憚られるような風潮があります。誰もが、お年寄りは大切にしなければならない、年長者を敬わなければならない、と子供の頃から色々なところで教えられ続けて来たので、誰もその事に疑問も疑いも抱かないようです。なかには当の老人たち本人がその事を「当たり前だ」と思っている節すら感じさせるケースもあります。政治が高齢者医療費の問題に手を着けようとすると必ず一部の老人たち騒ぎ出すのは典型的な例です。
 


高齢者と社会がどう向き合うべきか、を考えるにあたって、まずひとつの非常に分かりやすい事実を提示しましょう。同じ高齢者でも人格者もいればくだらない老人もいるという事実です。その事は若い世代と何ら変わりはありません。若い時にくだらない存在だった人物がそのまま年をとればくだらない老人になり下がるのは当然の事です。ですから、社会はまず、お年寄りだから「無条件に」労らなければならない、敬わなければならない、という妄信から脱却するべきです。年齢ではなく人物そのものを評価する事を放棄する社会とは、それこそ一部の老人が憤慨する「年齢差別社会」以外の何者でもありません。

そのうえで、次に、なぜお年寄りを大切にするべきなのか、年長者を敬うべきなのか、先入観を捨てて考察することが重要です。その答えは概ね、彼らが先人としての知恵や経験を若い世代に授けてくれる「べき」存在である事に帰結するはずです。村の「長老」と呼ばれる立場にあった人々をはじめ、様々なコミュニティの中で後継世代がよりよく生きるための情報源であった彼らは、コミュニティ内で崇められる存在であると同時にコミュニティ内の人々に有益な情報をもたらしコミュニティのメンバーの幸福な生活に寄与する、つまりコミュニティ内の他者と双方向の関係を築き得る存在でした。

ですが非常に残念な事に、今日の日本社会では多くの場合、彼らの知恵や経験は必要とされません。高度な情報化社会において日々情報は新しいものに更新されていくうえに、社会のありようそのものが目まぐるしく変化しているためです。そのような社会にあって、多くの高齢者は変化のスピードについて行く事が出来ないばかりか、一部の老人にいたっては新しいものを見せると「そんなものは分からない」と怒り出す始末です。社会にメリットをもたらさないにも関わらず社会からのメリットは最大限享受する。私たちが目指すべき社会とは、そのような恥を知るべき節操のない人々を、これから減り続けていく一方の若い世代がどこまでも支え続けて行くような、そんないびつな構成の社会なのでしょうか。
 


ただ単に高齢者は身体的な「弱者」だから労るべきだ、という議論があります。私はこの考え方にも与する事はできません。同じ高齢者でも、三〇〇〇メートルを超えるような山にも喜んで登る高齢者もいれば、駅の階段ひとつ満足に上れずに「エレベーターがない」と言って怒り出す老人もいます。身体的「弱者」とは後者のような老人を指すのでしょうが、そうなってしまったのは身体的能力を維持する努力を怠った「自己責任」である事は明らかです。

それでも弱者を労るべきだと主張する人々を私は否定はしませんが、それは個人的な「慈悲」の価値観でしかなく、社会的なコンセンサスとして提示し得るものではありません。ボロをまとって道端に座り込んでいるホームレスの前に置かれたお茶碗にコインを投げ入れるかどうかは個人の自由ですが、それが社会的な規範となる行動とされるかどうかは別問題です。「弱者だから」という理由だけで労りの対象とするべきだという慈悲の価値観は、あくまで個人の自由意思に基づく感情論の範疇でしか成立しえないのです。

私がそれらの一見清く美しい価値観が社会に於ける一般的な価値観として適切でないと考える理由は、そのような価値観こそが、最終的に社会に依存するだけの無価値で堕落した人々を生み出す根本的な原因だと考えているからです。人間とは本質的に「楽な方」に流れる事を好む生き物です。それを後押しするような考え方は、一見道徳的に見えても、実は道徳的に最も強く否定されなければならない愚かな思考のあり方なのです。
 


私がこれまでに提示した、一般的に高齢者に対して厳しいと思われる考察は、もちろんいま現在の少なからぬ高齢者に当てはまるものだと思われますが、むしろ私たち「これから高齢者になる」世代こそが真剣に考えなければならないものでもあるのです。私たちが次世代の人々にとって「必要な」存在でなければ、私たちは彼らに労られる資格も敬われる資格もないのです。いま為すべき努力を怠れば、近い将来、私たちは次の世代が「支えてくれる」事実にたかるだけの、まさしく社会の「お荷物」でしかなくなってしまうのです。

お年寄りと呼ばれる人々の本質的な存在価値や現実を直視せずに、これをタブー視してどこかで聞いたような「敬老思想」を無批判に受け入れるような人々は、恐らくその人自身が年をとった時でさえそれらを直視する事を避け、優先席の前に物欲しそうな顔をして仁王立ちをしながら、自分自身が敬老「される」事を社会に要求し続けるかもしれません。

ですがいつの日か、あくまで冷静で理知的で、かつ現実的な判断によって、社会が自らのよりよい継続と発展のために「老人優遇思想」を切り捨てるという判断を下さない保証はどこにもありません。「お荷物」が「お荷物」でなくなるための努力を放棄するような社会だったなら、たとえ自分自身が高齢者として生きている間にそのような判断を社会が下したとしても、私はその勇気ある決断を支持するでしょう。


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